保戸島の民俗学
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保戸島「日本のナポリ」に行く
遠洋漁業が作った独自の社会システム
「日本のナポリ」保戸島
大分県津久見市の離島・保戸島に、「日本一狭い」とされる県道があります。幅は1.2~1.8メートルしかなく、どうみても路地ですが、全長256メートルのれっきとした県道612号です。この道がなぜ県道になったのか、資料もなく、もはや誰にもわかりません。
県道612号
保戸島は0.86平方キロの小さな島で、1周しても4キロほどです。島の東側は崖が続き、ほぼ集落はありません。一方、西側には山の中腹へせり上がるように集落が広がっています。3〜4階建ての鉄筋コンクリート住居が寄り添うように立ち並び、しかも派手に彩色されていることから、「日本のナポリ」と呼ぶ人もいます。水産庁は、この風変わりな景色を「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選」に選んでいます。
県道612号は、このひしめいた住宅のなかを通っていますが、あまりの密集度から昼でも暗く、ここから上に登る道の多くが階段状になっており、まるで迷路のよう。自分がどこにいるのか本当にわからず、ほとんど経験したことのない不思議な感覚を覚えます。
まるで迷路のよう
この島は、明治時代から遠洋マグロ漁の基地として知られています。1980〜1990年頃に最盛期を迎え、漁船は167隻、年間水揚げ高は140億円を記録しました。おかげで、島には狭いながらも豪華な「マグロ御殿」が建ち、島を守る女性たちは上等な服を着ていたと言われます。
保戸島は、文献に最初に記録されたときから漁業の島でした。『豊後国風土記』には、景行天皇が熊襲征伐の際にこの島に来て、美しい海藻がたくさん生えているのを見て、「最勝海藻の門(ほつめのと)」と言ったと記録されています(「ほつ」は最上級の意味)。この「ほつめのと」が短くなって「穂門(ほと)」になりました。
保戸島に人が住み着いたのは、平家の落ち武者が島にたどり着いたのが始まりだとも言われますが、実態は定かではありません。島の信仰を集める加茂神社の創始は1535年(天文4年)とされ、江戸時代には佐伯藩の遠見番所も置かれています。
加茂神社
島の漁師たちは、1890年ごろ、長崎県の対馬で「突棒(つきんぼ)」によるカジキマグロ漁を始めました。これが1920年ごろに延縄(はえなわ)漁となり、日本有数の水揚げ量を誇るまでになりました。
船首から長い銛でカジキを突く突棒船
(1968年刊行の『大分の旅シリーズ「海」』より)
民俗学者の柳田国男は、1920年(大正9年)、潮待ちでこの島にやってきて、『海南小記』にこう記録しています。
《全体に平地はちっともない島である。見上げるような傾斜地に、同じような家が境も不分明に建て続けてある。2階と下と別々に入口を道へ付けて、2戸3戸が1棟の中に住んでいる。肥前・鳥栖から来た薬屋がこんなことを言った。よほど気をつけぬと、同じ家へ2度入って笑われると》
《家は近年になってだいぶ増加したものらしい。今でも行き当たるほど子供や女の数が多いのに、もう半月もすると壱岐五島の方から、300何十人の男たちが、漁を終わって戻ってくる。そのときだけは真に寝るところもないそうである。だから半分は人の家に行って寝る。それをまた、楽しみに待ち待たれる若い者が多い》
遠洋漁業は、一度漁に出れば、1カ月半は戻れません(漁場によっては1年から1年半のことも)。当然ですが、久しぶりに戻ってきた男たちとの再会は、島に残った人たちの大きな喜びでした。
柳田国男は「人の家で寝る」ことの楽しさを記録していますが、こうした風習は、次第に島全体で固定化された独自の社会を形成していきます。
島の少年たち(『大分の旅シリーズ「海」』より)
大正以降、保戸島には、13〜14歳から25〜26歳までの男子に、「青年団」と「若者仲間」という2つの集団が並列して存在していました。青年団は、島の若者全員で構成され、祭礼の内容、ナカトリ(船を借用した数人規模の出漁)の方法などが話し合われました。
若者仲間は、小学校の遊び仲間の延長としてできた、近隣の気の合うグループのことです。年齢的には13〜14歳から始まり、数人から多くても9人ほど。ヨリアイ・モンテイ・ナカヨシ・ツレ・レンジュウ・チングなどさまざまな呼ばれ方をしますが、友情は死ぬまで続くもので、誰かが新規加入する場合は、基本的にはメンバー全員の了解が必要でした。
