人生行路図の世界
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「人生行路図」の世界
「青年団」と「処女会」の誕生
ながいき(木)の先には幸福宮があり、ゴールの成功星が輝く
「人生は旅だ」いう名文句がありますが、この言葉はいったいいつ生まれたんでしょうか?
最初に言った人間はわかりませんが、旅が当たり前でない時代には、こんな言葉が生まれるはずもありません。江戸時代後期になって、庶民でも旅行に行けるようになって、はじめて「旅」が比喩として通じるようになりました。
で、旅が普及する以前、「人生は歩いていく道のようなものだ」という言い方が普通でした。これを「人生行路」(じんせいこうろ)といいますが、だからこそ徳川家康も、「人の一生は重き荷を背負いて遠き道を行くがごとし」と言ってるわけです。
その人生のゴールには、資産、名誉、幸福といった「成功」がある一方、自殺や刑務所といった「失敗」もあります。そのため、「途中にある苦労をいとわず、誘惑という脇道にそれるな」という教えは、かなり古い時代から世界中にあります。たとえば『アランビアナイト』にも、
《「そなたの人生行路はふたつの場所のうちのいずれかひとつ、つまり高きにある楽園か、炎炎として燃えさかる地獄の劫火か、そのどちらかにむかってであることに思いをいたしなされや!」》
などといった表現が登場してきます。
余談ながら、日本では絶海が書いた『蕉堅藁』(1403年)という詩文集が、人生は難しい(「人生行路難(かた)し」)という言葉のかなり古い用例のようです。いまでは演歌で「人生航路」なんても言いますな。
『蕉堅藁』「人世由来行路難」
(国会図書館のサイトより)
で、この人生行路を図解したものが、大正時代にブームとなりました。
どれも共通してるのが「苦労トンネル」
最初に作成したのは、おそらくですが、静岡生まれの教育者・天野藤男(あまのふじお)です。
天野は小学校の代用教員から、内務省嘱託となり、地方の若者組織の指導を行いました。
教育者として多くの本を出しましたが、たとえば『都市より田園へ』(1915)には、
《青年よ、汝(なんじ)の前には、生活という大暗礁がある。右には本能の海がある。左には勢利(権勢と利益)の沼がある。難(かた)い哉(かな)。現代青年の処世や。本能の海を抜手(ぬきで)切って渡った上に、生活の暗礁を乗り越えて勢利の彼岸に到着しなければならぬ。余程(よほど)意志の強い男子でなくば、海を越え、山を越えての奮闘努力は至難である》
と書かれています。こうした教訓を図解したものが「人生行路図」です。
右には本能の悪道、左は勢利の善道
で、オリジナルの「人生行路図」のゴールは、「子孫繁昌田」や「成功田」となっていて、まさに農業こそ成功の秘密となっていることがわかります。
逆に、人生のスタートを見ると、小学校の先に「買い食い」や「煙草」がきて、ハイカラの地に悪の入口があることがわかります。
これがオリジナルのゴール。最後は「ナガイキ(木)」を越えて安楽神社に
オリジナルのスタート付近。生意気(木)の先に放蕩(塔)
つまり、天野の基本的な考えは「田舎は正しく、都会は悪い」というものです。前述の『都市より田園へ』にいたっては、一冊丸ごと都会の悪口を書いた珍しい本です。
こうした天野の考えは、地方にあった若者組織「青年団」を通じて普及していきました。青年団は未婚男の集まりですが、未婚女性の組織は「処女会」や「乙女会」として存在しました。この場合の処女という言葉に性的な意味あいはありません。
青年団や処女会の起源はよくわかりませんが、1890年に広島の山本滝之助が作った「好友会」という青年組織が最初期のようです。日露戦争以降、各地で増えましたが、若者の教育が目的なので、当初は学校の先生が幹事を務めていました。
1921年に内務省が刊行した『全国処女会婦人会の概況』によれば、この年、全国に処女会は6185あり、会員数で53万人と記録されるほど、全国で広がりを見せています。
具体的に何をやったかというと、県ごとに大きく違いますが、たとえば北海道では「補習」「作法」に始まり、「代用食奨励」「図書購読」「日光浴大会」「出征軍人慰問袋の作成」「裁縫」「割烹研究」などが行われました。
都会でカフェー、遊郭の誘惑に負けると……
