関東大震災を予知した男
地震予知と地震観測の歴史

関東大震災の地震計
関東大震災の地震計


 日本初の地震観測は、1872年(明治5年)、東京・日本橋で、お雇い外国人だったオランダ人のフルベッキが長さ1.8メートルの振り子を使って観測したのが最初です。

 1875年、東京気象台(1887年に中央気象台と改称。気象庁の前身)が内務省地理寮構内(現在のホテルオークラのあたり)に設立されます。このとき、お雇い外国人シャーボーが持ち込んだイタリア製の地震計が使われ、日本における地震観測がスタートします。

 1880年(明治13年)2月22日、M5.8の横浜地震が起きます。規模は小さかったものの、ここから外国人による地震研究が本格化、イギリス人のジョン・ミルンが提唱し、日本地震学会が設立されます。

ジョン・ミルン
ジョン・ミルン


 1883年、ミルンは『Earthquakes and Other Earth Movements』(地震等の地球運動)と題する地震学の解説書を出版。この第18章は「地震予知」がテーマでした。ここで、宏観異常現象(地震の前に鳥が鳴く、蒸し暑い日に地震が起きやすいなどの前兆)について触れられています。
 安政大地震(1855年)では、磁力が消えるという現象が見られたことから、日本でもこの年から地磁気や空中電気の観測が始まりますが、地震予知につながる観測例はありませんでした。

 1885年、日本人初の地震学教授である関谷清景(1854〜1896)が、理医学講談会で地震予知に関する講演を行います。内容は、

《彼の鳥や土竜(モグラ)の如き動物が地震の前に擾(さわ)ぐのは人間より先きに地の微動するに感じての故なり。
 されども動物の振舞を見て地震を予言することはおぼつかなしと云うことを申し、又天気の模様、気圧の変化は地震を発するの一原因となることはあるべけれども此二つの者の関係は甚だ微弱にしてとても之を以て地震を前知することの出来ぬと云うことと、又地震の時磁石が力を失うと云うことも大地震のときには左様なることを書物に書てあるが夫(そ)れは学問が未だ進歩せざる時分のことなり》(『東洋学芸雑誌』第3巻50号別刷り「地震を前知するの法如何」より)


 と、宏観異常現象に疑問を呈し、さらに全国に地震計を設置するよう、提言したものです。
 この1885年は、日本の地震学の基礎を作った3人のお雇い外国人(ジョン・ミルン、ジェームズ・ユーイング、トマス・グレイ)が作った地震計が、東京気象台に初めて設置された年でもあります。この「ユーイング=グレイ=ミルン地震計」によって、地震動の水平、上下、時刻データの記録が可能になりました。

 1891年(明治24年)10月28日、M8.0の巨大地震が、岐阜県南西部の根尾谷断層を震源に発生します。いわゆる濃尾地震で、死者 7000人・全壊家屋14万棟と、内陸地震では国内最大です。

濃尾地震の断層
濃尾地震の断層


 1892年、濃尾地震を受けて、菊池大麓(きくちだいろく)が「震災予防調査会」を発足させます。これは内閣直属の研究機関で、地震の被害を軽減させる研究が目的でした。

 1896年、大森房吉が東京帝国大学の地震学教授に就任。大森はミルンに地震学を学び、日本の「地震学の父」と呼ばれます。
 1902年以降、日下部四郎太は地震波の伝播に関する多くの論文を発表し、大森と並んで地震学の基礎を作ります。

大森房吉
大森房吉

大森房吉が作った地震計
大森房吉が作った地震計


 1905年、大森の下で無給の助教授として働いていた今村明恒が、雑誌『太陽』に防災記事「市街地に於る地震の生命及財産に対する損害を軽減する簡法」を発表。内容は「東京に大地震が発生すれば圧死者3000人、焼死者は10万ないし20万人」というもので、これが関東大震災の予言だと言われています。

今村明恒
今村明恒


 本サイトでは、この原資料を入手したので、現代語訳しておきます。

《1000人以上の死者を出した地震は、慶安2年(1649)、元禄16年(1703)、安政2年(1855)の3回の地震で、いずれも夜に起きている。この3大地震は平均100年に1回起きており、最後の安政大地震からすでに50年経っている。慶安地震から元禄地震までは54年しかたっておらず、次の大地震まで、多少の時期がずれることはあっても、一日の猶予もない。

