鯨油の歴史
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「鯨油」の経済史
石油で消えた幻のエネルギー
江戸時代の捕鯨(『日本山海名物図会』)
有名なコーヒーチェーン「スターバックス」の名前は、米国の作家メルヴィルの小説『白鯨』に出てくる一等航海士「スターバック」から採られました。
そのスターバックは、作中で冷静沈着な人物として描かれています。
たとえば、甲板で乗員全員が集められた場面。白鯨に片足を奪われたエイハブ船長が、船員たちに向かってこうあおります。
「わしをちょん切って、わしを永遠のあわれな片輪者の船乗りにしたのは、あの呪わしい白い鯨だ! そうだ、そうだとも! わしはやつを追いまわすぞ、喜望峰をめぐり、ホーン岬をめぐり、ノルウェイの大渦巻きをめぐり、地獄の奈落をめぐり、追いまわし、追いつめるまで、わしはあきらめんぞ。よいか、おぬしら、おぬしらをこの船に乗せたのもそのためだ! あの白い鯨を大陸の両側の海ばかりか、世界の七つの海に追いまわし、黒い血糊(ちのり)を吐かせ、横倒しにするためだ! さあ、どうだ、おぬしら、これに手をかすか? おぬしらは剛の者と見うけるがな」(岩波文庫版)
これに対しスターバックは、冷静に船長をいさめます。
「わたしがここにおりますのは、鯨をとるためでして、船長の復讐に手を貸すためではありません。たとえあなたの復讐がうまくいったとしても、鯨油にして何バレルになるでしょうか。ナンターケットの市場では、さしたるもうけになりませんよ」
白鯨(ウィキペディアより)
この当時、世界中の捕鯨業者が、鯨を捕っては鯨油を生産していました。ランプの明かりの燃料にするためです。
では、いったいどうやって鯨油を作るのか。
1838年、三陸海岸沖で漂流した「長者丸」という船は、アメリカの捕鯨船に救助されました。
長者丸に乗っていた水夫の次郎吉は、その後、5カ月にわたってアメリカの捕鯨の現場を見ることになります。『蕃談』という本によれば、船上でのマッコウクジラの鯨油製造はこんな感じです。
(1)頭部の皮をはぎとり、頭に穴を開けて脳みそをくみ出す
(2)下あごと頭を切り落とす
(3)皮と肉の間にサスベリという刃物を当て、船上のろくろで鯨を回転させ、果物の皮をむくように鯨の皮を剥ぐ
(4)鯨の肉と骨は海に捨て、皮と脳みそを煮立てる
(5)油こしで、不純物を除いて、油を手に入れる
10mちょっとの鯨1頭で、150樽もの油を採ることができました。マッコウクジラの脳天には油が大量につまっており、この油をひしゃくで汲み取っておくと、自然に固まって良質のロウが採れました。
鯨の好都合な点は、鯨油を採った残りかすを、油を煮るための薪として代用できたことです。無駄な薪を船に積む必要がなく、効率よく油が採れました。
和歌山県太地港に引き揚げられたセミクジラ
捕鯨は、ノルウェーでは9世紀にすでに行われていましたが、11世紀ごろ、バスク地方(スペインとフランスの間)で本格化します。乱獲によって、17世紀半ばには大西洋の鯨は取り尽くされ、まもなく主要な捕鯨ポイントは太平洋に移っていきます。
その流れのなかで、当時カメハメハ3世の統治下にあったハワイ(サンドイッチ諸島)が捕鯨の主力基地になっていくのです。ここには各国の船舶が集まり、船の修理や補給、鯨油の商船への搬入などが大々的に行われていました。
鯨油を積んだ商船の行き先は、ヨーロッパとアメリカで、ロンドンでは特に鯨油が高く売れることで有名でした。次郎吉を救助した船では、水夫の給料が14〜15ドルのところ、ロンドンに行けば1人500ドルのボーナスが出るだろうという水夫の会話もありました。
アメリカの捕鯨基地は、ボストン近郊のナンターケット島とニューベッドフォードです。次郎吉を救った船は、ナンターケット島から出航していました。『白鯨』の「ピークォド号」は、ニューベッドフォードが基地で、スターバックはナンターケット島出身です。
