アメリカ排日移民法の時代

モントレー
移民の部屋に残る鯉のぼり


 アメリカ西海岸、サンフランシスコとロサンゼルスの間に、モントレーという街があります。今でこそリゾート地ですが、その昔は漁業を中心とした小さな街でした。

 ここに、屋根が3つ並んだ古びた建物がひっそりと残されています。第二次世界大戦の直前まで、真ん中の家には、TanakaさんとOkamotoさんという日本人が住んでいました。

モントレーモントレー
旧缶詰工場のそばに残された移民の家


 窓から家の中を覗くと、当時発行されていた日本語新聞「日米」が置いてあります。そして奥の壁には、故郷の写真と2匹の鯉のぼり。2人は、この狭い家で、いったいどんなことを考えていたんでしょうか?

 今回は、異境の地で生きてきたカリフォルニア移民の話です。


 カリフォルニアには1900年頃から日本人が住み着き始めました。

 1930年代、モントレー漁民の多くはシチリア系でしたが、そのうち1割ほどが日本人だったそうです。彼らは夜になると海に出て、イワシやサケやアワビを捕りました。ただし多くは長老派教会に属していたため、土曜の夜は安息日でお休み。また満月の日は海中の魚群の輝きが見えなくなるため、やはり海に出ることはありませんでした。
 
 日本人の海外移民は、153人がハワイに移住した1868年(明治元年)に始まるとされています。1900年頃から、農村の困窮や徴兵逃れのため移民が急増、1920年頃には、アメリカ本土に12万5000人もの日本人がいたといいます。
 
 日本人の移民急増に対し、アメリカでは反日の気運が高まります。

 1908年には「日米紳士協定」が結ばれ、日本は在米日本人の家族、結婚による渡航、旅行者などを除く日本人の渡航を自主的に禁止しますが、排日気分は収まりません。

 1913年にはカリフォルニア州で「外国人土地法」が可決、日本人の土地所有が禁止され、さらに1920年には借地さえも禁止されてしまいます。

 この年の選挙で、排日を訴える上院議員がこんな選挙ポスターを作っています。

排日ポスター
SILENT INVASIONという言葉が象徴的な排日ポスター
白い部分(カリフォルニア)に手を伸ばす日本を、アメリカが牽制

 
 
 そして1924年7月1日、ついに「新移民法(排日移民法)」が施行され、新移民は全面的に禁止されます。当然のことながら日本でも反米意識が高まり、「黄禍論」に対抗して「米禍」という言葉さえ生まれました。こうした流れのなかで、第2次世界大戦が勃発するのです。

新移民法
当時の抗議行動(6月29日のデモ)

新移民法
当時の抗議行動(7月1日増上寺の国民大会)


 両国の関係が最も険悪になったのは、いうまでもなく1941年12月の真珠湾攻撃です。太平洋戦争が起きると、アメリカは即座に日系社会のリーダー1300人ほどを「敵性外国人」として逮捕、収監します。

 さらに1942年2月19日、フランクリン・ルーズベルト大統領は行政命令9066号に署名、この命令により、12万人の日系人が強制収容所に送られることになるのでした。もちろんあのモントレーの漁民たちも、このとき全員が強制収容されたことでしょう。

 強制収容に関しては、1988年8月、初めてアメリカ政府が公式に謝罪しましたが、移民たちの失われた時間は、2度と戻ることはありませんでした。

制作:2004年5月2日


<おまけ>
写真花嫁
アメリカに上陸する「写真花嫁」


 アメリカでの排日は、白人労働者たちが、日本人に仕事を奪われると考えたことが最大の原因です。

 しかし、当時のアメリカ人が最も日本人を不気味に思ったのは、「写真結婚」という風習でした。要は誰でもいいから結婚して渡米したいということで、とにかく写真の交換だけで結婚を決めるわけです。そりゃ、アメリカ人が気味悪がるのも当然です。

 でもまぁ、嫁が欲しい白人男も白人男で、自分の写真をかっこよく偽造するのは当たり前。日本人妻がアメリカに着いたらまるで別人が待っていたなんて言う話もあれば、日本人妻が船のなかで別の男とできてしまった、なんて話もあります。
 どっちもどっちということです。
 
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