アジア全域の地図を作れ!
陸地測量部の「秘密測量」

日本水準原点
陸地測量部が設置した日本の「高さ」の基準点


 1902年(明治45年)の春から秋にかけて、中国の内蒙古地区に複数の日本人の姿がありました。
 4月には腸チフスで1人が死に、5月には大吹雪で迷った1人が200m滑落し、谷底で凍死。7月には野犬に襲われ大ケガをした人もいれば、8月には馬賊に襲われ金品を奪われた人もいます。

 当時、内モンゴルでは外国人に対する警戒が強く、地元の王は、外国人への水や燃料(牛糞)の供給を禁止。さらに土地の案内や宿泊も禁止しました。場所によっては「外国人は水源に毒をまく」などの噂が広まり、日本人たちは村から追い出されることもしばしばでした。

 この日本人たちは、いったい何をしていたのか。当時の記録が秘密文書に残されており、そこには馬賊に奪われたものとして「測高験気器」や「路計」などと書かれています。つまりは気圧・高度計やコンパスです。彼らは内密で測量を行い、地図を作っていたのです。全員が陸軍参謀本部の傘下にあった「陸地測量部」関係者で、こうした作業を「秘密測量」といいました。

 今回は、「国土地理院」の源流となった陸地測量部の全貌に迫ります。

高測標(国土地理院)
40km離れた三角点を測るための高測標(国土地理院)


 江戸時代まで、日本の最高権力者は「征夷大将軍」でした。源頼朝も足利尊氏も徳川家康も、みな征夷大将軍。しかし、明治になって征夷大将軍は廃止されます。そこで、国の防衛を管轄する機関として、1869年(明治2年)、「兵部省」が設置されました。幕末までは「国内の治安維持」だけを考えていればよかったのですが、明治以降、「国防」の概念が登場するのです。

 国の防衛を考えた場合、最も重要な情報は「地図」でした。そのため、兵部省の参謀局内に偵察や地図の作成を担当する「間諜隊」が作られます。これが近代的な「陸地測量」の始まり。兵部省はその後、陸軍省・海軍省に分かれ、地図の作成を担当します。一方、内務省にも地理局が設置され、三角測量を全国的に行なう計画がたてられます。
 
 当時、参謀局第5課は「地図政誌課」と呼ばれていました。これは「兵要地誌」とも呼ばれ、軍事作戦のために敵方の地理を把握すること。現在の言葉で言えば「軍事地理学」となります。しかし、現実的には、日本はまだ地図を制作する技術がありませんでした。

兵要地誌の図解
兵要地誌の図解例


 1874年(明治7年)、琉球の漁民が台湾で殺されたことを受け、日本は台湾出兵に乗り出します。しかし、日本は台湾の地理情報をまったく持っていません。このとき、台湾の地図を提供してくれたのがアメリカの外交官だったルジャンドルです。

ルジャンドル
台湾在住の外国人の数を正確に答えたルジャンドル
(アジア歴史資料センター「副島外務卿米国公使並米人李仙得ト台湾一件応接書」)


 ルジャンドルは、米国船ローバー号が台湾で遭難し、乗組員が原住民に殺されたことを受け、現地調査を行っていました。ルジャンドルの証言が残されています。

「砲台を設置し、文官・武官を置くと清国政府と約束したのに、まだ実行されていない。そのせいで、琉球の漁民が殺されたのだから、清国政府は責任を取るべきだ。砲台の代わりに灯台を設置し、文・武官が常駐する町からの道を整備せよ」(国立公文書館「李仙得台湾南部ノ図ニ題スル記文」を意訳)

 ルジャンドルはより厳しい条件を突きつけた上で、「清国は原住民の管理ができないのだから領有権は認められない」として、日本に台湾問題の武力解決を提唱したのです。ルジャンドルはそのまま日本の外交顧問となりました。おかげで台湾出兵は成功し、日本は賠償金を手に入れ、琉球の支配権を確立させます。
 このとき日本は、情報がなければ海外出兵できないことを痛感し、地図の本当の価値に気づくのです。

台湾を進軍
台湾を進軍


 翌1875年、参謀局第5課が地図の印刷を開始。測量担当の第6課は、千葉県の習志野で初の水平曲線式実測地形図を作成します。水平曲線式というのはいわゆる等高線地図のことです。1877年、西南戦争が起きると、第5課は「九州全図」を作成し、第6課は迅速測図班を編成して戦争用の地図を作成しました。

