幻の「震災記念堂」
「関東大震災」追悼施設を作れ!

震災記念堂に入る昭和天皇
震災記念堂に入る昭和天皇



 芥川龍之介は、生まれてまもなく、東京市本所区(現在の両国あたり)にあった母方の実家に預けられ、20歳頃までその地で育ちます。1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が起きると、芥川の知人の多くが被災しました。そのことを、『本所両国』にこう書き記しています。

《僕の知人は震災のために何人もこの界隈にたおれている。

 僕の妻の親戚などは男女9人の家族中、やっと命をまっとうしたのは20前後の息子だけだった。それも火の粉を防ぐために戸板をかざして立っていたのを旋風(つむじかぜ)のために捲き上げられ、安田家の庭の池の側へ落ちてどうにか息を吹き返したのである。(中略)

 僕の通っていた江東小学校の校長さんは両眼とも明を失った上、前年にはたった一人の息子を失い、震災の年には御夫婦とも焼け死んでしまったとかいうことだった。僕も本所に住んでいたとすれば、恐らくはやはりこの界隈に火事を避けていたことであろう》

被服廠跡に逃げ込んだ人たち
被服廠跡に逃げ込んだ人たち



 震災では多くの死者が出ましたが、たとえば日本橋区は100%焼失、浅草区、本所区、神田区で90%以上が焼失したとされます。当時、本所区は人口が多く、住民の多くが殺到したのが、広大な空き地だった被服廠(ひふくしょう、陸軍の軍服製造所)跡です。

 広さは2万4000坪もあり、家財道具とともに避難した住民は、風速70メートル以上の旋風に飛ばされ、炎の竜巻に焼かれました。焼死者は3万8000人とも4万4000人ともいわれます。この場所に仮納骨堂ができ、その後、慰霊場である「震災記念堂」が建てられます。

被服廠跡の炎の竜巻
被服廠跡の炎の竜巻



 戦後の1951年、第2次世界大戦の犠牲者も合祀されて、「東京都慰霊堂」と改称しています。関東大震災の犠牲者約5万8000人、大戦の犠牲者約10万5000人の遺骨が納められ、毎年9月1日には慰霊法要が執りおこなわれています。

 今回は、東京市が総力を挙げて建造した追悼施設「震災記念堂」の全貌を、幻の設計案を含め、まとめておきます。


東京都慰霊堂
東京都慰霊堂



 被服廠跡は広大だったため、震災後、数多くのバラックが建ち並んでいました。ほとんどが勝手に住みついた人たちですが、1924年3月、「土地区画整理施行地区」に決定し、不法建築は移転され、敷地すべてが慰霊堂のために使われることになりました。

 当初、東京市公園課が発表した追悼施設案は、純日本式の奈良朝風デザインでした。八角堂から500坪の野外斎場に連なる大規模なものです。災害防止館と大泉池を作る案もありましたが、予算難のため、結局、寄付と公募(コンペ)の形が取られます。

震災記念堂当初案
当初の東京市案
(国会図書館所蔵『被服廠跡 : 東京震災記念事業協会事業報告』)



 そして、1924年12月、記念堂の設計案が公募されます。賞金は1等3000円、2等2000円、3等(3人)1000円です。

 応募総数220で、1等は前田健二郎の作品でした。前田は、資生堂パーラーや資生堂本社の設計で知られる建築家で、円筒状の高塔を中心とした西洋風建築です。内務省はこの設計案に10万円(後に追加で25万円)を下付。プロジェクトが動き出し、1925年9月1日、地鎮祭がおこなわれます。

震災記念堂・前田健二郎の作品
前田健二郎の作品

震災記念堂・大澤浩の作品
2等・大澤浩の作品



 落選した作品としては、東大・安田講堂を設計した岸田日出刀、東京中央電信局や新潟の萬代橋を設計した山田守、早稲田大学・大隈講堂を設計した佐藤武夫らの作品が残されています。

