日本の庭の歴史と見方
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本邦「庭園」の文化史
夢窓疎石と小堀遠州
明治天皇が自ら指示して作った、簡素すぎる庭(二条城の本丸庭園)
岡本太郎の母・かの子が書いた小説『生々流転』は、資産家の池上とくっつけられそうになった女性・蝶子の物語です。蝶子は池上の所有する茶室つきの寮に移り住みます。寮には広大な庭がありました。この作品では、庭の様子がこんなふうに書かれています。
《女の足でも一跨(ひとまた)ぎ出来る渓流を越しますと、向うの渚(なぎさ)の庭石伝いになって、道は石灯籠のわきを通って草木の多い築山の小さい尾根に到ります。ここで池を下手について廻る本径と、上手へ築山の間へ登って行く分れ径とに岐(わか)れております。
わたくしは散歩してこの築山の尾根の下から坂の緩(ゆる)い分れ径を登って行くのが好きでした。その緩い坂はほんの十五六歩ほどの長さしかありませんが、左右に疎(まば)らな草木に挟まれて、登って行くこの径からは世界のどこを歩いて行くのかすっかり周囲の地理的関係を忘れさしてしまうような感じをさす不思議な影響がありました。》
庭の小道を歩くと、自分がどこにいるのかわからないような感覚に落ちいったというのです。周囲の様子がわからず、ちょっと不安になった先に、茶室にたどり着く。これが「露地」の大きな効能です。
千利休は露地を「浮世(うきよ)の外の道」と呼びました。茶室は日常から隔離された「市中の山居」であり、露地は “異世界” へ向かう経路です。その “異世界” への道を歩く客人は、石灯籠が照らすなか、飛石、延べ段、中潜りなどで導かれ、最後に蹲踞(つくばい)という水場で清められます。
江戸時代の作庭マニュアル『築山庭造伝』では、露地について《砂でできた道を歩いて苔庭に出れば、苔の寂しさがひときわ目につく。(華やかな)花壇に行く道は苔むして寂しいのもよい》としており、突如雰囲気が変わることは非常に重要な設定でした。
そんなわけで、今回は日本の庭の歴史をまとめます。庭はいったいどのように作られてきたのか、“異世界” の入口をたどってみます。
池の中心には、たいてい松の茂った蓬莱島が(金沢の兼六園)
風景というのは時季や時代によって変わるものなので、「国宝」に指定されることはありません。
しかし、国宝級の景色として「特別名勝」と呼ばれるものが36カ所あります。ここには「富士山」「十和田湖」「雲仙岳」、あるいは日本三景(「松島」「天橋立」「厳島」)のような自然の風景が含まれますが、庭園のような人工のものも含まれています。
日本三名園といえば、「兼六園」(石川県)、「後楽園」(岡山)、「偕楽園」(茨城県)ですが、じつは偕楽園だけ、特別名勝ではなく「名勝」の指定となっています。ランクが落ちている理由は、都市公園として活用されたため、創設時より大きな改変が加えられているからです。
戦災を免れた「岡山後楽園」の廉池軒。石橋も小島も往時のもの
特別名勝の庭園のなかで、一番最初に指定されたのは、1345年ごろに完成した京都・天龍寺の曹源池庭園です。
この庭園には、夏目漱石も来ています。漱石は、明治40年(1907)、京都を訪問し、京都帝大文科大学(現・京大文学部)の初代学長である狩野亨吉の家に泊まりました。狩野は、『虞美人草』に「27歳の哲学者・甲野さん」として登場し、外交官志望の「宗近君」と天龍寺の庭を見物します。
《甲野さんは蓮池に渡した石橋の欄干(らんかん)に尻をかける。欄干の腰には大きな三階松(さんがいまつ)が三寸の厚さを透かして水に臨んでいる。石には苔の斑(ふ)が薄青く吹き出して、灰を交えた紫の質に深く食い込む下に、枯蓮の黄な軸がすいすいと、去年の霜を弥生の中に突き出している。》(『虞美人草』)