 今後、東京を襲う大地震は、最大でも、6700人が死んだ安政地震程度だろう。
(元禄地震は、当時の人口が少なかったことと、深川のような危険地帯がまだ未開で、火災が軽かったから死者5000人程度で済んだが、もしかしたら安政地震より大きかったかもしれない)

 地震の強さは、下町の低湿地帯では、濃尾地震の岐阜・大垣に匹敵するほどで、揺れは8〜9寸(24〜27センチ)に及び、家屋に対する水平の破壊力は自重の7分の2に達する。

 地盤の最も堅牢な山の手でも、揺れは4寸(12センチ)に達し、水平の破壊力は、明治27年の東京地震で下町を襲ったのと同じくらいで、自重の10分の1に及ぶ。

 下町で最も地盤が弱いのは深川・本所で、浅草から吉原一帯がこれに続く。
 かつて駿河台と飯田町の間にあった低地で、400年前まで神田淵と呼ばれていた旧小川町も危ない。江戸川両岸と丸ノ内の一部も含まれる。築地は埋め立て層が薄いので比較的地盤が固く、芝では柴井町から金杉がゆるく、日本橋では高砂町一帯が地盤の弱い埋立地だ。
 銀座は比較的堅牢で、安政地震で1軒も家が潰れなかったのは、この地が、早い時期に水面に現れた三角州で、埋立地ではなかったからか。
 下町で最も堅牢なのは浅草の元鳥越町あたり。ここはもともと高台で、元禄時代に削り取って付近の埋め立てに使ったのである。

 堅牢な場所と軟弱な場所、両極端の場所で地震の被害を想像してみよう。

 堅牢な場所では、工場の煉瓦煙突はほとんど破壊され、家の煙突も屋根から崩落し、大きく家を壊すだろう。煉瓦家屋は2階以上で破損するが、作りが甘ければ全壊である。木造家屋の多くは無事だろうが、土壁の崩壊や大きな亀裂が入る。もちろん古くて粗悪なら、倒壊するものもある。
 人や家畜の被害は軽微でも、水道管は継ぎ目部分で離れ、大噴水を起こし、給水に困るだろう。

 軟弱な場所では、被害は苛烈である。
 普通の煉瓦家屋はほとんど全壊し、木造家屋も1割は全潰する。なかには潰れる寺院も出てくるはずだ。
 川沿いの湿地では幅2〜3尺(60〜90センチ)の地割れが起き、たいていの橋脚は被害を受け、水道管はところどころで破断し、まったく用をなさなくなる。

 市内全域の被害は圧死者3000、全壊家屋3万に及び、金額で言えば2000万円に達するだろう。

 ただし、これは火災が起きなかったと想定した場合である。
 もし火災が薪炭だけで起き、安政地震程度の規模だったとしても、火は5万もの家々を焼き尽くし、死者は3倍の8000〜9000にのぼるだろう。安政地震の死者は6700だが、今日では、工場などの煉瓦建築で多数の死者が出ることが予想されるので、これだけの被害を予測せざるを得ない。被害額は濃尾地震なみの6000万円に達するだろう。火災は単に家を焼き払うのではなく、そこにあったほとんど一切合切を焼き尽くすのだ。

 前述の通り、東京の大地震は夜間に起こることが多い。石油灯が転倒して火災になったら、八百八町の至るところからら発火し、火事を防ぐ手立てはない。ちょっとでも風があれば、たちどころに全市が灰燼に帰すだろう。風が弱かったとしても、市内の過半は烏有(うゆう)に帰す。広範囲で火事が起き、被害総額は数億円、死者は10万人にも達するだろう。ここまで推測すると、慄然とせざるを得ない》


 この後、今村は、「被害を軽減するためには、地震より火災を防げ」として、住宅の補強策や初期消火をアドバイスした上で、ランプをやめて電気に代えろと提言します。

今村明恒の地震予知論文
今村明恒の地震予知論文


 記事はまっとうなもので、特に問題はないはずでしたが、翌1906年1月16日、東京二六新聞が「今村博士の大地震襲来説 東京市大罹災の予言」と題し、次のように煽ったことで大騒動になりました。

