北海道十勝・幻のゴールドラッシュ

財宝伝説のある丸山
これが財宝伝説のある丸山



 北海道十勝の忠類村(現・幕別町)には、知られざる埋蔵金伝説が残されています。場所は市街地の北部にある丸山で、かつてアイヌの人たちはこの山をチョマナイと呼び、「魔の山」と恐れていました。
 伝説によると、幕末、このあたりを根城にご用船を荒し回っていた海賊船「鬼雷丸」が、松前藩に追われ財宝を丸山に隠したというのです。帰途、襟裳岬沖で難破、大正時代にその生き残り・阿部健白の子孫が息子に秘密を打ち明けたとされています。

 丸山の財宝探しはまず昭和10〜11年におこなわれました。「十勝郷土史研究会」の角田東耕が中心となり、数十万両といわれる財宝を探しましたが失敗。
 続いて昭和30年代の終わり頃にも調査がおこなわれましたが、やはり失敗に終わっています。

財宝伝説のある丸山
昭和10年当時の新聞


 昭和50年(1975)年、大規模な発掘がおこなわれました。地元の木材業者と不動産業者が特殊な埋蔵金測定器を使って調査した結果、丸山の東側中腹にそれらしい反応を見つけたのです。

金属探知機
ちなみにこれが最新式の金属探知機


 2人は「時価100億円の砂金が鹿皮に包まれ、木箱80箱につめられて地下11mに眠っている」と予言し、山腹に深さ23m、幅15m、長さ40mにおよぶ巨大な穴を掘りました。掘り出した土砂はダンプのべ2400台分に及んだと言われています。
 忠類村では1969年にナウマン象の全身骨格が発見されており、もしや財宝も?と期待されましたが、このときも結局見つかりませんでした。

忠類で発見されたナウマン象骨格
忠類で発見されたナウマン象骨格


 実は江戸時代、十勝には知られざるゴールドラッシュが起きていました。歴舟川などで砂金が大量に見つかったからです。 

 蝦夷地の産金の歴史は古く、『大野土佐日記』によれば建久2年(1191)に荒木大学という人物が知内川流域に入って砂金掘りをしたといわれています。ただし、この日記は信憑性が薄く、伝説的だとされています。

 記録に残る最古の金山は、慶長9年(1604)に発見された千軒金山。当時、徳川幕府はすべての鉱山を幕府直営としていましたが、蝦夷地は遠いため、松前藩に下賜されました。
 その後、1617年には松前城の東、大沢から大量の砂金が発見され、さらに各地で砂金金山が次々に発見されました。

 当時の藩主・松前公広は幕府に砂金を献上するとともに、砂金の採掘場を開き、各地から流入してきた大勢の砂金掘りから運上金(税金)を徴収します。
 こうして砂金場は徐々に広がり、松前藩に空前のゴールドラッシュが起きました。当時、金掘り人夫に変装して布教をおこなっていたポルトガル人のカルワーリュによれば、

《4年前から蝦夷に純良な金を豊産する諸鉱山が発見されたので、日本じゅうからそれを渇望する人が毎年夥(おびただ)しくかの大きな国へ渡るようになったことでありまして、その人数が昨年は5万人を数え、本年も3万人以上だろうといわれています》(『北方探検記』)

 当時の松前の人口は1万人程度なので、3万、5万ってすごい数ですな。
 ただし、砂金を見つけるには山中を流れる川の採掘権を買わないといけないので、

《金掘りで富を作った者は至って寡(すく)なく、多くの者はこの国で死ぬか、若(も)しくは儲ける利益よりも、出費の方が多くて失敗します》

 という状況でした。

静内駅
静内駅


 寛永10年(1633)には染退(シベチャリ)川(現・静内川)の流域でも豊富な砂金が発見され、多数の金掘りが日高の地に入り込みました。
 さらに2年後の1635年には砂金場は日高から十勝に広がりました。ちなみにこの年、『松前旧事記』に「戸賀知(とかち)、遠別、産金の業を興す」と記してあるのが、文献で初めて確認される「十勝」だそうです。