現在ではそばまで寄れないのですが、遠くに見える石橋は、3枚の青石の自然石でできており、日本最古の作例です。右下の石組みは「釈迦三尊石」で、中央が釈迦如来、左に文殊菩薩、右下に普賢菩薩だとされています。
天龍寺・曹源池庭園
また、正面に見えるのが3段の石によって表現した「龍門の滝」です。中国の故事「鯉が滝を遡上し、3段昇り終えると龍に転生する」(『後漢書』党錮伝)をもとにしたもので、いわゆる「登竜門」の語源です。ここでは、鯉が滝を登るように、ひたすら修行を繰り返すという教えを表現しています。
江戸時代、1799年に出版された『都林泉名勝図会(みやこりんせんめいしょうずえ)』を見ると、この滝に大量の水が落ちていることがわかります(現在では枯れています)。そして、龍門の滝には、一般に鯉を表現した「鯉魚石(りぎょせき)」が置かれますが、たしかに中段を見ると、鯉魚石があるのです。つまり、滝から覗く鯉(将来の龍)というわけです。
右下には、石橋に向かって直線的に落ちる滝が(『都林泉名勝図会』)
また、この『都林泉名勝図会』を見ると、曹源池庭園が嵐山を借景にしていたこともわかります。現在では曹源池の鯉魚石はわかりにくいので、とてもわかりやすい金閣寺の鯉魚石を、参考までにあげておきます。
金閣寺の龍門滝と鯉魚石
さて、この名庭を作ったのは、禅宗(臨済宗)の僧侶・夢窓疎石で、700年前の面影をとどめているとされます。
1984年、作家の司馬遼太郎も訪問し、この庭について、
《夢窓は庭園で禅の境地を表現しようとした人で、この庭には禅がもつ抽象性の骨格がふとく組みこまれている。そのくせ、古今・新古今の日本的美意識の世界であり、大和絵そのものともいえる。夢窓という人が、(中略)春の野山のようにおだやかな風韻の人であったろうことが、この庭をみればわかる》(『街道をゆく』嵯峨散歩)
としています。このように、「庭を見れば、作庭者の心まで読める」というのが、庭の楽しみ方のひとつです。
天龍寺は、もともと後嵯峨上皇が設けた離宮・亀山殿でした。その後、後醍醐天皇の菩提を弔うため、敵対した足利尊氏が寺に建て直しました。しかし、当初、尊氏に財産はなく、造営に必要な5000貫文を用意するため、国交がなかった中国の元と貿易をすることになります。庭を作るために、わざわざ外国との交易が開かれたわけです。
この庭は、前述のとおり、嵐山や亀山を背景に取り込んだ「借景式庭園」で、池の周りを歩いて眺めることから「池泉(ちせん)回遊式庭園」と呼ばれています。
■庭の起源
さて、司馬遼太郎は、同書で庭の起源についてこう書いています。
嵯峨エリアに住んでいた秦氏を中心とする渡来人は、当初、山そのものを神としていました。その一つが松尾山です。
《山が神であったしるしは、しばしば山上の遺跡でうかがえる。たとえば、大和の三輪山の山頂付近に、人間の意思でそこに置かれた大小の岩が散在している。ふるくから、「磐座(いわくら)」といわれてきた。『日本書紀』にすでにあらわれている。天から降ってきた神がその岩に憑く。(中略)
三輪山も松尾山も、古代には社殿がなく、山そのものが神の憑り代であり、とくに神との感応部を一点にしぼれば、山頂の磐座こそそうである。古代のひとびとはこの磐座の前で祭祀をしたらしい。》
この磐座が、庭の起源です。山(あるいは巨石)が神になったわかりやすい例が、和歌山県新宮市の神倉神社です。熊野の神が初めて地上に降臨した場所が、ヒキガエルを意味する巨石「ゴトビキ岩」。ここで祭祀をおこなった場所が、庭の始まりです。
神倉神社(和歌山県新宮市)
奈良時代になると仏教が本格的に伝来し、百済からは作庭技術も伝わり、寺社のなかに庭が作られます。中国や朝鮮の使者に対し、「日本のすごさ」をアピールする目的もあり、池や川を作り、そこで大規模な宴を始めます。この時代の特徴としては、曲水という人工の川があげられます。中国では、3月3日、盃を水に流して禊の宴をおこなう「流觴曲水」(りゅうしょうきょくすい)という行事があり、やがて日本にも伝来します。
