「不燃都市」を作れ!
ニッポン「住宅」改善史

日本家屋の燃焼実験
日本家屋の燃焼実験(内務省防空研究所)


 昭和12年(1937年)3月6日、東京の西銀座で、大きな火災がありました。
 火元は「銀栖鳳」というレストランで、その屋根裏に住んでいた使用人の女9人と男1人が焼死しました。場所が新橋駅に近いことで大きなニュースとなりますが、事情がわかるにつれ、ある驚きが広がります。

 この家は1階が店舗で33坪、2階が30坪でしたが、違法改造により、屋根裏に10坪ほどの部屋がありました。天井の高さ1.5mほどの小部屋で、ここに焼死した女中9人が生活していたのです。1人あたりおよそ2畳。
 屋根裏に行くには、2階の納戸の押入れからはしごに登って上がるしかなく、火事で逃げ場がないまま、焼死したのです。

 その後、従業員を住み込ませている3階建ての料理店など8500軒を調査したところ、なんと3600もの家が不良住宅でした。

密集した家
戦前の密集した家


 かつて、日本の住宅事情は劣悪でした。

 最もひどいのが貧民窟の長屋です。
 当時、6坪以下の住宅を建てるのは無許可でOKでした。ある建築主が、1戸あたり1.5坪(5平方メートル)の家4軒を壊して6坪の家に建て直す計画を立てます。そこで、警察に許可が必要なのか相談に行きました。

 警察の担当者は、いくらなんでも1.5坪の家が存在するわけがないと思いますが、これは実在していました。
 場所は足立区の貧民窟で、ここには2800人のバタ屋(ゴミ拾い)がまとまって住んでいました。2800人のうち、独身者は2600人で、彼らは2〜3畳の部屋に10人ほどで暮らしていました。

バタ屋の家
バタ屋の家(炊事は庭で)


 これは貧民窟なので、東京でも最下層の人が住んだ家ですが、あえていえば、当時の庶民の家は似たような悪環境にありました。日光が一切当たらず通風がない、ジメジメしている、少しの雨で床下浸水するような家は、当たり前にありました。

湿地に建てられた家
湿地に建てられた家


 実は、大正12年(1923年)の関東大震災で東京は丸焼けとなり、その後、大量に建ったバラックはすべてが不良住宅となりました。しかし、10年程度で家が建て直されることはありません。結果、東京の住宅事情は長く劣悪なままでした。

 ちなみに、当時は「天地根元造」という、日本最古とされる建築様式の家も普通にありました。これは、地面に掘った四角い竪穴のうえに屋根を伏せたもので、要は神話時代の家屋のイメージです。

天地根元造の家
戦後も残った天地根元造の家


 昭和9年(1934年)9月21日、日本を室戸台風が襲います。室戸岬では瞬間風速45m(場所によっては80mとも)、東京でも22mを超える暴風が吹きますが、このとき、屋根瓦が弾丸のように飛んでいったと記録されています。
 結果、9万戸以上が損壊、40万戸以上が浸水被害にあいました。

 木造でできた日本の家は、風水害、地震、火事に極めて弱かったのです。そして、気になるのは、日中戦争の深刻化です。もし日本が空襲にあったら、町は焼き尽くされる。それは想像できないほどの被害をもたらすことが想定されました。

延焼防止に成功した不燃家屋
延焼を防いだ不燃家屋(隅田公園での実験)


 どうしたら日本の家を防災対応にできるのか、それはきわめて難しい問題でした。
 戦前、日本では「市街地建築物法」があり、敷地面積に一定面積の空き地を作ることが義務付けられていました。しかし、都心の商店では運用がゆるく、敷地の2割が空き地であれば許容されました。逆にいえば、ほぼすべての家で土地の8割に建物が立っていました。

 外見はまるで鉄筋コンクリートやレンガ造りのように見える家も数多くありましたが、実態はすべて木造です。これでは、火事が起きれば、一気に火が回ってしまいます。

 対策として、家を不燃材料で建てることが推奨されました。当時すでに「防空建築規則」があり、特に郊外の新築では不燃材料の使用が義務化されています。具体的には、ラスモルタル(鉄線を編みこんだ下地にモルタル仕上げ)、漆喰、壁土、トタン、耐火木材、耐火塗料、耐火板などです。

木造家屋の不燃化
木造家屋の不燃化(『防空絵とき』)


 しかし、大きな問題があり、燃えにくいガラスがほとんど出回っていませんでした。火災は800度、最高で1400度くらいまでいきますが、当時のガラスは550度で溶解してしまいます。これでは、火が簡単に室内に入ってしまいます。いくら防火材料で家を建てても、あまり意味がないことは公然の秘密でした。対策は、網入りガラス程度しかありません。

 とはいえ、燃えにくい家を建てるのは悪いことではないので、政府は熱心に不燃化を進めます。それでも、現実には予算の問題もあり、なかなか進展しません。

木造家屋の不燃化
内部を耐火塗料で包んだ建物(内務省防空研究所)

