1963年の「スーパーエリート」養成論
超英才教育の誕生
2013年5月17日、安倍首相が「世界に勝てる大学改革」を発表しました。
《人材も、資金も、すべてが世界中から集まってくるような日本にしなければ、「世界で勝つ」ことはできません。今、世界で活躍しようと考えて、日本の大学を選ぶ若者が、世界にどれだけいるでしょうか? 「世界大学ランキング100」というものがあります。日本の大学は、残念ながら、2校しかランクインしていません》
大学ランキングは複数あって、安倍首相がどのランキングを念頭に置いてるかわからないんですが、「タイムズ・ハイヤー・エデュケーション」2012年版によれば、日本の大学は東大27位、京大54位と低迷しています。それを、
《今後10年で、世界大学ランキングトップ100に10校ランクインを目指します。同時に、グローバルリーダーを育成できる高等学校も、作ってまいります》
と宣言したのです。まさにグローバル時代のエリート教育宣言ですな。
明治以降、一気に先進国に追いつくため、日本では、政治、経済、科学技術など各方面の指導的人材を養成することが国家的な課題でした。つまり、一高や東大といった高等教育は完全に少数に向けたエリート教育だったのです。
ところが、戦後、急速に教育が大衆化するなか、1960年頃には高校進学率が6割に達しました。当然、教育はエリート養成から、大衆のレベル底上げが目的とされていました。
こうした多数に向けた教育は、人材の画一化、没個性化を進めます。ですが、戦後復興から高度経済成長に時代が進むなか、ロボットのような人材は経営者から評価されたのも事実です。
ところが、豊かさが限界になってくると、次第に高い能力を持つエリートを育てたいと産業界が思うようになります。この提案が、経済審議会が1963年に公表した『経済発展における人的能力開発の課題と対策』というもので、要は上位3%の「ハイタレント」を育てようというものでした。
トップレベルの才能を《早くその適正を発見し、早く系統的な教育を与える必要がある》。
個人活動は必要なく、チームワークが大事というのはいかにも日本的ですが、悪平等からの脱出という意味では画期的な提案でした。
そんなわけで、『経済発展における人的能力開発の課題と対策』から重要部分を引用しておきます。これが、戦後唯一のエリート教育論なのです。
簡単に内容をまとめておくと、以下の通り。
・教育が大衆化してバカが増えた
・年功秩序と終身雇用が崩れ始め、人材の流動化が始まった
・こうした状況下、経済発展に貢献する「ハイタレント」の養成が急務に
・ハイタレントは国民の全階層からなるべく早く見つけて育てる
・対象は国民の3%、広くとっても6%
・天才や職人は不要で、チームワークを重視。社会的責任感がないと危険人物になりうる
(なお、原文は促音が使われておらず、「行つた」「したがつて」などとなっていますが、これは現代風に修正してあります)
『経済発展における人的能力開発の課題と対策』
(経済審議会・人的能力部会、1963年)一部抜粋
第2章 人的能力開発の課題
(4)能力主義の徹底
学歴についてみれば、戦前のわが国においては、急速に先進国に伍してゆけるような国力をつけるために、政治、経済、科学技術等各方面の指導的人材を養成することが国家的な課題であったので、高等および中等教育はすぐれた少数のエリート教育の性格をもっていた。
その役割は時代とともに変ってきたが、一応戦前までは、これらの高学歴者は、名実ともにエリートととしての資質をもっており、学歴尊重の対象たりえたと思われる。
しかし戦後の教育改革と社会経済現象の複雑化は、学歴の意味を大きく変えたというべきである。旧制中学への進学率は昭和初期において15%程度であったが、最近の高校進学率は6割程度に達しており、(昭和)45年には7割を越えようと予想されている。
もはや中等教育は一部の者のためではなく、国民の大部分を対象にするものになりつつある。
また、大学についても、昭和15年当時50校足らずであったものが最近は250校(短大を含まず)に達しており、その就学率は10%程度になっている。
学歴偏重の客観的基盤が変化してきたといっていいであろう。
わが国公私の組織体を支える年功的秩序と終身雇用的慣行についても、その基礎は崩れつつあるとみられる。
わが国でこのような秩序と慣行がとられたのは、先進国より遅れて、しかも急速に発展するために必要とされた各種の人的能力を確保することと、国民の伝統的な秩序意識をとりこみ、これを利用して工業化を進めるためであった。
そして従来の技能体系が多年の経験による熟練を主体にしていたことと、一般的な不熟練労働力の供給過剰という諸条件があったために、それらの存在の必然的意義があったと考えられる。
しかし、今や技術革新に伴う技術、技能の体系は必ずしも年功的なものではなくなりつつあるし、労働力需給の基調も構造的な変化をみせつつある。さらに、戦後の民主教育により旧来の経営家族主義的な秩序意識になじまぬ層が増大しつつある。