《丙午の年には火災多かるべし、現に本年は新年以来各所に火災を出し、閑院宮邸をも焼くに至れるを見よと。或は曰ふ丙午の年に天災多かるべし、現に新年以来2回の強震あり、大森海岸には津浪さへありたるを見よと。斯くの如く蜚説紛々たれど、何れも迷信、取るに足らざれども、此等の迷信蜚説とは稍々(やや)趣を異にし、帝国大学教授今村博士の一説出て来れり。其は学理より大地震の襲来を予言せるものにして……》

 今村の記事の一部を引用し、すぐにも東京に大地震が来ると書き飛ばしたのです。騒ぎが大きくなったことで、師匠の大森房吉が、雑誌『太陽』に「今村説は根拠なき浮説。今後50〜60年、東京に大地震は来ない」と完膚なきまでに攻撃したのです。
 しかし、実は大森自身も、40〜50年以内に、相模湾を震源とする地震が来ると予測していました。騒ぎの火消しを優先し、自説を取り下げたのです。

今村明恒の作った地震計
今村明恒の作った地震計


 そして1923年9月1日、M7.9の関東大地震が起きました。
 大森房吉は、出張先のメルボルンから急ぎ帰国しますが、心労と脳腫瘍で入院し、およそ2カ月後に死亡します。日下部四郎太も翌年死亡し、日本の地震学界から、大御所が相次いでいなくなりました。
 まもなく、東京帝大に今村明恒を主任教授として、「地震学科」が開設されます。

東大地震学教室
東大地震学教室


 1925年、関東大震災に対して有効な対策を打ち出せなかった震災予防調査会が消滅し、東大工学部内に「地震研究所」が設立されます。
 今村明恒は過去の地震を分析し、関東地方で大地震が起きると、近い時期に西日本の南海地方に大地震が起きるという複数の記録に気づきました。そして1928年、今村は私財を使って和歌山県田辺に「南海地動観測所」を開設します。

 一方、1920年代には、深発地震の存在が志田順・和達清夫らによって、相次いで指摘されました。志田順の研究で、それまで位置しかわからなかった震源について、詳細なデータがつかめるようになりました。

 1933年(昭和8年)3月3日、M8.1の三陸地震。
 同年、今村は「南海道沖大地震の謎」を発表し、東南海地震を予想しています。

 そして、今村の予想通り、1944年から1945年にかけて、中部地方を中心に大地震が発生します。具体的には、

 ・1944年12月7日、東南海地震(M7.9)
 ・1945年1月13日、三河地震(M6.8)

 で、この地震によって名古屋近郊の三菱重工や中島飛行機の軍需工場が壊滅し、日本は戦争の継続が困難になるのです。

 多くの観測所が物資不足で機能を停止していたなか、終戦後の1946年12月21日には、南海地震(M8.0)がふたたび中部地方を襲います。

 この地震の2日後、朝日新聞に「今村博士は1週間前に地震予知していた」という記事が出ます。12月13日に、今村が室戸市長に「大地震が起きるかもしれないので、壊れた験潮儀を修復してほしい」という手紙を差し出していたのです。手紙が市長の元に届いたのは、地震発生の翌日のことでした。


地震予知の誕生
消された大地震(東南海地震、三河地震)


制作:2013年9月16日


<おまけ>
 戦後の地震研究についてまとめておきます。

 1962年、地震予知に再び取り組むべく、和達清夫が中心となって「地震予知-現状とその推進計画」が策定。これが地震予知推進のブループリント(工程表)とされています。
 1965年、地震予知研究が正式にスタートし、1969年、国土地理院に「地震予知連絡会」が発足。

 1978年、「大規模地震対策特別措置法」が制定。これは東海地震の予知は可能という前提で、被害の軽減のため、地震時には大幅に私権を制限できるもの。

 そして、1995年1月17日、阪神淡路大震災(M7.3)。完全にノーマークだった地震で、以後、活断層を丁寧に見つける以外、地震予知はできないという見解が主流に。
 その後、地震予知は「地震予知のための新たな観測研究計画」という名前で継続しましたが、東日本大震災を予知できなかったことで、ついに文科省は「地震予知」の看板を下ろすことに決めました。
 寂しい話ですが、結局のところ、地震予知は不可能だったわけですね。
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