東洋一の「星製薬」とアヘン事件
「マラリア薬」「モルヒネ」「コカイン」の国産化

星製薬
星製薬


 大航海時代、ヨーロッパ人のアジア進出を阻んだ大きな壁が、蚊が媒介する感染症マラリアでした。
 南米ペルーに自生するキナという植物がマラリアに効くことは17世紀から知られていましたが、成分を薬にまで精製する技術はありませんでした。  
 ようやく19世紀の初頭、キニーネというアルカロイド成分の分離に成功、これがマラリアの特効薬となったことを受け、東南アジアの植民地化が進みました。

キナの皮
キナの皮


 ペルー原産のキナは、その後、オランダ領ジャワに移植され、20世紀初頭にはジャワ産が世界市場を独占していました。
 どうしてペルー原産の植物がジャワ島に移ったかというと、あるイギリス人がペルーの山中でもっとも医薬品に向いたキナ種を探し出し、これをイギリス政府に献上したものの、政府はまったく関心を示さない。そこで、この人物はオランダ政府にこの種を買ってもらったのです。キナの将来性に気づいたオランダ政府が、ジャワに移植し、特産品として育てたのです。

ジャワ島のキナ林
ジャワ島のキナ林


 第1次世界大戦が起きると、解熱・消化剤としても価値があるキナを押さえるため、イギリス・アメリカ・フランス・イタリアの4カ国が購入連盟(シンジケート)を作り、オランダから独占的に買い始めました。
 ところが、戦争の進展とともにヨーロッパでは船舶が不足し、キナの輸送が止まってしまいます。困ったのはジャワ島の栽培業者で、収入が途絶えたうえ、大量の在庫に悩まされました。

 この状況を見て、1916年、ジャワ島の領事館から日本の内務省に報告が届きます。「いまだったら、この4カ国連盟に割り込めるチャンスだ——」と。

 当時の内務大臣は後藤新平で、後藤と親交のあった星一(ほしはじめ)がこの話に乗っかります。星一は、当時破竹の勢いだった星製薬の社長。作家・星新一の実の父でもあります。

 しかし、オランダの言う取引条件は厳しいものでした。3年分の信用状を先に出すのと、少なくとも200トン、できるなら300トンの在庫の一括引き取りでした。
 当時、星製薬はキニーネの精製に成功したばかりで、もし大量生産に失敗したら、経営危機になるのは確実です。

 それでも、この機会を逃せば、キニーネの国産化はおそらく2度とできなくなるため、星一は条件を呑み、キナ取引に参入します。台湾銀行の協力で信用状を発行してもらい、100坪の倉庫を急造、大量のキナをここに保存し、キニーネの製造に入ったのです。

キナ倉庫
キナの保存倉庫


 キニーネの製造技術は星製薬しか持っていなかったため、この話に他社は最初から参入できなかったのですが、これを管轄の内務省衛生局は苦々しく思っていました。星製薬は自分たちの言うことを聞かず、いつも勝手な行動ばかり取っていたからです。

 キニーネの製造が始まると、シンジケートの幹事国であるイギリスから外務省に連絡が来ます。
「シンジケートへの日本の加入を認めるので、輸入業者を1社決め、年間の所要量を決めてほしい」というものです。

 内務省衛生局は、星製薬への嫌がらせのため、キニーネの独占輸入会社に三井物産を指名します。
 驚いたのは星一です。衛生局の案だと、星製薬は自分たちが原料を押さえているのに、輸入に際して三井物産に手数料を払うことになります。いくらなんでもそれはひどいと内務省に掛け合いますが、内務省も譲りません。