1921年5月、『東京国民新聞』が青年団と処女会の改善を図るため、異性への注文を募集すると、投書は全国から2500も来ました。その投書をすべて読んだ天野は、双方からの要望を以下のようにまとめました(天野『親愛なる処女へ』より)。
<女から男への希望>
●人格を高潔に保ってほしい
●お酒をやめてほしい
●嫌らしい風をやめてほしい
●女の境遇を理解して人格を認めてほしい
●理想を高く持ってほしい
●社会のために尽くすという考えを持ってほしい
<男から女への希望>
●虚栄を戒め、つつしんでほしい
●着物を飾るより、頭の中を飾ってほしい
●化粧もいいが、たまには本を読んでほしい
●農業の意義と尊厳を知ってほしい
●都市に憧れて田舎を出ないでほしい
●貧乏な男だからと、馬鹿にしないでほしい
●体をもっと丈夫にしてほしい
これを見てもわかるとおり、当時の農村では「都会へ出ていく高慢ちきなバカ女」が大きな問題でした。農村で嫁がいなくなるからです。とはいえ、男は「酒飲みで身勝手なクズ」ばかりなので、女が都会に憧れるのも当然と言えば当然です。
強盗や詐欺をして、賭博にはまり……
実は、こうした都会への憧れは、平塚らいてうの女性解放運動が大きな影響を与えていました。らいてうが「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である」と『青鞜』創刊号に書いたのが1911年。その翌年、読売新聞が「新しい女」の連載を開始して、第1回に与謝野晶子を取り上げます。
平塚らいてうは高級官吏の娘で、東京のド真ん中・四谷で生まれました。与謝野晶子は老舗和菓子屋の娘で、大阪堺市の真ん中で生まれました。
つまり、解放され、自立した女性とは、つまるところ、都会の女でした。
天野が指導した「処女会」自体は、田舎の中で女性の解放と自立を目指したものです。言うまでもなく、かつて女性に自由な結婚はあまり認められていませんでした。そのため、自由意思で結婚しようというのが大きな教えの1つだったのです。
民俗学者の柳田國男は、そのことが逆に、田舎の未婚率を高めたと指摘しています(『明治大正史世相篇』)。
首を吊るか身投げするか、監獄に入る失敗人生に
1918年、各地方の処女会などを結ぶ連絡機関として「処女会中央部」が設立され、さらに1927年、全国の処女会を統一し「大日本連合女子青年団」が創設されました。この段階ではまだ女子のみですが、1941年、男子だけの大日本青年団などと統合され、「大日本青少年団」として再編されました。
大日本青少年団は、1942年、閣議決定に基づいて「大政翼賛会」の傘下に入ります。そして1945年、大政翼賛会も「大日本翼賛壮年団」も「大日本婦人会」もすべてが「国民義勇隊」として一括りになりました。
本土決戦に備えるための国民統制は、こうして見事に組織化されていきました。
天野は1921年に死んでいますが、まさか処女会が本土決戦部隊になるとは想像だにしなかったと思います。理想の「人生行路」は、結局、戦争によってすべて台無しになってしまったのです。
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制作:2012年6月21日
<おまけ>
田舎の動きとは別に、都会では、平塚らいてうと与謝野晶子が、1918年に「母性保護論争」を開始します。簡単に言えば、「女は経済的にも独立すべき」という考えの与謝野晶子が、「母性は国に守ってもらう」というらいてうを攻撃したのです。らいていの母性主義は「形を変えた良妻賢母」だという批判でした。
その後、らいていは左翼陣営からも攻撃されますが、戦後は本人も左翼的な位置から平和運動に尽力しました。
<おまけ2>
冗談だと思いますが、この天野先生、あんまり女性にはモテなかったようです。
《自分は東京に来てから4年になるが、まだ一度も(女性から)誘惑にあったことがない。ゆく春の杜鵑(ほととぎす)が啼(な)きわたる夕暮れなどは、広い東京だもの、一人位誘惑してくれる乙女がありそうなもの。『あなたは寂しくありませんか……』というような女があったらどんなに嬉しいだろう。蓼食う虫もさまざまとか、一人位は? と、四つ辻なんぞに佇(たたず)んでいたことがあったが、ツイぞ誘惑されたことがない》
などと本に書いてます。東京でモテなかったから、東京に逆恨みしたんじゃないの、なんて気もしないではありませんな(笑)。