 1878年、参謀局が廃止され「参謀本部」が設置。地図課と測量課が設けられました。翌年から参謀本部は全国の測量に乗り出します。測量課は日本全国の面積を2万5103方里と概算しました。1方里は15.42km²なので、38万7000km²。ちなみに現在の日本の面積は37万8000km²です。

参謀本部
参謀本部


 まもなく「測量軌典」「測量概則」などのマニュアルが制定され、神奈川県相模野に三角測量用の最初の基線が設けられました。当初、地図はフランスの彩色式(渲彩図式)を採用しましたが、すぐにドイツの一色線号図式を採用しました。渲彩図は水を藍色、国有地を淡紅色、学校を茶色など決まった色に塗るので手間がかかるのと、普仏戦争でフランスがドイツに負けたからです。

フランス式外邦図
フランス式の地図「ハノイ」(東北大学自然史標本館)


 1884年(明治17年)、内務省地理局の測量事業はすべて陸軍に吸収され、以後、陸地測量は陸軍の管理下に置かれます。参謀本部は伊能忠敬の地図などを基に「輯製二十万分一図」という20万分の1縮尺による全国地図を作成。同時に、グリニッチ天文台を子午線0度とする経度を採用しました。

 1888年、陸地測量部が独立。「陸地測量を施行して、兵要及び一般の国用に充つべき内国図を製造する所とす」と規定されました。その3年後には、参謀本部前(現在の国会前庭)に日本水準原点が完成し(東京湾の平均海水面上24.5m)、高さの基準が決まりました。

地図記号
「明治33年式図式」による地図記号


 参謀本部は、日本国内の測量と同時に、海外の測量も開始します。しかし、当然ですが、勝手な測量は許されません。最初に測量が許されたのは朝鮮でした。
 1875年、江華島事件が起き、翌1876年(明治9年)、日朝修好条規が締結されます。その第7条はこういう内容でした。

《朝鮮の沿岸は島嶼岩礁が険しく、きわめて危険なので、日本の航海者が自由に沿岸を測量して位置や深浅を明らかにし、両国の客船の安全な航海を可能とする》

朝鮮都府略図
日本の軍人が複写した「朝鮮都府略図」
(明治9年、アジア歴史資料センター)


 海外の測量を「外邦測量」、海外の地図を「外邦図」といいますが、組織的な外邦測量が始まったのは1894年(明治27年)の日清戦争で「臨時測図部」が編成されてからです。

 測地には3パターンありました。
 1つめは新しい領土や日本軍支配地で公然とできるもの。
 2つめは満洲などで、地元の将軍や都督の了解の下、半分秘密に行うもの。
 3つめは支那本土などで、完全な秘密裏に行うもの。これは駐在武官や領事が実施したり、一行商人を装って実施したりしました。これが「秘密測量」です。

 イザベラ・バードは、『朝鮮紀行』で、日清戦争当時の日本の情報力について次のように書いています。

《日本は、正確な朝鮮地図を作成していた。秣(まぐさ=飼料)や糧食、川幅や浅瀬の深さの測量に関する報告書を入手していた。(中略)一方、遥かチベット国境地方の遠くに至るまで、変装した日本軍将校が清国の強弱を測定、評価していた。紙の上の清国軍に就いて、事実上看板だけの銃砲、旧式の穴だらけになっているカロネード砲に就いて報告していた。各州がどれほど多くの男子を戦場に投入できるのか、どのように訓練されたか、どのように武装しているかに就いて、清国人自身よりも遥かに良く知っていた》

測量訓練
日本青年団の測量訓練


 日清戦争での外邦測量は、国内同様、大型で正確な機材を使うのか、小型で簡易な機材を使うのか議論になりました。しかし、地元民に怪しまれることから、秘密測量では正確な測量よりバレないことが重視されました。とりあえず不正確でも、測量を繰り返してより正確にしていけばいいからです。

 測量は、地方に行けば行くほど単独行動になります。当初は売薬の行商人を装うことが多かったのですが、本当の日本人行商人が地元民をだまし悪評が立つことも多く、そうした悪徳商人と同一視されないよう注意も出されています。

《測地は、海岸線や領事館から遠く離れるだけでなく、日本人が行ったこともない場所で活動するので、将来的には老練な医師を各所に配置したい。それはわれわれにとって根拠地の一つになるし、まして軍事的な機関にできれば一挙両得である。表面上は信用ある病院の地方医を装いながら、軍事内偵として使えれば有利な諜報が可能となる。さらに、地元民がその医師との親交で親日になれば、支那内地での活動がしやすくなる》(『外邦測量沿革史 初編前編』より意訳)

