函館「五稜郭」の誕生
知られざる「四稜郭」と「七稜郭」へ


五稜郭
五稜郭


 小学校、中学校といった「学制」は、明治5年(1873)に始まりますが、このシステムを起草した一人が「大学南校」で教鞭をとっていた瓜生寅です。同年、瓜生寅は、瓜生三寅の名前で全8巻の日本地誌『瓜生氏日本国尽』を刊行します。ここには、日本全国の地図や風景が、ざっくりとした筆致で描かれています。

 この本のなかに、開港したばかりの函館(箱館)のイラストが挿入されています。


函館図
函館図


 扇のように広がった半島の、中央に見える山(ヤクシ山)が、いまの函館山です。函館のよく見る夜景は、この山から眺めているわけです。左手には「タチマチ」とあり、いまの立待岬を指しています。

 右手には「ヤマセトマリ」とあります。この地域に吹く冷たく湿った風を「やませ」といい、海を荒らし、冷害の元凶ともなる迷惑な存在です。ところが、函館山がこのやませを遮ることから山背泊(やませどまり)という地名が生まれました。函館港は、この函館山のおかげで、あまり海が荒れないことで知られます。

 上の函館図で、もう一つ注目したい場所が、函館山の麓に並んだ旗の立った建物です(赤い◯)。これは、開港後の函館に作られたイギリスやフランスなどの領事館を示しています。このあたりは高台にあるため、眺めがいい場所です。実は、もともと江戸幕府が作った箱館奉行所もこの近辺にありました。北辺防備の拠点として、眺めのいい場所を選ぶのは当然の話です。

函館の旧イギリス領事館
現存する旧イギリス領事館


 アメリカのペリーが艦隊を率いて浦賀に来航したのは、1853年です。翌1854年、再来航して、3月に幕府と「日米和親条約」を締結し、下田と函館の2港の開港が決まります。ペリーは、すぐに下田から函館に向かい、実地調査に乗り出します。ペリーは、函館港について、「入港しやすさと安全性において、世界でもっともよい港の一つだ」と語っています。

 日本の開国を知ったイギリスも、素早く条約締結に乗り出し、1854年10月、「日英和親条約」が成立します。この流れを見逃さなかったのがロシアとオランダで、日露和親条約は1855年2月、日蘭和親条約は1856年1月に結ばれます。

ペリーと交渉する松前藩
ペリーと交渉する松前藩
(『ペリー提督日本遠征記』/フィラデルフィア美術館HP)


 同じように条約を結びたかったのはフランスですが、フランスはなかなか条約を結ぶことができません。そこで、意図的にかどうか不明ですが、フランスの軍艦は何度も日本に「救援」を求めます。1855年6月、シビル号が「病人がいるので上陸・養生、および薪・水・食料等の供給を許可してほしい」と要請。日本は人道的な見地からこれを許可します。フランスはさらに6月にウィルジニー号、7月にコンスタンチーヌ号を同じような理由で上陸を要請します。
 
 8月、上陸して静養中だったコンスタンチーヌ号の士官が、箱館奉行所の人間にこんな話をしました。パリの城の周囲には12〜13もの砲台があり、大砲3000門はじめ多くの武器で守られているため、敵に侵入されることはない、というのです。
 
《我国都パレイス(=パリ)王城は陸地にて3、4里四方有之、其(その)外面2里半又は3里程隔り周囲礮台(=砲台)12、3ヶ所、いづれも土塁にて砂と土と交へ築立、大砲3000門其外数多小筒等も備有之、聊(いささかも)外寇の患無》(『佛朗西船碇泊日記』)

 当時、パリの城の多くは五稜郭のような「星型」要塞でした。そして、媚びを売るためか、この士官は「図面や陣形のルールをお見せしよう」と誘うのです。こうして、幕府は最新の軍事機密を知ることになります。

箱館山の頂上からみた市街
箱館山の頂上からみた市街
(『ペリー提督日本遠征記』/フィラデルフィア美術館HP)