クジラの解体(人間の小ささに注目)
19世紀になると、アメリカは世界最大の捕鯨国になりました。アメリカは、1万8000人が乗り込む7000隻以上の大船団を持っていました。そして毎年400万ドルを使って700万ドルの利益を上げるのです。
クジラの豊かな漁場がある日本近海には、毎年700隻あまりの外国船が来ましたが、その3分の2はアメリカ船だったといわれています。アメリカの立場に立てば、ハワイの先の捕鯨基地として日本に開国を要求するのも、当然の話でした。
『白鯨』には、
《もしあの二重にかんぬきをかけた国、日本が外国に門戸を開くことがあるとすれば、その功績は捕鯨船にのみ帰せられるべきだろう。事実、日本の開国は目前に迫っている》
と書かれています。『白鯨』が出版されたのが1851年、そしてペリー艦隊が最初に日本にやってくるのがその2年後です。
日本近海に外国船があふれたことで、漂流した日本人漁民が救助される事態も急増しました。そのなかで最も有名なのがジョン万次郎です。ジョン万次郎は1841年、アメリカの捕鯨船「ジョン・ホーランド」号に救助され、ハワイ経由でニューベッドフォードに行きます。
そして、捕鯨技術を学び、その後、日本に帰国。開国後の1859年、幕府の「鯨漁御用」となり、日本にアメリカ式の遠洋漁法のやり方を広めます。
それまで日本では沿岸の鯨に網をかけて殺す漁が主流でした。
一方、アメリカ式は、母船から手こぎボートに乗ってクジラを追い込み、銛や槍で殺します。遠洋漁業の導入で、日本の捕鯨量も徐々に増加していくのです。
日本の網取り式捕鯨(『日本山海名物図会』)
アメリカでは、1859年に石油採掘が始まり、ゆっくりと捕鯨が下火になっていきます。実は、19世紀も終わりになると、日本沿岸のマッコウクジラとセミクジラはほぼ捕り尽くされており、費用対効果が著しく悪くなっていたのです。
1897年(明治30年)、明治政府は日本近海で操業する外国捕鯨船に対抗するため、遠洋漁業奨励法を発布して、ノルウェー式の近代捕鯨を導入します。ノルウェー式はエンジンのついた捕鯨船から「捕鯨砲」で鯨を仕留めるやり方です。これで、泳ぐ速度が速く、なかなか仕留められなかったナガスクジラも一気に減っていくのです。
ノルウェー式の「捕鯨砲」
なお、日本で初めて鯨の解体・処理をすべて母船で行う「母船式捕鯨」が始まったのは、1934年のことです。日本捕鯨(現在の日本水産)がノルウェーから買入れた捕鯨母船「図南丸」が南氷洋で実現しました。
図南丸
西洋では、鯨油はランプの燃料以外には使われませんでした。
一方、日本では、鯨油は薬や調理油以外に、農業の必需品としても扱われていました。田んぼの水に鯨油を張って、稲についたイナゴを落として殺したのです。鯨油がなければ、蝗害によって凶作がはるかに増えただろうと言われます。
クジラは、肉・軟骨・内臓は食用、歯やヒゲは工芸品、筋は弓の弦、さらに血も脂も薬用に重宝されました(シーボルト『江戸参府紀行』によれば、ヒゲはサラダにすると美味しく、便秘薬としても有効だったそうですよ)。
こうして、日本では、石油が登場しても捕鯨は終わることはなく、長く続いていくのです。
クジラのひげと銛(函館市北洋資料館)
鯨油が工業的な価値を持ち始めたのは、20世紀初頭のことです。
鯨油は、ヒゲクジラ類から採れるナガス鯨油と、ハクジラ類から採れるマッコウ鯨油に分かれますが、厳密な違いはおいておくとして、いかに工業化されていったかを見ておきます。
ほかの魚の脂に比べると、鯨の脂はそこまで臭いはきつくありませんが、長く置くと不飽和脂肪酸によって悪臭を放ちます。しかし、この臭いは固体化すると消えることがわかり、1909年、イギリスで初めて「鯨油石鹸」が登場します。同年、ドイツでは「鯨油マーガリン」が登場しています。