奈良時代後半は、曲水の宴はおもに宮廷でおこなわれました。『万葉集』には、3月3日、大伴家持が自邸の宴で詠んだ歌が記録されています。
《漢人(からひと)も 筏(いかだ)浮かべて 遊ぶといふ 今日そ我が背子(せこ) 花縵(はなかづら)せよ》(巻19)
大伴家持の自宅に池があったのかはわかりませんが、「池に船を浮かべる」という遊びは相当な金持ちでないとできないのは言うまでもありません。
東大寺本坊の曲水
平安時代になると、曲水の宴は貴族の邸宅でも開催されるようになりました。『御堂関白記』には、寛弘4年(1007年)、藤原道長が自宅の土御門殿で主催したと記録されています。この時代、特に上級貴族はカネ余りとなり、自宅に莫大なカネがかかる広大な池を作って、そこで船を浮かべるようになりました。庭は船から眺めるもので、これを「池泉舟遊式(ちせんしゅうゆうしき)庭園」といいます。
■作庭の基本は「石を立てること」
平安時代後期(11世紀後半)、『作庭記』と呼ばれる体系的な造園マニュアルが誕生しました。作者は橘俊綱と言われますが、確定はしていません。陰陽五行説や四神思想、風水の思想などが採り入れられており、冒頭は《石をたてん事、まづ大旨をこころうべき也》で始まります。作庭では、巨石を立てることがなにより重要だとしており、具体的には以下の3つの理念が示されています。
(1)地形を考慮して、山や水などの自然景観を思い起こし、ああだこうだと思いをめぐらせて石を立てる
(2)昔の名人が作った作例を模範とし、家主の意趣に配慮しつつ、自らの感覚で石を立てる
(3)国々の景勝地を思い出し、その興味深いところを吸収し、素直に石を立てる
当時の造園家は石立僧(いしだてそう)と呼ばれるほど、庭は石が主役でした。もちろん、夢窓疎石もその一人です。
京都最古の庭園・大覚寺の大沢池
池泉舟遊式で名高いのが、嵯峨天皇の離宮「嵯峨院」をルーツとし、京都最古の庭園と言われる大覚寺です。ここには、中国の洞庭湖を模した日本最古の人工池「大沢池」と、藤原公任が《滝の音は 絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ》と詠んだ名古曽滝が残されています。いまでは滝は落ちていませんが、石組は当時のままなので、嵯峨天皇も見たはずです。
大覚寺の名古曽滝跡
大覚寺にも遣水の跡が残っています。参考までに『作庭記』では、遣水は建物の東から南や西に流すべきだとしています。なぜなら四神思想では、東に「青龍」がいるとされており、この龍の水を流すことが最善だからです。
なお、この時代にも庭では儀式がおこなわれており、それを今に伝えるのが「南庭(だんてい)」と呼ばれるものです。寝殿造の南に作られた白洲で、京都御所などが有名です。当然ですが、天皇は南を向くため、紫宸殿の南側に白洲が広がるのです。白洲は「海」や「湖」をイメージしたものですが、江戸時代の裁判所「お白洲」につながっていったとも考えられます。
京都大宮御所御常御殿(天皇の住居)と南庭
■浄土思想を反映
平安時代の後期になると、末法思想から阿弥陀堂が登場します。
極楽浄土への往生を願う浄土思想に基づき、阿弥陀堂(仏堂)の前に大きな池(阿字池)を配し、橋を架け、現世に極楽浄土を再現しています。池が中心なので、当然、「池泉回遊式」です。
白水阿弥陀堂(福島県)
そして、阿弥陀如来は「西方浄土」にいるため、建物も東向きに建てられるようになりました。極楽浄土の再現であり、人々は、東から西に向かって拝むようになりました。この最たる例が宇治の平等院鳳凰堂です。
平等院鳳凰堂
■想像力を鍛える「枯山水」の誕生