震災記念堂・岸田日出刀の作品
岸田日出刀の作品

震災記念堂・山田守の作品
山田守の作品

震災記念堂・佐藤武夫の作品
佐藤武夫の作品



 ところが、ここで前田案に複数のクレームが入るようになります。
 前田案がフランスの建築家のパクリだと言う専門家がいたり、仏教連合会が「西洋風のデザインは記念建築にふさわしくない」と抗議を入れてきたのです。

 結局、審査員で、橿原神宮・平安神宮などを設計した大御所・伊東忠太に「純日本式」の設計依頼が来ます。伊東は猛スピードで設計を完成させ、1928年6月8日に起工式となりました。

 伊東の考え方は明快です。

《死者の霊を祀り、祭典をおこなうところである以上、当然、宗教的威儀を保ち、浮華に陥らず、粗野に流れず、しかして森厳なる気分の漂うものでなければならず、これがすなわち精神的実用である。これがためには、日本古来の社寺の様式に由るよりほかには、その道がない》(『科学知識』1930年5月号)

 向拝(屋根が張り出した部分)は日本最大級の唐破風で、本堂は入母屋造り。本堂の左右に切妻造りの「翼堂」があり、ここに記念物を陳列します。本堂の突き当たりに凹部があり、ここに遺骨を安置。その後ろには三重塔があります。塔が方形であることを考えると、さまざまな日本建築の形や様式を組み合わせたものだとわかります。

 ただし、塔には中国やインドの様式を取り入れ、また本堂は列柱で空間を分けるバシリカ様式、内部は高窓から光を入れるキリスト教会風、壁や天井にはイスラム風の幾何学文様を使うなど、さまざまな意匠を採用しています。

震災記念堂の正面
震災記念堂の正面



 伊東は、「この建築は何時代の様式か」と問われても、既往の実例を模倣したものではないので答えられない、強いて言えば「現代もしくは昭和時代」だと書いています。なお、伊東としては木材を使用したかったようですが、耐火性、法律の問題などから、鉄筋コンクリート造となっています。

 伊藤忠太のこだわりは、特に「電灯」と「妖怪」にありました。

 電灯で言えば、向背には和風の吊灯籠がありますが、本堂内の天井には八葉の蓮華型シャンデリアが吊されています。中心の蓮は五葉となっています。

震災記念堂
八葉の蓮華型シャンデリア



 妖怪というのは何か。後に作られた併設の「復興記念館」がわかりやすいですが、そこかしこに「妖怪」が潜んでいるのです。震災記念堂の屋根には怪鳥がとまり、本堂正面の扉上部には光る玉をくわえた鬼などがいます。

震災記念堂
屋根にいた怪鳥(修復前)



 伊東は、「妖怪研究」(『木片集』所収)のなかでこう述べています。

《自然界の現象を見ると、あるものは非常に美しく、あるものは非常に恐ろしい。あるいは神秘的なものがあり、あるいは怪異なものがある。これには何かその奥に偉大な力が潜んでいるに相違ない。この偉大な現象を起こさせるものは人間以上の者で人間以上の形をしたものだろう。この想像が宗教の基となり、化け物を創造するのである》

 伊東は、こうした妖怪を建物に棲まわせることで、悼みとともに、自然への畏怖も表現したのです。

復興記念館の正面に4体並ぶ「ライオー」
復興記念館の正面に4体並ぶ「ライオー」


制作:2021年9月1日


<おまけ>

 伊東忠太の業績は数多くありますが、「造家」という言葉を廃し、これに「建築」という言葉をあてたこと、法隆寺が「日本最古の木造建築」だと証明したことなどが有名です。
 また、伊東設計の震災記念堂を建造したのは、戸田利兵衛です。現在の戸田建設ですが、早稲田大学の大隈講堂、慶応義塾の図書館、横浜税関庁舎などを作っています。
 
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