 蝦夷地がゴールドラッシュに沸いていた頃、ヨーロッパでは日本に金銀島があると信じられていました。
 寛永20年(1643)、その金銀島を求めてオランダ東印度会社の探検船がジャワ島のバタビアを出航しました。「カストリカム号」と「プレスケンス号」という2隻の船です。

 2隻は太平洋岸を北上して蝦夷地を目指しましたが、途中、八丈島付近で暴風雨に遭い、離れ離れに。結局、カストリカム号1隻で北上を続け、6月7日朝、蝦夷地と思われる山脈と岬を発見。山脈は日高山脈、岬は襟裳岬でした。

襟裳岬
襟裳岬


 上陸して出会ったのがアイヌでした。
《(彼らは)身体は丈が低く、ずんぐりしていて、皮膚は褐色、ゴワゴワした黒い顎ひげが生え、身体全体が黒い毛で深く覆われ、頭髪は頭の前方で剃り上げているが、後方は長く伸ばして頭の中ほどから垂らしていた。酒を飲む時には、口髯を一本の指で掲げるのである。彼らは荒い麻布を着、その上の衣服は毛皮製であった。両の耳たぼに孔があり、そこから糸が垂れていて、あるものは耳に環をつけていたが、それは銅と金の合金だった》(『一六四三年アイヌ社会探訪記ーフリース船隊航海記録』)

アイヌの耳環
アイヌの耳環をニンカリと呼びます。通常は真鍮や鉛や銀で作られました


 前述したカルワーリュもアイヌとの交易について書いていますが、この航海記録こそ、ヨーロッパが初めてアイヌについて記録した文献とされています。アイヌは金銀島の情報とともに世界に伝えられたのです。

 ブームに沸いた蝦夷地の砂金採取に終止符が打たれたのは、1699年に起きた蝦夷地の争乱、いわゆるシャクシャインの蜂起でした。シャクシャインは松前藩への抵抗を呼びかけ、和人の交易船や砂金場の金掘りを次々と襲撃。松前藩は金掘人夫まで動員して防戦に努めました。

 この事件をきっかけに松前藩は徹底した秘密主義をとり、他藩の船を蝦夷地の港に近づけないようにしたほか、蝦夷地での砂金の採取を禁止します。ゴールドラッシュを生んだ蝦夷地の砂金掘りは、こうして幕末まで途絶えることになりました。

 忘れられていた黄金伝説をよみがえらせたのは、幕末、五稜郭に逃げ込んだ榎本武揚でした。榎本武揚は明治になってから開拓使で北海道の鉱山を巡回し、鉱物資源の調査をおこないました。

 明治30年頃には十勝の歴舟川が砂金採取でにぎわい、さらに道北の頓別川流域のウソタンナイ川、ペーチャン川でゴールドラッシュが起きるのです。
 おそらくですが、こうしたゴールドラッシュの記憶が丸山の黄金伝説につながっていくのです。

 そんなわけで俺も丸山に登ってみたよ。

丸山神社
頂上の丸山神社

丸山神社
頂上からの眺め


 いざ、丸山を掘って埋蔵金を探そうと思いましたが(発掘には許可が必要です)、見つかったのは、すばしっこい鹿と何やら動物の大腿骨? やっぱり黄金は簡単には姿を見せてくれないのでした。

鹿 大腿骨
ちなみに4月末頃に生え替わる鹿の角は数万円で売れるらしいぞ



制作:2010年10月1日

<おまけ>
 砂金掘りの元祖・荒木大学は知内で採取した金を使って鶏の置物を作り、アイヌに攻められたとき、その置物を寺の井戸に埋めたという伝説が残っています。『大野土佐日記』によるとこの寺はすでに廃寺となった真藤寺(まふじでら)とされています。明治45年、この寺の跡から3体の地蔵が発見されたことで、金の鶏を探す財宝ハンターも多かったそうです。

<おまけ2>
 砂金でゴールドラッシュが起きた歴舟川河口から大樹町の旭浜近辺には、旧日本軍のトーチカが点在しています。アメリカ海軍が日本本土にやってくることを考えると、たしかに北海道の太平洋側にまで防御態勢を取る必要があるわけですが……今から思うと、なんだか空しい気がしますね。
トーチカ
点在するトーチカ
 
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