鎌倉時代になると、武士社会を背景に、禅宗が隆盛を極めます。その結果、カネのかかる池泉式は敬遠され、質素な「枯山水」へ移っていきます。水を使わず、石と砂で山水を表現し、それを見て想像をたくましくし、内省的な思索にふけるのです。祭祀から遊行の場に変わった庭は、今度は瞑想や精神修養の場となりました。
日本の禅宗は、臨済宗の開祖・栄西が中心人物となりました。
元寇後、基本的には国交のなかった元ですが、文化交流は活発化しました。元からは一流の禅僧が来日し、漢詩、書道、水墨画、印刷などの文化が一気に流入。これが「京都五山」「鎌倉五山」といった五山文化につながります。元は禅僧を送り込むことで日本の支配を狙った可能性もありますが、その真意はともかく、交流によって、たしかに文化は大きく興隆しました。
そうしたなか、栄西は元から「茶」の文化をもたらします。著書の『喫茶養生記』は《茶は末代養生の仙薬,人倫延齢の妙術》という文章で始まります。ちなみに、1214年、源実朝が二日酔いに苦しんでいたとき、この本とお茶一服が捧げられたことで有名になりました。いずれにせよ、この頃から庭と茶の湯が切っても切れない関係になっていくのです。
五山文化の中心にいたのが、前出の夢窓疎石です。歴代天皇からも高く評価され、7回にわたって「国師」号を授与されています。天龍寺だけでなく、京都の西芳寺(ただし現存する庭は当時のものではない)、鎌倉の瑞泉寺の庭園の作者だとされています。
山梨県甲州市に、武田信玄の菩提寺である恵林寺があります。夢窓疎石はここにも庭を作りました。庭は枯山水と池泉庭園を同時に楽しめる構造になっています。ここの枯山水は非常にわかりやすく、海に浮かぶ島が見事に表現されています。
恵林寺(山梨県甲州市)の枯山水
一方、恵林寺の池泉庭園には、仏教の世界観で九山八海の中心にそびえ立つ聖山「須弥山」がとんがった岩によって表現されています。
恵林寺の池泉庭園
室町時代になると、庭園の様式美が確立。有名なのが相国寺です。天龍寺で受衣した足利義満は、将軍になって相国寺を建立、開山はやはり夢窓疎石でした。ちなみに、金閣寺・銀閣寺はいずれも相国寺の末寺です。足利将軍家に仕えた庭師として善阿弥(ぜんなみ)が知られ、特に足利義政に重用されました。銀閣寺の庭には、善阿弥と子どもたちが関わったとされています。
そして、銀閣寺にある洗月泉・お茶の井は、茶室の入口にある清めの「つくばい」の原型だとされ、同時に茶庭の始まりだとされています。
銀閣寺の庭
金閣寺の池には大小さまざまな島が浮かんでいます。池の島は不老不死の「蓬莱島」を筆頭に、「鶴島」「亀島」などがありますが、金閣寺で特筆すべきは日本を模したとされる「葦原島(あしはらじま)」です。実は、金閣から日本を眺めるという壮大な構成なのです。
金閣寺の葦原島
■「絢爛」と「わびさび」の併存
戦国時代になると、庭は猛々しい石の構成が多くなり、豪華絢爛になります。一方で、千利休が確立した茶の湯による「侘び寂び」も登場します。その合体が庭にある茶室です。千利休は、茶庭を自然に即して、あるがままの姿につくることをよしとしました。
しかし、続く古田織部は「ヘウゲモノ」というきわめて個性的な器を用いたように、視覚的な美しさを重視しました。
《色彩豊かな石を用いて、茶庭に華やかな彩りを持ち込んだのも織部である。手水鉢周辺の樹木や飛石の在り方を「声花(はなやか)に妹出(うるわし)て吉」と教え、赤や黄色の実を付けた樹木を常緑樹に交えて植えるのが良しとした。
また直線的な切石を飛石に取り混ぜて敷くことを教えたのも織部である。つまり織部はあるがままの自然の姿を再現することから、自然を造形して茶庭をつくることを示したのであった。》(『造園を読む』)
ちなみに、利休は露地の飛石について「わたり(=飛石の間隔や配石の具合)を六ふん、景気(=飛石のまわりの景観)四ふん」として雰囲気より機能を重視しました。対して、織部は「わたりを四ふん、景気を六ふん」として、雰囲気を重視したと伝えられます。
