ブラジル移民の歴史
南米航路の、ぶえのす・あいれす丸
南米航路の、ぶえのす・あいれす丸

 1968年に南米に移住した人達を追跡したドキュメンタリー『移住31年目の乗船名簿』(NHK)を見て感動したので、ブラジル移民の写真を公開しときましょう。

 明治40年(1907)、日本人を対象とした新移民法がブラジルで成立。これをうけて、この年より3年間に3000人を移民輸送することになりました。
 第1回ブラジル移民は、1908年、笠戸丸が運んだコーヒー農家への契約移民791人(一説には799人)でした。最盛期の1933年頃には年間2万人以上が参加、1993年に制度が廃止されるまで、およそ30万人が移住しました。

 なにせ、多くはジャングルでの生活ですからね、生活は決して楽なものではなく、たとえば住居1つとってもこんな感じでした。

《寝室は殆(ほとん)ど一様に防湿設備のない土間で、暗黒で、むっとしている。またその中の寝台は手製床几(しょうぎ)で不安定で、ぐらついている。その上には故国から携帯した蒲団が敷かれてある、それが3年5年と経過するうちに、いかに変敗するか……》(日伯協会『ブラジル』1929年6月号より)

 というわけで、大正から戦前までのブラジル移民の写真を公開。出典は『日本民族雄飛五大洲』(1940)です。


ブラジル移民コーヒーの実を摘む日本人娘

ブラジル移民ブラジル移民
アマゾン川上流での伐採労働と、彼らの住居

ブラジル移民
サンパウロ州チエテでの綿花栽培

ブラジル移民
サンパウロ州ペナン奥地の日本人小学校

  悲惨な生活を続ける移民たちですが、彼らには1つの掟がありました。それは移住地と同化すること。なにせ、排日が盛んな時代です。ただでさえ安い賃金で働く日本人は、周囲から恨みを買わないことが最重要だったのです。

《移住地にて金を貯蓄せる場合、これを郷里に送金する事を絶対に排せねばいけない……永住地であるべき地で貯蓄した金を、本国に送るようなさみしい心で何になるか、1度郷関を出でた以上はその地を墳墓の地として考えねばならぬ》

 そう、現地の富を“持ち逃げ”することは許されないことだったのです。
 それでも、多くの日本人は送金をやめることはしませんでした。

 下の写真は、サンパウロ繁華街の書店です。成功した移民が開いたこの店には、日本語の書籍がたくさん並んでいたといいます。はるかな異国の地で、日本語の本を読む移民たち。彼らにとって、日本とは何だったのか。もはや僕たちにとって、その思いを辿ることさえかないません。
ブラジル移民

更新:2003年2月10日

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