 
 家の不燃化が進まない理由は、家賃にもありました。
 都会の住宅不足を受け、昭和13年8月4日以降、地代や家賃の値上げが禁止されたのです。これは国家総動員法の一環ですが、低い家賃なのに、大家が耐火工事する理由はありません。その後、「宅地建物等価格統制令」により、適正な利潤の上乗せが認められますが、その程度でまともな新築住宅が出回るわけもありません。

 困った政府は、「住宅営団」を設立し、向こう5年間で30万戸の新規住宅の建設を目指します。資本金は政府出資の1億円ですが、10倍の住宅債券の発行が認められたため、予算は11億円となりました。基本は、20坪程度の小さな耐火住宅や共同住宅です。

 しかし、戦時中で、物価が極めて高くなっている時代です。どう考えても、この予算で高品質の住宅を建てることは不可能でした。不景気が来れば、新築の家は空き家だらけになり、かえって空襲に弱い地域になる恐れもありました。政府の不燃都市プロジェクトは、ほぼ打つ手なしの状態となりました。

住宅営団の共同住宅
住宅営団の共同住宅


 そんななか、戦局の悪化を受け、起死回生の一手となったのが「疎開」でした。

 疎開が明文化された「防空法」改正案は、昭和19年10月26日、国会に提出され、翌日に貴族院で、さらにその翌日、衆議院で可決しました。わずか2日で疎開計画が具体化したのです。

 疎開には、工場を地方に移転させる生産疎開(工場疎開)と、延焼を防ぐための都市疎開があります。都市疎開は建物を壊す建築疎開と、人の数を減らす人ロ疎開に分かれます。

建物疎開
理想の建物疎開(『防空絵とき』)


 当時の防空局長の国会発言を引用しておきます。

《人ロ疎開の問題は慎重を期せねばならぬが、第一段として自発的意思による疎開をさせ、第二段には勧奨、第三段には命令による。命令による場合は、原則として全戸移転、やむを得ざる場合は親戚縁故をたどるといふ転出の方法である。転出のための荷造り用品は配給を行ひ、列車、自動車などを特別指定し、運賃の軽減を行ふ。
 職を失ふものには転職の斡旋、学生については転入学をなし得る便宜をとり、急速に具体案を作成する。
 建築物疎開については、建物の新築と建物面積を地区を指定して制限、または除却、改築、防火改修をなさしめる。自費で除却、改築出来ぬものは住宅営団がこれを行ふ》(『国土防衛と人口疎開』)

 空き地を作るため、日本全国279都市で61万戸以上が破壊されました。ちなみに、空襲にあわなかった京都は、建物疎開の跡がよく残っていると言われます。京都では1万戸以上が壊され、道は拡充され、現在の五条通、御池通、堀川通などの幹線道路となりました。
 実際、京都を空撮してみると、堀川通が異常に目立つことがわかります。

京都・堀川通
南北に走る堀川通


 しかし、こうした防火対策も、あまり意味があるものではありませんでした。
 なぜなら、米軍は強力な焼夷弾M69を開発済みだったからです。
 米軍は、ユタ州ダグウェイに日本家屋の街並みを再現、そこに日本式住宅とドイツ式住宅を本物そっくりに建て、何度も燃焼実験を行いました。
日本村とドイツ村(ダグウェイ)
日本村とドイツ村(ダグウェイ基地公式サイトより)


 日本家屋は、日本で数多くの建築を作ったアントニン・レーモンド指揮の下、竹やひのきなど、実物と似た素材で24戸建てられました。ハワイから日系人を呼び寄せ、畳やふすま、布団やタンスもすべて用意した上で燃やされました。

日本村(ダグウェイ)
日本村マップ(米議会図書館)


 こうして、木と紙で作られた日本の家は、空襲ですべて焼き尽くされました。謎の防空精神で対抗した日本はなす術もありませんでした。
 徳川夢声は敗戦直後の風景をこう書いています。

《秋晴れに見る焼跡の美しさ、焼けトタンの赤色、舗装路の黒色、焼木の黒色、雑草の緑、ビルの骸骨の白など、明るき風景》(『夢声戦争日記』)

 “美しき焼け跡” の中で、人々は再び材木やトタンを集めてバラックを建て始めたのです。


制作:2018年9月8日

<おまけ>

 敗戦後しばらくは衣食住に困る状態が続きます。
 数字でいうと、昭和23年(1948年)になっても、全国で14万世帯に家がなかったとされています。また、1人当たり1.5畳以下の過密状態の家は47万世帯もありました。
 昭和25年(1950年)、東京都は新宿、池袋、渋谷などターミナル駅前の区画整理事業に着手。この頃から、徐々に住宅整備が進んでいくのでした。

新宿の雑踏
新宿の雑踏(1956年)

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