 秘密測量に向く人員は、以下の8条件がありました。
・身体強健・意志強固・機智豊富・勤務勉励・足脚健剛・清語約通・医術少通・飲酒少量

『外邦測量沿革史』
『外邦測量沿革史』の現物


『外邦測量沿革史』は参謀本部の超極秘文書ですが、これを読むと、いかに秘密測量が難事業だったか詳細に書かれています。具体的には以下のような感じです。

●1895年(明治28年)台湾
 台南に進む途中、匪賊の攻撃を受けた村を通過。日本人の輸送夫が死んでおり、脳が裂け、眼球が飛び出ていた。虫の息だった病人もいたが、救助する時間はなく、そのまま前進。翌日、通過した別の村は死屍累々で、血を踏んで骨を越えて先に進んだ。(初編後編)

●1899年(明治32年)朝鮮
 木浦(モッポ)では先月、大きな津波があり、これは日本人の仕業だという流言が飛んでいた。日本人が山に登り「明太魚」を埋めると津波が起きるという怪説である。そのため、今回もわれわれが山に登ったところ、作業中に石を投げられたりした。実際、スタッフの一人が群衆に拿捕され、ひどく殴打された。(初編前編)

●1907年(明治40年)満洲
 清国吉林省で、宿泊中の日本人測量隊が14〜15名の匪賊に襲われ、6人が死亡した。器具や食料が部屋中に散乱していた。殺戮の状況はひどく、眼球や掌をえぐられている死体、両耳を切られた死体などがあった。単なる物取りならここまで惨殺する必要はないので、ロシア軍の差し金かもしれない。(第2編前編)

外邦測量沿革史
『外邦測量沿革史』より殺戮の現場図解

 
●1908年(明治41年)中国
 清国南部は伝染病や風土病が多い。腸チフス、赤痢、マラリアなどにかかるものが続出し、総員66名のうち、解雇1名、病死2名、疾病で帰国2名、そのほか45名が何らかの病気になった。健康だったものは上海班・杭州班6名、福州班3名、南京班7名の16人のみだった。(第3編前編)

●1908年(明治41年)樺太
 海岸沿いの地形は断崖絶壁で、密林は倒木が多くなかなか前に進めない。暴風雨でたびたび作業や露営が中断された。ヤブ蚊の襲来が余りにひどく作業は困難だった。近藤岬では高波で船が転覆しそうになり、また露営での寒さと飢えにより、軍艦比叡に救助されることになった。(第3編前編)

●1912年(大正元年)モンゴル
 モンゴル人に衛生観念はなく、茶碗で洗顔するような者さえいる。常に垢まみれで不潔で、それが昼間の高温でさまざまな病気をもたらす。強風により眼病を患う者も多い。それなのに服薬せず、ラマ僧の太鼓の祈祷で治療しようとする。害虫が多いが、特に目に液体をかけるハエがいて、この被害に遭うと5、6時間苦しんで失明してしまう。タバコの脂を目に擦り込み洗眼すると治る。班員1名、人夫1名がこのハエの被害に遭った。(第6編前編)

 日露戦争の勝利で日本は南樺太を獲得しますが、この日露国境を画定するのも、もちろん陸地測量部の仕事です。1914年には、鹿児島県桜島の爆発を受け、初めて写真を使った測量を実施。1927年(昭和2年)には、飛行機による空中写真測量も実施しています。

樺太の日露国境
樺太の日露国境

樺太の日露国境画定委員
国境画定委員会の野営


 陸地測量部は、戦線の拡大とともに規模が大きくなっていきます。1933年(昭和8年)、関東軍の増強にともなって「関東軍測量隊」の編成を準備。1937年には日華事変によって野戦測量隊を編成、1942年には大東亜戦争によって北支・中支・南方に野戦測量隊を編成しています。このころは外地の測量に専念したため、内地の地図発行は停滞状態でした。

空撮写真を利用した地理的調査
空撮写真を利用した地理的調査


 そして、1945年8月、終戦と同時に陸地測量部は廃止され、日本が作った膨大な外邦図は諸外国に流出または破棄されました。
 とはいえ、戦後復興に地図が重要なことは誰もが認めるところで、この年9月1日には内務省内に「地理調査所」が設置され、貴重な資料は散逸から免れました。

 地理調査所は、1960年、「国土地理院」と改称され、現在に至ります。


制作:2017年5月1日


<おまけ>
 測量には多くの基準点などが必要になりますが、大地震が起きると、すべて変動してしまいます。たとえば、日本水準原点は当初、東京湾の平均海水面上24.5mでしたが、1923年、関東大震災によって24.414mとなりました。そして、東日本大震災によって24.39mに変わっています。

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