「餓死」という戦争
ガダルカナル島へ行く
けっこう怖いジモティの女の子
2007年4月2日、マグニチュード8.0の大地震が南太平洋のソロモン諸島を襲いました。報道によれば、被災者は約5000〜5500人とされていますが、まだ詳細は判明していません。東北大学の調査によれば、津波の高さは最大約6mに達したそうです。
で、知らない人も多いと思うんだけど、ソロモン諸島の首都ホニアラは、ガダルカナル島にあります。
ガダルカナル島といえば、第二次世界大戦の激戦地の1つです。
海岸にうち捨てられた日本軍の輸送船
簡単に言うと、敵国オーストラリアを孤立させるために立案された「米豪遮断作戦」において、
・ニューギニアのポートモレスビー攻略(MO作戦)
・ニューカレドニア、フィジー、サモアの攻略(FS作戦)
の2つが計画されました。で、FS作戦の前線基地として、ガダルカナル島に飛行場が作られたわけです。
昭和17年(1942)7月、日本軍はガダルカナルに上陸し、航空基地の建造開始。その完成直前の8月7日、アメリカ軍が上陸し、激戦が始まりました。
ジャングルを開く日本軍
星条旗が翻ったガダルカナル島
激戦とはいえ、日本軍の補給は続かず、島に残った陸軍兵は見殺しにされました。鬱蒼としたジャングルのなかで、飢えとマラリアで兵士は次々と餓死していきます。
以後、ガダルカナルは「餓島」と呼ばれることになります。
その惨状は、たとえば次のように書かれています。
《屍臭といたる所に垂れながす糞便のため、蠅が無数に殖え爆弾であけられた赤土穴には、スコールが溜りぼうふらの温床となった。マラリアは風土病と重なり飢餓に苛まれた身体をどしどし斃していった。飢のため餓鬼のごとく米を欲しがる数日が過ぎると、顔は黄色にはれむくみ、飯の顔を見るのが厭になる。とくに身体から水分がぬけ、容貌がシワだらけにしぼむと、それが最後であった》
(山内七郎『ガダルカナル』より。半藤一利『遠い島ガダルカナル』より孫引き)
また、兵士の間には、寿命を予測する“ノウハウ”もありました。
・立つことのできる人間は、寿命30日間
・身体を起こして座れる人間は、3週間
・寝たきり起きられない人間は、1週間
・寝たまま小便する人間は、3日間
・ものを言わなくなった人間は、2日間
・またたきしなくなった人間は、明日
(小尾靖夫の陣中日記『人間の限界』12月27日の項より。こちらも『遠い島ガダルカナル』より孫引き)
結局、日本軍は1943年2月7日に撤退を完了させます。投入された陸軍兵士3万人。撤退した日本軍は1万人。死亡した2万人のうち、戦闘死は5000人、そして餓死は1万5000人にのぼりました。
さて、本サイトの管理人は、1995年10月にガダルカナルに行きました。そのときの写真を公開しておきます。
(なお、ガダルカナル島は今回の地震の震源から350kmほど離れているため、大きな被害はなかったようです。しかし、同じ国の住民が被害に遭ってるわけで、早期の復旧を祈るばかりです)
首都ホニアラのメインストリート
わびしい市場
首相官邸
ジモティの少年
広大なジャングル
慰霊碑
いやー、実はガダルカナルってとっても遠いんですよ。成田から2回乗り換えて、ちょうど24時間もかかりました。
で、はっきりいって日本人なんていないので、町を歩くたびに奇異の目で見られてけっこうツラかったっす。
ソロモン諸島では、かつて首狩りや食人の風習があったんですよ。なんか、俺も首狩られそうで、正直言うと居心地の悪い島でした。
帰国して、そのまま38度の熱が出て、しばらく俺は寝込んでしまったのでした。
余談ながら、ガダルカナルの空港には、戦時中アメリカ軍が飲んでいたコカコーラの瓶がおみやげに売られていました。片や餓死して、片やコーラを飲みながらの戦争。これじゃ、残念ながら勝負になりませんね。
制作:2007年4月9日
<おまけ>
本サイトが資料提供した書籍『帝国海軍が日本を破滅させた』によれば、この戦いは補給を放棄し、陸軍を見捨てた海軍に全責任があるとされています。
ただし、海軍も一応、補給は行いました。しかし低速の輸送船はガダルカナルに近づくことができず、高速の駆逐艦を使って細々としかできませんでした。この駆逐艦輸送を、アメリカ軍側は「東京急行」と呼び、日本側は「ネズミ輸送」と称しました。
なお、旧日本軍は1942年6月のミッドウェー海戦とこのガダルカナル戦の敗北で、戦局の主導権を完全にアメリカ軍に奪われます。そして以後、敗戦へと突き進むのでした。
これが「東京急行」と呼ばれた駆逐艦輸送