 結局、星一は外務省を巻き込む形で内務省を説得し、なんとか独占輸入社の立場を確保します。
 しかし、メンツを潰された内務省衛生局は、星製薬への恨みを募らせます。


 星製薬は、アメリカ帰りの星一が、1910年(明治43年)に創業しました。
 翌年、アメリカで普及している湿布薬「イヒチオール」の製造を開始し、その後、「ホシ胃腸薬」などの家庭薬で成長していきます。日本で初めてチェーン店の仕組みを作り、最盛期で全国に3万5000店を組織。圧倒的な販売網と大宣伝によって、一気に業績を拡大していったのです。

星製薬本社
星製薬の工場(西五反田)


 第1次世界大戦の始まった翌1915年(大正4年)、星製薬は日本で初めてモルヒネの製造に成功します。

 医薬品として最重要であるモルヒネは、阿片(アヘン)から精製します。アヘンはケシの実から出る液汁を固めたもので、当時、日本政府の専売品となっていました。国内では大阪府三島郡を中心に栽培されていましたが、量が足りないため、輸入でまかなっていました。

罌粟ケシの実
罌粟(ケシ)の実


 アヘンを専売しているのは東京衛生試験所ですが、ここの卸値は外国産の3〜4倍もあり、これを精製してモルヒネを作っても割に合いません。
 そこで、星一は、アヘンを大量に使用していた台湾専売局に注目します。

 当時、台湾にはアヘン中毒患者が多数残っており、台湾総督府は「現在の患者にはアヘン吸引を認めるが、新規吸引は認めない」という、後藤新平以来の漸禁政策をとっていました。
 そのため、台湾ではインドから大量のアヘンを輸入していたのです。

 星一は、インド産アヘンのモルヒネ含有量は6%だと知ります。しかし、ペルシャ産は9〜11%、トルコ産は13〜14%、ものによっては15〜16%もありました。それなのに、値段は1斤あたりインド産もペルシャ産も12円、トルコ産は12.5円でした。
 
 つまり、台湾専売局がインド産を減らし、ペルシャ産かトルコ産に変えるだけで、余剰モルヒネが大量に生まれるのです。その余剰分を払い下げれば、専売局には膨大な収入が生まれます。
 星一はそのことを専売局に提案し、みごと払い下げを受けることに成功するのです。

アヘン納付書
アヘン納付書


 1916年、政府は「製薬および化学工業薬品の奨励法」を可決します。第1次大戦でヨーロッパが混乱しているうちに、大量の補助金を投入し、国内の化学工業を発展させるもくろみです。
 この法律を受け、化学工業担当となった農商務省は「日本染料製造」を、製薬担当となった内務省は「内国製薬」を設立。補助金は両社にばらまかれることになりました。

日本染料製造
日本染料製造株式会社の工場


 内国製薬は、すべての損失を補填されたうえで積立金が認められ、さらに100万円の資本金に対し年8分の配当保証が付けられました。つまり、会社は遊んでいても、相当な配当を出せるのです。それなのに株式の公募はされず、三共製薬を中心にいつのまにか作られたのです。

 星製薬と官僚の闘いを書いた星新一の『人民は弱し 官吏は強し』によれば、三共製薬は「三原作太郎が作った三原製薬」として、次のように書かれています。

《三原は明治32年に横浜に三原商店を作って以来、輸入薬品の販売によって営業をひろげてきた、商才にたけた人物だった。内務省衛生局の役人であった者を支配人に迎え、その官庁内への顔を最大限に利用し、各種の便宜を得たりしていた》

 三共製薬は、アドレナリンの抽出に成功した高峰譲吉を初代社長に据えていますが、当時の社長は塩原又策です。星は、内務省のやり方が気に入らず、衛生局に出向いて「自分が補助金を欲しいわけではないが、この補助金のあり方はおかしい」とクレームを入れます。このあたりから、星製薬と内務省の関係がおかしくなっていくのです。

 内国製薬は、年40万円、多いときには70万円の補助金を手に入れ、7年経って、三共製薬と合併しました。
 しかも薬品の優先的な製造許可も獲得しており、どんどん成長していきます。