労働力移動増大の経済的要請は、移動に関する社会的心理的偏見の変革も必要としている。従来終身雇用的慣行によつて子飼いの従業員の忠誠心に依存してきた経営者も、労働力不足の現状において、他企業から技術者、技能者等の労働者を中途採用する必要性に当面している。
またそのような慣行になじんだ労働者側も、終身雇用制を基盤とする企業別組合の限界を認識しつつある。
さらに、社会一般の労働力移動に関する偏見、すなわち転職歴の多い者に信頼をおかぬかのような意識も、移動円滑化の経済的必要性の下において、その変革を要請されているというべきであろう。
これら諸条件の歴史的変化は、新しい基準による人の評価、活用のシステムを要請している。端的にいえば、教育においても、社会においても、能力主義を徹底するということである。
教育についていえば、戦後の教育改革は、教育の機会均等と国民一般の教育水準の向上については画期的な改善がみられたが、反面において画一化のきらいがあり、多様な人間の能力や適性を観察、発見し、これを系統的効率的に伸長するという面においては問題が少くない。
その関連で問題になるのは、有名校への集中によって生ずる浪人問題であり、また同一教育段階における学校間の大きな学力格差の存在である。これらは学歴偏重という社会的風潮に教育がわざわいされた結果現われた問題とも考えられるが、いずれにしろ人的能力の適正な開発という観点から改善を要するところである。
教育における能力主義徹底の1つの側面として、ハイタレント・マンパワーの養成の問題がある。
ここでハイタレント・マンパワーとは、経済に関連する各方面で主導的な役割を果し、経済発展をリードする人的能力のことである。
教育が普及した反面、それぞれ特色ある教育を行ない、ひいてはこれらの優れた人材を養成するという体制が十分ととのっていないうらみがある。しかしダイナミックな技術革新時代において、自主技術を生み出す科学技術者、新技術を取り入れ新市場を開拓していくイノベーターとしての経営者、複雑化する労使関係を円滑に処理していくべき労使の相当高度な能力を持った人間の重要性が高まっている。
学校教育を含めて社会全体がハイタレントを尊重する意識を持つべきであろう。
もちろんハイタレントの重視が封建的な特権階級形成に堕さぬよう留意する必要があるが、政治、社会の諸方面に民主的諸制度が定着しつつある戦後においては、悪い意味でのエリートは生れない基礎ができていると言ってよかろう。
と同時に、ハイタレント自身も自らの社会的責任の重要さを認識すべきである。ハイタレントのために必要とされた素質、教育、経済的条件、機会等は個人の努力だけによって得られたものとは限らないし、ある意味ではハイタレントは社会的資産である。
第2部 戦略的マンパワーの養成と中等教育の完成
第4章 人間能力の適正な開発とハイタレント・マンパワーの養成
第1節 まえがき
科学技術の進歩や経済発展を主導するハイタレント・マンパワーの意義は、すでに各所でふれたごとく、ダイナミックな技術革新時代においてことのほか重要になっている。したがって、これらハイタレントの養成問題はわが国の発展にとって緊要のことといえよう。
ハイタレントの性格は、先天的な素質と後天的な経験や努力によって形成されるものであるが、素質を発見し、系統的に開発する教育の意義は、ハイタレントの養成上重要とせねばならない。しかるにわが国戦後の教育は、形式的な機会均等の普及にかなりの進歩がみられたが、マンパワーの素質や能力を発見し、これを開発するという面においては欠ける点が少なくなかった。
そこで、この観点から現状の問題点を分析し、あるべき改善策を考察するのが本章の課題である。
第2節 国民能力とハイタレント・マンパワーの関係
ハイタレント・マンパワーの問題は独立した問題ではなく、全国民の能力の開発活用状況と密接な関連がある。いわば国民能力(ナショナル・マンパワー)の中での正しい位置づけのもとで考えなければならない。各国の経済発展の段階と、国民能力のどの部分に重点をおくかということの間には関連があり、教育努力の教育段階別配分には三つのタイプを区分できると思われる。
第一は、後進国型とでもいうべきものであって、制度的にみると、初等教育が低調であり、中等教育ははとんど手薄であり、全体の重点が高等教育へかかっている。これは先進国の技術をマスターするためにこうなるのである。
第二は、過渡的なタイプとでもいうべきものであって、初等教育に第一の重点がおかれつぎに高等教育が重視され、中等教育が手薄になっているものである。ヨーロッパ諸国の現況がこれであって、教育経費の配分をみると、初等教育が70、中等教育が20、高等教育10というふうになっている。したがって、ヨーロッパ諸国では、中等教育にもっと投資することが課題になっている。
第三は、先進国型であって、初等教育は完成し、中等教育も相当進み、今後は高等教育に重点をおこうとしている段階にある。アメリカやソ連がこれであって、教育費の配分は、初等教育60、中等教育25、高等教育15という形になっている。