 一方で、多くの外国船が函館沖を航行する状況は、安全保障を考えれば深刻な問題でした。函館山の麓にあって眺めのいい箱館奉行所は、逆に言えば、外国船の砲撃で一発で落とされる可能性が高いのです。さらにいえば、函館山から敷地を覗かれやすいのも問題でした。こうして、幕府は箱館奉行所の移転を考え始めます。移転先は、上の函館図にある「亀田」が有力候補となりました。

 この場所であれば、函館港と外洋の両方を監視でき、また海岸を警備する南部・津軽・松前・仙台・秋田藩などの陣屋への連絡もしやすいのです。こうして、新たな奉行所として五稜郭の建造が始まります。

五稜郭に作られた箱館奉行所
五稜郭に作られた箱館奉行所


 外国船への警備は、松前藩にとっても重大な問題でした。そこで、1855年、藩の前線基地として築かれたのが、「松前藩戸切地(へきりち)陣屋」です。険しい崖に守られた丘にあり、函館平野や函館湾を見渡せ、大砲による守備戦を有利にする「稜堡(りょうほ)式城郭」。簡単に言えば日本初の「星形要塞」です。

 4つの稜を持つこの城をわずか5カ月間ほどで作ったのが、砲術家・正蔵を父に持つ藤原主馬です。主馬は江戸に留学し、洋学者・佐久間象山から砲術や築城術を学びました。星型なら、突出部に大砲を置けば敵に十字砲火を浴びせることが可能で、防備の死角がなくなります。


日本初の「星形要塞」松前藩戸切地(グーグルアース)
日本初の「星形要塞」松前藩戸切地(グーグルアース)


 一方、五稜郭を設計したのは、蘭学者の武田斐三郎(あやさぶろう)です。武田は、大洲藩士の子として生まれ、大阪にあった緒方洪庵の適塾で学びました。まもなく西洋兵学を志して江戸に移り、こちらも佐久間象山に師事しました。

 1853年末、ロシアのプチャーチンが長崎に来航すると、幕府は、箕作阮甫(みつくりげんぽ)と武田を通訳として派遣。実力を認められた武田は、翌年、蝦夷地巡検となり、そのまま箱館奉行所に勤務することになりました。このとき、函館にやってきたペリーと応対。ちなみにペリーの通訳ウィリアムズは、武田のことを「私が見た日本人のなかで最も容姿がよかった」とイケメンぶりを記録しています。

 当時、西洋城塞の研究書は意外に多くありました。前野良沢が翻訳した『和蘭築城書』(1790)以降、『防海要論』『築上典型』『用礮軌範(ようほうきはん)』などなど数多く翻訳されたのです。そのうえで、武田は前述のコンスタンチーヌ号の士官からも知識を伝授されています。

建造前の打ち合わせ(五稜郭タワー)
建造前の打ち合わせ(五稜郭タワー)


 さた、開港で無防備となった函館を守るべく、防衛施設の建造が急がれ、武田に監督が任されました。立待岬などへの施設建造も考えられましたが、武田は、五稜郭と、函館湾の入口に当たるに弁天岬の台場を優先して作ることになりました。弁天岬は、上部の函館図の中央にある部分(黒い◯)で、円形の謎の物体が描かれていますが、これが石造の台場です。1856年に着工し、1860年にはほぼ完成しました。

 五稜郭は1857年に工事が始まり、1864年完成しました。掘削は鋤(すき)・鍬(くわ)による手掘りで、運搬はもっこ・馬車です。盛土の突 き固めは、丸太の先でひたすら叩き続ける「千本突き」「蛸(たこ)突き」によりました。
 
工事の様子(五稜郭タワー)
工事の様子(五稜郭タワー)


 なお、弁天台場や、五稜郭の土木工事を請け負ったのは、兵学を学んだ松川弁之助です。実は、五稜郭にはきちんと上水も敷かれていました。松川は、川の付け替えをおこない、掘削した人工の川で現在の「願乗寺川」を作りました。


五稜郭の水道(東京都水道歴史館)
五稜郭の水道(東京都水道歴史館)


 実は、函館には「五稜郭」だけでなく「四稜郭」「七稜郭」なども残されています。現存していないものでは、五稜星形の「大野口台場」などもありました。

 明治になり、五稜郭は新政府に引き渡されます。しかし、箱館戦争(戊辰戦争)が起き、1868年(明治元年)10月、北海道に上陸した榎本武揚ら旧幕府軍は、土方歳三の部隊と大鳥圭介の部隊に分かれ、函館に進軍し、1週間ほどで五稜郭を占領します。