 内務省は、1917年、阿片令を改正し、星製薬と大日本製薬、そして三共製薬に、阿片を原料とするモルヒネ製造を認可します。それまでモルヒネの精製技術は星製薬しか持っていませんでしたが、東京衛生試験所が官報で製造法を公開したため、残りの2社は製造で困ることはありませんでした。

三共製薬
三共製薬


 大戦が終わると、阿片の相場は急激に下がりました。
 この機に乗じて、向こう何年もの阿片を大量に買い占めておくべきだと星一は考え、台湾総督府と相談します。しかし、台湾総督府が商社的な行為をすることはできません。そこで、各省庁の了解の上、星製薬が総督府の予算を立て替える形で、阿片の大量購入に踏み切ります。

 星製薬を目の敵にしていた内務省衛生局は、この阿片に目を付けました。

 星製薬が買った阿片は、阿片法の及ばない横浜税関に保存されていました。しかし、1921年、横浜税関から処分しろとの命令が来ます。これは管轄の内務省が命じたもので、その理由は「神戸税関に保存してあった阿片が中国に流れ、それに対してイギリスからクレームが来た」こととされました。
 結局、星製薬は、大量の阿片を台湾の税関に移した上で、ロシアのヤグロ商会に格安で転売します。60万円ほど儲かるはずが、20万円の損失でした。


 内務省からさまざまな嫌がらせを受けながらも、星製薬の業績は好調でした。
 モルヒネの次は、三共製薬が失敗したコカインの精製にも成功。コカは台湾でも採れますが、あえてペルーにコカ栽培用の広大な土地を買い、コカの世界的なシンジケートにも加入します。そして、前述のマラリア薬も大成功。
 1921年には、星製薬は三共製薬を利益で追い越し、東洋一の製薬会社とも言われるようになりました。

星製薬の強心剤ベリベチン
星製薬の強心剤ベリベチン

 
 しかし、関東大震災の7カ月後、1924年に加藤高明内閣が発足すると、風向きが変わってきました。
 加藤高明は後藤新平の政敵で、後藤の資金源と見なされた星製薬を徹底的に冷遇したのです。まず台湾総督府のスタッフを入れ替え、後藤新平一派を排除します。そのうえで、1915年以来続いていた阿片の提供を停止します。星製薬はモルヒネ製造ができなくなりました。

 さらに、星一ら3人が台湾で起訴されます。罪状は「台湾阿片法」違反で、生阿片を私有したことと、外国人に販売したことです。要は、阿片を横浜から台湾に移し、ロシアに転売したことが問題とされたのです。一審は有罪で、星一の罰金3000円と追徴金126万5920円(3人分)でした。
 当たり前ですが、阿片の移動、販売は関係省庁の許可の下に行っているわけで、納得いかない星一は即座に控訴します。

 当時、星は日本初の冷凍会社「低温工業」を大規模な形で起業しようと、全国を回って株主を募集していました。この事業は、裁判のごたごたで、ほとんど実行に移せず、小さな会社が設立されただけに終わりました。
 
 台湾での二審判決は無罪になりましたが、その直前、警視庁から別件で捜査を受けます。容疑は、低温工業株に払い込みのない空株があった疑惑で、背任(商法違反)です。
 捜査の過程で、警察から星製薬の取引銀行に通達が行き、これを機に、銀行は星製薬への融資を一切停止しました。事実上の警察からの圧力です。

《新潟県の小千谷町では、もっと単純素朴だった。警官が銀行に出かけていって、言い渡したのだ。
「星と関係している者には金を貸さないように。これは東京からの命令だ」》(『人民は弱し 官吏は強し』)


 マスコミには捜査状況が垂れ流され、誤報とバッシングが相次ぎました。1926年9月14日、ようやく三審で無罪判決が出ますが、すでに銀行からも全国のチェーン店からも見放されており、星製薬の経営は、一気に傾きます。