■作庭マニュアルによる画一化
江戸時代になると、平和を背景に各地に大名庭園が隆盛します。トップクラスに有名なのが、1636年、肥後熊本藩の初代藩主・細川忠利が築いた回遊式庭園「水前寺成趣園」です。東海道五十三次を模したともいわれ、園内には、富士山に見立てた築山もあります。
水前寺成趣園(熊本)
江戸時代後期になると、冒頭で触れた作庭マニュアルが誕生し、日本中にほどよく完成された、しかし似たような庭が大量発生しました。特に大名庭園は画一化が進みます。
江戸時代の名庭といえば、桂離宮、兼六園、後楽園、六義園などが有名です。そして、この時代の作庭家でもっとも有名なのが小堀遠州。造形性を重んじる織部の考え方を徹底して深堀りし、「寂び」のなかに華やかさのある明るい「綺麗さび」を基本としました。代表的な庭として二条城庭園や南禅寺金地院などがあげられます。
二条城庭園
二条城庭園は、豪壮な石組みが特徴です。
《(二条城)の庭は整形花壇を主体としていた。また池の汀線にも石積み擁壁を用いて平面プランを矩形(※ここでは立体の意味)にするなど、直線を主体とする造形思想が明瞭に読み取れる。織部から遠州に受け継がれた茶庭の作庭精神には、自然をいかに人工的に意匠するかを追求する姿勢があった》(『造園を読む』)
ちなみに蘇鉄(そてつ)も使われており、これは南洋植物を入手できる権力と財力を誇示するものとして、大名庭園でよく使われました。
小堀遠州作と伝えられる龍潭寺庭園(静岡県浜松市)
■進化する現代の庭
現代の庭師としては重森三玲がもっとも有名です。枯山水を大胆に再解釈し、モダンな意匠を取り入れています。
足利尊氏は、敵対した後醍醐天皇を弔うため、天龍寺を造りました。その後、戦没者供養と国土安寧のため、夢窓疎石のすすめで全国に安国寺を造りました。広島県の鞆の浦には、安国寺本堂跡が残され、庭も復元されています。庭は、鶴亀蓬莱式で、右手には枯れ滝の石組みが見られます。そして中央にはソテツが。この庭を復元したのが、重森三玲です。
安国寺本堂跡(広島県福山市)
重森三玲は、東福寺本坊庭園で、斬新すぎるタイル状のデザインを採用するなど、作庭に新しい風を呼び込みました。庭は、いまも進化を続けているのです。
東福寺本坊庭園
制作:2026年5月3日
<おまけ>
武田信玄の菩提寺・恵林寺は1330年、鎌倉幕府の要人だった二階堂貞藤が夢窓国師に帰依し、自宅に招請したことで始まります。信玄はこの寺に、美濃から快川国師を招きました。信玄が亡くなると、快川が葬儀をおこなっています。
信玄の死後、武田勝頼が織田信長に追いこまれて自刃すると、武田家は滅亡、信長は恵林寺を焼き打ちしました。火に包まれた快川は「安禅必不須山水 滅却心頭火自涼」と叫んだと伝えられます。安禅は「坐禅」と同義です。つまり、「坐禅は静かな山水の環境がなくてもできる、心頭(=煩悩)を滅却(=消去)すれば、火もおのずから涼しい」ということです。
元は中国の仏書『碧巌録』に収録された言葉ですが、火だるまのなかで叫んだことから、後世によく伝えられました。その後、徳川家康が、焼き打ちから逃れた快川の弟子・末宗禅師に再興させました。そして、恵林寺は柳沢吉保に保護され、吉保の墓地もここにあります。柳沢吉保は、東京に名園「六義園」を残しました。夢窓国師の思いは、時代を超えて、脈々とつながっていたのです。
<おまけ2>
進化する庭という意味では、南禅寺の大玄関庭園も面白いものです。1970年に作られたものですが、廃止になった京都市電伏見線の軌道に敷いてあった板石が払い下げられ、一番くじで選んだ良質の軌道板石が材料になっています。南禅寺には国宝の方丈庭園もありますが、こんな新しい庭も併存しているのです。
軌道板石を使った、南禅寺の大玄関庭園