明治初期の地理書として有名な『輿地誌略』(内田正雄・明治3年〜)には、バグダッドについてこう書かれています。福沢諭吉の『世界国尽』が書かれたのは明治2年ですが、こちらにはあんまり中東のことが書かれていないので、多分、『輿地誌略』が日本で最初にバグダッドを紹介した本。つまり、ほとんどの日本人がこの本を通じてバグダッドを知ったわけです。
なんにせよ、「地革里斯(チグリス)河」なんていう表記が泣けますよね。ちなみにユーフラテス河は「由非刺底」となってます。
この本が書かれた時代、国家としてのイラクはまだ存在していません。イラクが独立するのは1932年のことで、それまではイギリスの保護国でした。
そもそも、現在の中東の混乱はイギリスのせいだというのは有名な話ですね。つまり、
・1915年 フセイン・マクマホン協定(アラブに独立を認める)
・1916年 サイクス・ピコ条約(英仏によるオスマン・トルコ分割)
・1917年 バルフォア宣言(ユダヤ人にパレスチナ建国を認める)
という、お互いに矛盾した“三枚舌”政策をとったことで、中東の勢力争いはめちゃくちゃになってしまったと。ちなみに1920年のサンレモ会議でイラクを委任統治下におくと、翌年にはイラクとクウェートを分断するなど、やりたい放題。
で、イギリスの横暴にイラクの反英意識は高まるばかりで、ついに1932年独立を承認。それでもイギリスの実効支配は続き、第1次世界大戦後でさえ、イラク原油の半分をおさえていました。
このイラク原油は、第2次世界大戦当時、2000キロの送油管を通って、片やフランス領シリアのトリポリ、片やパレスチナ(現イスラエル)のハイファに送られ、そこから海上輸送されたわけです。
イギリスはこのパイプラインを守るため、駐イラク軍の増強やら空中通過権の承認やら、様々な圧力をかけ続けます。
そうして、ついにイラクの怒りが爆発、1941年両国は戦争状態に入り、結果的にイギリスはイラクの原油利権を大幅に失うのでした。
ここまでが戦前の話。
戦後は新興国アメリカが利権獲得に奔放し、対アラブ戦略としてイスラエルを独立(1948年)させたり、対イラン革命のためにイラクを軍事援助したりと、何でもありの状況が続いたわけですな。
で、悪いのはアメリカとイギリスだけかというと、イラク戦争に反対していたアラブ以外の国は、本当はイラクに持ってる利権がなくなるのを嫌がってるだけで、平和なんて最初から考えてません。
結局、どれもこれもすべてが石油を巡る争いで、みーんな同じ穴のムジナ(国家が自国の利益を追求するのは当然なんだけど、やっぱり今ひとつ納得がいきませんね)。
ならば、だ。石油が出なければイラクは平穏だったのか? そう思うでしょ? 《又、此河水に泝(のぼ)りて「モッスル」府あり。製作場多く、人口四万、此府の対岸に於て、近来種々の古物を掘出す。皆尼々微(ニニブ=現ニネベ)城の遺物にして、奇工を尽し彫刻したる巨大の石像等なり。今、之を英仏の博物館に蔵し、其精巧を賞す》
でもね、冒頭の『輿地誌略』には、続いてこうあるんです。