 このとき、新政府軍の攻撃に備えて作られた防御陣地のひとつが「四稜郭」です。五稜郭の北方約3kmにあり、函館を一望できる台地に存在しています。実は、五稜郭の鬼門に当たる北東には鎮守である北海道東照宮があり、これを守るために作られたとも言われています。


四稜郭
四稜郭


 さらに、函館の北方には「七稜郭(峠下台場)」も残っています。こちらも新政府軍の進攻に備えて築かれた城塞で、駒ケ岳から函館市街、函館湾が一望できる場所です。大鳥圭介の情報から、台場山が防御の鍵を握ると考え、フランスの軍事顧問ブリューネの指導で築いたとされます。ブリューネは、映画『ラストサムライ』のモデルです。

七稜郭
七稜郭(たどり着くの大変!)

七稜郭の解説図
山頂にあった七稜郭の解説図


 また、資料的な根拠はありませんが、北部へ向かう街道ぞいの比遅里神社は、三稜郭の跡ではないかとも言われています。これについては疑問の声も出ていますが、現在は想像で三稜郭らしきものが復元されています。

比遅里神社
比遅里神社(右奥に三稜郭らしきもの)


 こうした防御施設がたくさん作られるなか、箱館戦争で五稜郭はその難攻不落ぶりを見せつけます。しかし、結果として、新政府軍の猛攻に敗れ、榎本武揚が作った「蝦夷共和国」の夢は瓦解するのです。

 五稜郭を作った武田は、「幕末のレオナルド・ダ・ビンチ」と呼ばれるような多彩な人物でした。たとえば、地元の砂鉄に注目して、「古武井溶鉱炉」を築造。さらに、イギリス船を見学して知った「カツヘル」(ストーブ)を日本で初めて試作に成功。この技術をもとに、1859年には、西洋式の帆船「亀田丸」を作ってロシアまで航海しています。

 一方で、1856年、函館に創設された学問所「諸術調所」で、航海術・砲術・化学など科学技術を中心とする実学教育をおこないました。身分を問わなかったため、全国から優秀な生徒が集まりました。生徒には、後に郵便制度を作った前島密、鉄道の仕組みを作った井上勝、工部省(東京大学工学部の前身)を作った山尾庸三などがいます。

 日本の近代化は、武田斐三郎がその下地を作ったと言っても過言ではないのです。

戦前の五稜郭
戦前の五稜郭(撮影日不明)


制作:2024年1月27日


<おまけ>

 榎本武揚が「蝦夷共和国」(箱館政権)を樹立したときの歓喜が『雨窓紀聞』上巻に記録されています。

《12月15日、函館港軍艦および砲台において全島平定を賀し、101発の祝砲あり。昼は満船5色の旗章をひるがえし、夜はまた市街に花灯をかけ、そのにぎわい最壮観たり》

 しかし、箱館政権は予算難に苦しみ、住民に重税をかけるようになります。商人はもちろん、賭博や風俗営業、さらには山菜採りの入場料のようなものまで徴収する始末。市民のあいだには不満がたまり、市中にニセガネが出回り、「遊軍隊」と呼ばれるテロ組織まで登場します。遊軍隊は、五稜郭の水道を切断するなど攻撃を繰り返し、結果、蝦夷共和国はわずか5カ月で瓦解したのです。

<おまけ2>

 五稜郭の入口には「武田斐三郎先生顕彰碑」が建てられています。斐三郎のブロンズ製のレリーフがあり、頭から顔にかけてピカピカに光っています。これは、武田が博学だったことで「頭をなでると頭がよくなる」との伝説が生まれ、修学旅行の生徒たちが触りまくるからだと言われています。作家の司馬遼太郎は、斐三郎に対し《あやしげな西洋兵術通》ときわめて低い評価を下していますが、まぁ客観的に見れば、優秀な人物だったのだろうと思われます。

武田斐三郎先生顕彰碑(五稜郭)
武田斐三郎先生顕彰碑
 
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