それでは、日本はどうかというと、初等教育65、中等教育20、高等教育15という配分状況から考えて、過渡期型と先進国型の中間にあるといえよう。
日本経済の発展段階は中進国といわれるが、教育の段階を経費の配分状況からみればヨーロッパより進んでいるともいえる。経費の配分のみからその国の教育のすべてをおしはかるわけにはいかないが、いずれにしろ、日本の教育への高い努力が、わが国の高い経済発展をもたらしたことは否定できない。
そこで、わが国で今後どの部分に重点をかけるということであるが、初等教育は完成していると考えてよいし、今後その学令人口がへることも併せ考えると、中等教育か高等教育かという段階にあるといえよう。
ハイタレントの養成は、直接的には高等教育の問題になるがナショナル・マンパワーの観点からいって、そこに重点をかけていいかどうかということである。現実の問題として、一方には高校急増の問題があり、他方では産業界からの高等教育充実の要望がある。これを大局別にみてどう判断するかが、ハイタレント問題をどう取扱うかの基本的な問題となる。
このような観点から考えて、わが国の中等教育はもっと充実されて然るべきだと考えられる。確かに高校への進学率は高まっているが、生徒1人当りの経費は十分にかけられていない。教育内容の充実が必要な段階である。それはハイタレント養成の重要性から考えても、ハイタレントは大学教育の充実によってのみ養成されるのではなく、その底辺をなす中等教育の充実により、幅広い層の中から選び出され、育てあげられるべきであることにつながっている。
ハイタレントというと、すぐに大学教育のことが問題になるかの傾向があるので、あえて以上のような観点を強調しておきたい。
なお、ハイタレントを養成するための特別の大学を設置することは、上述の観点からも、またその大学に入る学生が現状のもとでは地域別、階層別に偏るおそれがあること、特権階級養成のおそれがあること、巨費を要することなどの理由からも、時期尚早と考えられる。
第3節 ハイタレント養成の前提と原則
(1)ハイタレント養成の前提
ハイタレント養成問題を考えるに当り、まず前提として以下のことが必要になる。
第一は、第1章でも述べたごとく、社会、産業、企業および職場で、本当にハイタレントが活用されなければ意味がないということである。
わが国では、偶然的に活用不足の例があるというよりは、社会的な慣行として能力を尊重し、活用する面で欠陥がある。これは教育投資の損失としても問題があるし、社会的な緊張の原因ともなる。またハイタレントの活躍期間をできるだけ長くするような環境を作ることも大事である。
ハイタレントの能力発揮の時期が、ある年令から急激に落ちる例があるが、これが環境のためであるとすると、やはり教育投資の損失ということになる。
第二は、ハイタレントの養成量を考えるに当り、長期間、経済的な観点からの需要予測が必要なことである。需要に対して平衡がとれていない供給は
多くの問題を生む。
第三は、教育や職業の選択は自由であるから、需要予測に基づいてぴったりとこれに等しい供給を計画したのでは需要計画にくるいが出る可能性があ
るので、予備的余裕も考えて計画を立てなければならないということである。
この場合、国民の何%をハイタレントたる素質があるものと考えるかという供給限界の問題、どれだけを制度的なハイタレントの養成コースに入れるかという問題が関連している。
(2)ハイタレント養成の原則
ハイタレント養成の具体的な問題に入る前に、その間題を考えるに当っての原則を明らかにしておかなければならない。
第一は、ハイタレントは国民の全階層の中から発見し、開発されなければならないということである。この原則は、教育の機会均等という社会的正義(social justice)からくる。貧困層、あるいは国内の低開発地域の子供達の中には、ハイタレントたる素質があっても能力以外の要因で発見、開発されない事例が少くない。これは社会的正義に反することであるから、その解決のために、育英制度等の合目的な充実と、より基本的には、低所得層をなくすための経済、社会政策が必要になる。
第二の原則は、ハイタレントの発見はなるべく早く行われるべきで、そのように努力しなければならないということである。これは国民的効率(national efficiency)の問題であり、この効率と前述の正義とをどう組み合すかが基本的な問題となる。
第三の原則は、ハイタレント養成の機関は高等教育が中心となるが、これだけに問題をしぼってはならないということである。ハイタレントは大学教育によって突如として生れるのではなく、山の山頂は厚い裾野の上にあって初めて確固たる存在を得るように、国民の幅広い教育の中からくみ出される。
したがって、初等教育から高等教育まで、系統だって考えなければならない。
