半装軌車(ハーフトラック)の世界

日本の半装軌車
日本の半装軌車


 バイクメーカーだった本田技研は、1963年、初めての4輪車を発売します。それが「T360」です。

 当初、ホンダはスポーツカー「S360」の開発を進めていましたが、専務の藤沢武夫が「4輪車の需要は商用車のほうが多い」「バイクの販売店でも売れる車」という点を考慮し、軽トラックが優先されました。

 この「T360」は、北海道や東北など雪の多い地域では、スノーモービルや雪上車両の代替になることも考慮されていました。こうして生まれたのが、冬になると、前輪にスキーをはめ、後輪をキャタピラ(クローラ)に置きかえられる「T360スノーラ」です。360ccのエンジンで30馬力、雪上の最高速度は時速45kmでした。

T360スノーラ
T360スノーラ(日本自動車博物館)


 こうした、前輪が通常の車輪、後輪がキャタピラの車を「半装軌車(ハーフトラック)」と呼びます。トラック(track)は「履帯(キャタピラ)という意味です。キャタピラは「無限軌道」とも言うので、「半無限軌道式自動車」ともいいました。

 ホンダは、その後もいくつか半装軌車を発売しますが、あまり売れることもなく、現在では市場から撤退しています。また、たとえば矢部自動車が農業用、加藤製作所が林業用の半装軌車を発売しますが、現状、市場はほぼ存在しないのが実情です。


加藤製作所のF801
加藤製作所のF801(公式サイト掲載のカタログより)



 第一次世界大戦では、戦車が活躍し、半装軌車も野砲などで一部使われましたが、近代的な自動車として実用化したのは、フランス人の自動車技師アドルフ・ケグレスでした。ケグレスはロシア帝国の皇帝ニコライ2世の御料車技師として仕え、雪深いロシアの冬でも走行可能な車両の開発に取り組みました。1909年、半装軌車が世界で初めて完成します。こちらも、時速45kmだったと言われています。

アドルフ・ケグレス
アドルフ・ケグレス(フランス国立図書館「Gallica」より)


 ケグレスの技術は、フランスの自動車メーカー「シトロエン」に引き継がれます。シトロエンは、ケグレスの特許をもとに、雪上や泥濘地など、通常の車両では走行困難な場所でもスムーズに移動できるケグレス・ハーフトラックを開発します。

 半装軌車は、悪路でも移動できるほか、高い積載能力も誇れるものでした。これは、キャタピラが路面からの衝撃を吸収するため、車体に大きな負荷がかかりにくく、結果として重い貨物を積むことができるのです。

 シトロエンは、このケグレス・ハーフトラックの技術力の高さを示すため、サハラ砂漠で実地使用することになりました。当時、サハラ砂漠はほぼ全域がフランスの植民地でしたが、内陸部の詳細は多くが不明でした。そこで、探検により、シトロエンの名を知らしめるだけでなく、アフリカの文化や生活様式を調査するのも目的の一つとなりました。

 サハラ砂漠を縦断すると言っても、簡単ではありません。

 サハラ砂漠は、昼夜の気温差がきわめて大きく、日中は50度を超えることもある灼熱の地です。そのうえ、水源が少なく、長距離を移動するためには大量の水を携行しなければなりません。さらに、道が整備されておらず、野生動物に襲われる危険もあります。はたして、探検はうまくいくのか――。

 シトロエンは、植民地への遠征ということで、軍の監視下で探検をおこなうことを条件に、5台の車両を提供することを申し出ます。うまくいけば、陸軍への自動車販売も進むわけで、シトロエンにとってかなりの好条件です。

 探検隊のリーダーは、すでにサハラ砂漠を縦断したことがあるフランス軍の将校ルイ・オードワン・デュブレイユと、シトロエンの販売責任者ジョルジュ・マリー・アールトが務めることになりました。残りのメンバーは、カメラマン、イラストレーター、地理学者、整備士など合計10名でした。

 5台の車両には、判別しやすいように、それぞれ名前がつけられました。指揮車は「黄金のビートル(甲虫)」号で、残りは「銀の三日月」「空飛ぶ亀」「アピスの牛」「這う芋虫」といった具合です。

各車のロゴ
参加した絵師アレクサンドル・アイコレフが描いた各車のロゴ(ウィキペディアより)



 探検隊は、1922年12月17日、アルジェリアの町トゥーグラを出発し、途中で砦や町の間を移動し、食料・水・燃料を補給していきました。途中、闇夜でキャタピラが動かなくなったり、砂嵐に襲われたり、はたまた崖から落ちそうになりながら、不眠不休で疾走を続けました。