さらにロウソク、塗料、シントレッキス(界面活性剤)、グリセリン、ポマード、化粧品の材料となっていくのです。こうした鯨油の活用は、圧倒的にドイツが抜きんでていました。
鯨油の脱臭は、工業化を進める上で必須の技術でした。実は、ニッケルと水素ガスを加えると鯨油は白くなり、固形の牛脂のようになって臭いも消えます(硬化油)。この脱臭と色抜きの技術はかつて日本にはなく、やむなく生の鯨油を輸出して、加工品の石鹸などを輸入する時代が長く続きました。
硬化油の圧縮機
統計によると、1934〜1935年の世界の鯨油生産高は以下の通りです(農林省『鯨油及鯨革ニ関スル資料』、1939年による)。
ノルウェー 20.9万トン
イギリス 21.7万トン
アルゼンチン 9万トン
日本 7万トン
アメリカ 4万トン
それが2年後には、日本は32万トン、アメリカは14万トンに急増します。他国はほとんど変化がないので、まさにこの時期、日米で鯨油の工業化が始まったと言えるでしょう。
保存されたクジラの脂肪
鯨の皮は、皮革製品にも使われました。特にマッコウクジラの頭皮は緻密で、非常に役立ちました。
1937年には日中戦争が始まっており、鯨皮は軍隊に大量納入されていきます。そのうえ、輸入が減ったことで、政府は皮革使用制限を出します。
どういうことかというと、カバンやマント、バックへの「皮」の使用禁止です。同時に、靴や馬具、自転車のサドルへの「牛皮」も使用禁止となりました。つまり、靴や馬具、サドルには馬、羊、豚、サメ、そして鯨の皮が使われるようになったのです。
戦時下、日本では鯨のさらなる活用法が検討されました。そして、ついに、鯨の脂から洋服が作られるようになったのです。
脂肪分から鯨油を除去
開発したのは理化学研究所の石田義雄博士です。マッコウクジラ、シロナガスクジラ、ナガスクジラの脂肪を圧搾機にかけて鯨油を取り去り、残ったものをバラバラにし、脱脂と裁断をして、最後に柔軟加工すると、万能繊維ができあがるのです。
当時、1万頭のクジラを捕っていた日本では、事実上、無尽蔵の「コラーゲン繊維」でした。
クジラのコラーゲン繊維
日本は、1950年代、世界最大の捕鯨国となりました。この時期は通称「オリンピック方式」と呼ばれる「早い者勝ち」捕鯨競争があり、クジラ資源は激減します。
1982年、すべての商業捕鯨がモラトリアム(凍結)となりますが、日本は1988年まで商業捕鯨をつづけ、国際的な批判を浴びることになるのです。
母船の鯨油製造工場(1950年代)
現在、日本に残された捕鯨基地は、北海道の網走、函館、宮城県の石巻市鮎川、千葉県南房総市和田、和歌山県太地町の5カ所のみとなっています。
たとえば千葉県の和田に行ってみると、たしかにクジラ料理は食べられるものの、とりたててモニュメントもなく、ひっそりとトイレにクジラが描かれている程度です。
和田の公衆便所
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捕鯨の歴史
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クジラの解体
制作:2014年9月1日
<おまけ>
2011年3月、ハワイ沖の海底で捕鯨船「ツー・ブラザーズ号」の残骸が見つかり、モリや鯨油をつくる釜などが確認されました。
この船は、『白鯨』のエイハブ船長のモデルとなったポラード船長のもの。ポラード船長は1821年、「エセックス号」に乗っているとき、南太平洋でクジラとぶつかって沈没。このエピソードが『白鯨』になりました。その後、ツー・ブラザーズ号で航海に出たものの、座礁して再び沈没。これを機に捕鯨をやめたといわれています。