また、現在高校卒業生のうち18%(36年度学校基本調査)程度が大学に進学しているが、高校がかなり普及しているため高校生の中で真に大学進学に値する素質のある者が必ずしも大学に行けず、職場に直接入っているものがかなりあると思われる。
大学進学が必ずしも能力だけできまらず、経済的要因が大きいためでもあるが、とにかく、大学に行かない潜在的ハイタレントのために、社会においてもハイタレントの発見と開発ができやすいような環境が作られることが必要である。中学からの就職者にも同様の問題があろう。
いずれにしろ、高校は大学につながるという意味で、また、高校の普及がかなり進んでいるという意味で、高校はハイタレントのたまりと考えられるところであり、そのあり方はハイタレント問題から考えても重要である。
第四は、教育の限界ということである。大学教育でハイタレントの完成品をつくることはできない。将来ハイタレントとして活躍できる基礎を与えるにとどまる。したがって産業社会でもひきつづきハイタレントの開発に努めるべきであって、そこでの開発も重要な意義を持つ。能力に応じた評価活用、移動しやすい環境などが重要である。
第4節 ハイタレントの概念規定と性格
ハイタレントとは何か、というのが本節の問題である。
ハイタレントの内容は、真の独創性をもって科学技術を進歩させる人、あるいは産業社会の組織の主導層であるが、その範囲は狭く考える説とかなり広く考える説があって、定説はない。
狭く考える説の例としては、産業界の組織のトップクラスにあって組織を動かす者とし、そのような人は各組織にせいぜい10人位しかいないとするようなものがある。
広く考える説としては、大学に入っている者または大学に入る能力のある者をすべてハイタレントとする。この考えからいけば、最近の日本では大学、短大の第1年次に20万人以上在学生がいるが、これがハイタレントということになる。
第三の考え方は、同一年令層のうち、知能検査等で判定して、上位3ないし5%がハイタレントだとする。(狭く考える説として、アメリカのボールズ博士は2%、コナント博士は3%としている。このうちのどれをとるかは検討を要する問題であり、目的によって目的によって範囲は異るがあまり神経質になる必要はない。本当に独創的に優れた業績をあげるハイタレントは少数であるが、これにつながるやや幅広い層(準ハイタレントともいうべきもの)の存在が究極のハイタレントを生み出す前提になるから、両者をあわせてハイタレント問題を考えるべきであろう。
各国における議論もあわせ考えると、狭く考えて3%程度、これに準ハイタレントの層を入れて5ないし6%程度が検討の対象になると考えてよいのではないか。
しかし社会の発展につれてハイタレントの内容も変ってくるから、あまり固定的に範囲を考える必要はない。ハイタレントの性格は、専門分野によって異るが、およそ以下のようなものが考えられる。
第一は創造力である。先駆者的な仕事ができる人、自ら考えたこと企画できる人であって、知能の問題が関係する。
第二は、いわば闘志を持っている人ということである。頭だけが良くてもハイタレントたるの実はあげられない。逆境にあって不屈の意思の面も重要である。
第三は、ハイタレントの能力発揮の場は、これからはチーム・ワークによる場合が多いから、指導力と協調性が必要となる。古い時代における天才的、職人的な英才は現代の社会では問題にならない。個人活動であってはならない。組織におけるハイタレントとしては、この面がとくに重要であり、いわゆる管理能力はこれに当る。
第四は、ハイタレントには社会的責任感が必要だということである。科学技術者が扱っているものの中には戦争にも平和にも使えるものがある。組織のリーダーは、その組織を反社会的な方向に動かすことができる。ハイタレントに社会的責任感がなければ社会の危険人物になるおそれがある。
ハイタレントの性格を以上のように考えれば、かなり後天的なものが重要な要素になっていることがわかる。また、その要素は知能や学力だけに限られないから、ハイタレントの養成には、単に学問を教えるということだけでなく、教師と学生、あるいは学生相互間の人間的な接触を通じ、人格形成していくことも重要である。
なお、ハイタレントの内容としては、学問や技術を対象にするマンパワー(科学者、研究者、独創性ある技術者。当然人文科学も含む。)と、社会現象を対象にするマンパワー(企業や官庁の経営管理者層、労働組合の主導層等)の二種類が考えられるが、学校教育との関連で考える場合、学問や技術を対象にするグループの問題が重要となる。
なぜなら、社会の組織の主導層が形成されるには、先天的に優れた素質のほかに、後天的、経験的なタレントもかなりの程度重要であり、それは学校教育のベースにはのりきらない問題だからである。学問や技術にたずさわる人については、早くその適性を発見し、早く系統的な教育を与える必要がある。しかし社会で活躍する人は、とくにそのようなことをする必要はなく、社会に出てからの経験や努力も重要な要素になる。
制作:2013年6月10日