 スーダン国境近くでは、大きなトラブルがありました。

 後続車両2両が離れてしまい、先導車が位置を示すため照明弾を発射。ところが、降りてきた照明弾は乾いた草地に落ち、たちまち火災が起きました。火はあっという間に燃え広がり、ドライバーは火に閉じ込められないよう先へ急ぐと、そこに火に驚いた動物の群れが突進してきました。

 クリスマスには、タマンラセット(現在のアルジェリア)に待機していたサポート隊が支援物資を届けてくれました。

スーダン付近での様子
スーダン付近での様子(「Gallica」より)



 シトロエンの創業者アンドレ・シトロエンは、探検が3週間で終わると見積もっていました。実際、探検隊が運んでいた郵便物がトンブクトゥ(現在のマリ)のフランス軍司令官に届けられ、ミッションが完了したのは、1923年1月7日のことです。移動距離はおよそ3200kmにもなりました。

 しかし、探検隊は2月10日、そのままもと来た道を引き返し、出発地まで戻りました。帰着したのは3月6日です。

 探検中のエピソードでよく知られるのが、現地民であるトゥアレグ族との邂逅です。トゥアレグ族はサハラ砂漠を中心に生活する遊牧民で、探検隊に地形や水源、風の向きなどを教えてくれました。また、砂嵐や車両の故障が起きた際は、協力を惜しまなかったと記録されています。探検隊は砂漠の真ん中で長老と会見し、正式な歓迎を受けることになります。

 さて、シトロエンは、その後、さらにアフリカの奥地への探検を企画します。

「黒い巡洋艦隊」記録映画の宣伝ポスター
「黒い巡洋艦隊」記録映画の宣伝ポスター(「Gallica」より)



●中央アフリカ探検「黒い巡洋艦隊」(サハラ縦断と合わせて「Croisière Noire」と総称)
(アルジェリア〜マダガスカル)
 1924年10月〜1925年6月。8台のハーフトラックで、アルジェリアのコロン・ベシャール(現在のベシャール)を出発し、サハラ砂漠を横断してチャド湖まで。さらに南下してコンゴ川に到達し、最終的にはマダガスカルまで。アフリカ大陸を北から南まで約2万kmを走破。

「黄色い巡洋艦隊」宣伝ポスター
「黄色い巡洋艦隊」宣伝ポスター
(フランス文化省ほか「L’Histoire par l’image(映像で見る歴史)」より)



●中央アジア探検「黄色い巡洋艦隊」(Croisière Jaune)
(ベイルートから東進、天津から西進して合流、最後は北京へ)
 1931年4月〜1932年2月。ベイルートからのパミール隊は、ヒマラヤ越えの際、断崖絶壁を通過するため車両を分解して運んだ。一方の中国隊は、新疆で起きた反乱のため、抑留される事態に。全14台で、約4万kmを走破。

アジア探検で使われた半装軌車
アジア探検で使われた半装軌車(「Gallica」より)


●北極圏探検「白い巡洋艦隊」(Croisière Blanche)
(カナダのエドモントン〜フォート・セント・ジョン)
 1934年7月〜10月。5台でロッキー山脈制覇を目指すも、増水した川を渡る際に3台が水没。残りの2台も破棄され、失敗に終わる。この年は頻繁に雨が降り、土がガンボウと呼ばれる粘着性のある泥に変わったことが敗因でした。

「白い巡洋艦隊」
「白い巡洋艦隊」(ウィキペディアより)


 半装軌車は、実際には使いにくいこともあり、民間というより軍での使用がもっぱらになっていきます。

 そもそも、最初に開発されたロシアでも、陸軍が大規模に使用を始めています。その後、ドイツ、フランス、アメリカ、そして日本で使用されました。日本では、一式半装軌装甲兵車が有名です。量産は1944年になってからで、主戦場の大陸やフィリピンで活躍することはほぼありませんでしたが、戦後、日本に残された車両が、東京都のゴミ収集車に改造されたと伝えられています。

T360スノーラのキャタピラ部分
T360スノーラのキャタピラ部分(日本自動車博物館)


制作:2024年9月15日

<おまけ>

 2020年、シトロエンは1922年のサハラ縦断から100周年を記念して、2022年に再びサハラ砂漠を縦断すると発表しました。
最初に参加したハーフトラックのレプリカに加え、電動自動車も参加して、100年前と同じルートをたどる予定でしたが、その後、実現したという話は伝わってきません。おそらくコロナ禍で中止になったのだと思われますが、ぜひチャレンジを見てみたいものです。

アフリカ探検で使われた半装軌車
アフリカ探検で使われた半装軌車(「L’Histoire par l’image」より)
 
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