若者仲間は、メンバーの家ではなく、ネヤドという特定の家を拠点にしました。自宅で夕食を食べると、全員がネヤドに集まり、翌朝まで寝泊りしたのです。つまり、自宅とは別に、生活拠点をネヤドに置いて日々を過ごしました。ネヤドの主人には、遠洋漁業から戻ったときや盆と正月には、必ず付け届けをする習わしです。
男子の若者仲間と対応するように、女子にも「娘仲間」という仲よしグループがありました。こちらはより少数で、メンバーの誰かの家で過ごす決まりでした。
そして、実は、この男女別のグループは、結婚相手を見つける機能を持っていました。
島の少女たち(『大分の旅シリーズ「海」』)
かつて、この島には「夕食後は男も女も自由の身」「女も毎晩のように“遊んだ”」との伝承が残っていました。夜の闇にまぎれ、若い男女はデートを重ねます。出漁前には、娘は心を寄せる男にトウマメ(空豆)や手ぬぐいを渡し、好意を届けます。これは複数の男に渡す場合もありました。そして、男は漁から戻ると、羽織のひもや腰巻用のネル地、竹皮ぞうりなどの珍品をお土産に渡すのです。
しかし、恋愛は必ずしも1対1だとは限りません。人気の娘には多くの男が集まりました。そこで、男は、娘の本心を探るべく、若者仲間の誰かに仲介を依頼します。男が好みの娘を名指しすると、仲間が娘の本心を確認しに行きました。これを「(世話を)ヤキに行く」と称しました。
言い寄る男が何人かいたとしても、娘はどこかで本心を明かさなければなりません。その場合、承諾は「ヨイ」、拒否は「イヤ」あるいは「○○がヨイ」と明確に意思表示しました。そして、2人の想いが一致すれば、そこから結婚に向けて動き出すのです。祝言(結婚式)は盛大で、若者仲間は全員が式に参加しました。一方で、その祝言は、よその若者仲間から大きないたずらをされるのが常でした(以上、『津久見市誌』(1985)による)。
マグロ延縄漁船(0T=大分、2=100トン未満)
この独特の社会は、若者が長期間、島を留守にする遠洋漁業が形作ったものです。
しかし、漁獲量の低迷、取引価格の低迷、燃料の高騰、国際的な漁獲規制などで、もはや遠洋漁業は儲かるものではなくなりました。人口減による後継者不足もあって、現在では島でマグロ漁に携わっているのは数十人程度とされます。
漁師のなり手はほとんどおらず、多くの漁船はインドネシア人やフィリピン人を乗組員として雇っています。
日本では、経費削減のため、マルシップという方式で船員を雇い入れることが多いのです。これは、外国の法人に船を貸し、船員を配置してもらった後、船主が借り入れる仕組みです。しかし、マルシップ漁船員が失踪するなど、深刻な問題も起きた結果、外国人研修生の受け入れによる船員確保が進みました。
当たり前ですが、現在では、前述した独自の社会システムは消滅しています。そして、立ち並ぶ「マグロ御殿」も、もはやそこかしこで取り壊されています。
階段状の道
柳田国男は、この島で一泊したとき、土地の老人から、驚くことを聞きました。再び『海南小記』から。
《「明日は保戸の村の『夜乞(よごい)』です。小さな神が御降り(おくだり)になるので」などと言ってくれる。夜乞とは、祭りの夜宮のことである。祭礼のことを神の御降りと、まだこの島では言っているのである》
《海岸の岩の陰にはカッパもいる。友達の声をして寺の和尚を夜中に呼び起こし、朝の勤めの木魚を叩かせたという話もある》
知られざる文化を抱えていた保戸島。柳田の訪問から100年経ったいま、時代の波に翻弄されつつも、ほかに類を見ない観光島として知られています。本サイトの管理人が行った島のなかでも、トップクラスに興味深いのです。
黄金に輝く保戸島
制作:2022年1月14日
<おまけ>
終戦間際の1945年7月25日、午前10時ごろのことです。
保戸島国民学校(現在の保戸島小)が米軍グラマン戦闘機の爆撃を受け、教師2人、児童124人、幼児1人の計127人が犠牲になりました。
戦時中、保戸島には、豊後水道から瀬戸内海に侵入する敵の潜水艦を警戒するため、海軍のレーダー基地や聴音施設が置かれており、誤爆だった可能性が指摘されています。
この悲劇を紹介したのは元教師の得丸正信さんです。朝鮮半島へ出征し、帰国後に島に戻ると、校舎は跡形もなく、教え子のほとんどが爆死していました。島には慰霊碑が残り、いまも月命日には地元の人たちが平和を祈っています。
井戸と防空壕跡