 1932年、資金繰りに困った星製薬は破産が決定し、苛烈な労働争議が起きます。
 翌1933年、日本初の強制和議が成立し、破産終結により営業再開が決定します。


 タイミングよく、台湾に植林していたキナの樹が成長しており、星一は台湾に「星規那(キナ)産業」を設立、マラリアの特効薬キニーネ生産で捲土重来を期します。このとき、星一はこう語ったと記録されています。

《人生は面白いネ、今度は借金王から規那王になるネ。台湾の中央山脈は全部規那林にしてしもうからネ。高砂族15万人に職を与えるネ。理蕃事業(注:台湾の開化)と星の規那事業は併進するネ。きっとなるネ。大なる失敗は大なる幸福の前提だネ。星は3650万円の借金があるがネ。その借金を5年で皆済するネ》(荒川禎三『磐城百年史』、最相葉月『星新一』より孫引き)

キナ製造
キナ製造①粉砕したキナから成分を取り出す

キナ製造
キナ製造②蒸留器にかけ遠心分離機で分離

キナ製造
キナ製造③精製


 1934年、星製薬は台湾のキナを使った国産キニーネの生産に成功し、台湾星製薬を設立。しかし、1943年、星製薬は東洋一と言われた台湾のキニーネ製造装置を軍に供出させられ、星規那産業の全従業員がジャワ島のキニーネ生産に派遣されます。

 同時期に星製薬は満州のハルビンに工場を作っていたことから、星一は即座に満州での復活を目指しますが、まもなく終戦を迎え、満州の事業も壊滅しました。

 戦後、GHQは星製薬をターゲットに絞り、星薬学専門学校(現・星薬科大学)の建物を接収、さらに一般薬も含め、すべての医薬品製造の禁止を命じます。
 すべてを奪われた星一は、それでもへこたれず、今度は芋加工事業を興し、日本を世界一の甘味王国にする計画を立てました。

 1951年、星一は、ペルーの広大な土地の処分のため渡米中、死亡します。そして、星新一が新社長に就任するのです。

 星新一の『明治・父・アメリカ』によれば、星一は《伊藤博文からは「こんど朝鮮総監に任命された、官吏になって手伝ってくれ」と言われた。後藤新平からは、南満州鉄道で働かないかとすすめられた》ほど優秀な人物でした。
 しかし、当時は誰にも理解されなかったチェーンストアや冷凍工業など、アメリカ的な発想や行動は日本と合わず、官僚や政治家から徹底的にいじめられました。

 星一は、1926年、『阿片事件』という非売品の冊子を刊行して、事件のあらましを語っています。その最後は、次のように結ばれています。

《阿片事件の発端より終結に至る間を吟味すれば何物を得るであろう。我々の持っている文明には未だ大なる欠点のあることを教えたる外(ほか)には何の得る處(ところ)がない。斯くの如き取扱を受けても政府に損害賠償を要求することの出来ない国民は憐れなものである。噫(ああ)、人民は弱し、官吏は強し》

阿片事件 人民は弱し官吏は強し
「阿片事件」より「人民は弱し 官吏は強し」


制作:2014年1月4日


<おまけ>
 星新一は、1926年、台湾での二審判決後に誕生しています。本名は星親一ですが、これは星製薬の標語「親切第一」から名付けられました。星新一は24歳で社長に就任しますが、社業を回復させることはできず、結局、ホテルニューオータニを創業した大谷米太郎へ事業を譲渡します。
 西五反田にあった星製薬の工場は、現在TOCビル(東京卸売りセンター)になっています。そのため、今も星製薬はTOCの子会社として存続しているのです。

 また、日本初の4階建て鉄筋コンクリート(後に7階建て)ビルだった京橋の旧本社は、関東大震災で被災後、道路拡張工事によって消滅しています。
星製薬京橋営業所
星製薬の京橋営業所(三角塔が大同生命、丸塔が第一相互館)
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