児島湾、干拓で始まった近代化
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児島湾の締切堤防
児島湾の締切堤防



 1184年、一ノ谷の戦い(神戸市須磨区)で敗れた平家は、岡山方面に逃れます。源氏は追討軍を出しますが、あたり一帯は平家の味方が多く、しかも瀬戸内海の制海権は完全に握られています。追討軍の佐々木盛綱は、備前児島に城郭を構える平行盛をなんとか攻め落としたいと考えますが、船を持たない源氏は攻撃に難儀することになります。盛綱は、地元の漁民から浅瀬の場所を聞き、干潮時に一気に海を渡り、みごと城を落とすのでした。

 このとき、浅瀬の目印となったのが「浮洲岩(藤戸石)」という珍しい形の岩です。後に足利義満によって金閣寺に移され、その後も織田信長によって二条城へ、豊臣秀吉によって聚楽第に移されるなどして、現在は醍醐寺の庭園に置かれています。もともと藤戸石があった場所には「浮洲岩跡」がありますが、現在は一面が農地になっています。

浮洲岩跡(1930年)
浮洲岩跡(1930年)



 このあたりは干拓しやすいこともあり、戦国時代は宇喜多家、江戸初期は備中松山藩によって、小規模な干拓がおこなわれてきました。その結果、いつの間にか浮洲岩跡は農地の真ん中に位置することになったのです。

 別の例をあげましょう。

 1575年、毛利軍によって攻められ、城主の妻・鶴姫が突撃して命を落としたことで知られる常山城は、かつて児島湾のほとりに立っていました。1930年の段階でも城跡から児島湾が間近に眺望できました。しかし、現在は、はるか彼方に望めるだけです。つまり、ここはわりと最近になって干拓されたことがわかります。

 岡山県の児島湾は、数百年にわたって埋め立てと干拓がおこなわれてきました。埋め立ては「水中に土を盛ること」、干拓は「締め切って、堤防内の水を抜いて土地を干し上げること」です。つまり、埋め立て地は水面より高くなりますが、干拓地は水面より低くなります。

 そんなわけで、今回は、この地の干拓史についてまとめます。

常山城跡から見た児島湾(1930年)
常山城跡から見た児島湾(1930年)



 岡山の干拓を考えるうえで、最初に登場する人物は、江戸時代前期の岡山藩士、熊沢蕃山と津田永忠です。

 岡山城の天守閣からは、日本三名園の1つとして知られる後楽園はもちろん、天然の外堀に使われている旭川が眺望できます。しかし、この旭川、築城時に無理やり城の背後を流れるように改修したため、しばしば洪水を引き起こしました。そのため、まず熊沢蕃山が放水路の建設を発案し、のちに津田が、1686年から放水路として実際に百間川を開削します。津田は、1679年以降スタートしていた新田開発のための干拓を支援するため、別の用水路の開削も進めます。

 津田の業績は大きく、干拓だけでなく、後楽園も1700年に完成させました。また、日本最古の庶民学校である閑谷学校の開校にも尽力しています。

焼失前の岡山城(1931年)
焼失前の岡山城(1931年)



 続いて登場するのは、江戸時代後期の実業家・野崎武左衛門です。もともと足袋の製造販売をやっていましたが、行きづまって転身し、塩浜を築いて塩を作り始めます。
 
 かつて塩は、海水を濃縮し、煮詰めて作りました。瀬戸内海では「入浜式塩田」によって満潮時に海水をため、塩分濃度の高い「かん水」を作り、それを煮詰めて結晶化させて作りました。

入浜式塩田(山口県防府市・三田尻塩田記念産業公園)
入浜式塩田(山口県防府市・三田尻塩田記念産業公園)



 野崎は、1829年、現在の児島駅の裏手に約48haの塩田を完成させ(野崎浜)、その後も児島半島南岸などに次々と塩田を開発。さらに、岡山藩の命を受け、200haとも500haとも言われる新田を開発しました。こうして野崎家は日本屈指の塩田地主となり、塩田王と呼ばれることになります。現在のナイカイ塩業です。

旧野崎家住宅
旧野崎家住宅



 野崎家の旧邸宅は国の重要文化財に指定されており、その豪壮さは驚くほどですが、実は野崎家は、いまも児島の大地主です。瀬戸大橋が架橋されるとき、野崎浜の塩田跡地が開発され児島駅や道路が整備されました。地元では、野崎家のおかげで瀬戸大橋ができたと言う人もいます。

 児島湾には、吉井川、旭川、高梁川など、岡山県の大きな河川すべてが流入してきます。上流部ではたたら製鉄用に木材が伐採されており、昔から大量の土砂が流れ込んで干潟が発達していました。つまり、干拓するには好条件だったわけですが、大規模な干拓が始まったのはやはり明治時代に入ってからです。

明治の児島湾地図(国立公文書館)
明治の児島湾地図(国立公文書館)



 ここで登場するのは、南海電鉄、大成建設、毎日新聞社、関西電力、東洋紡、DOWAホールディングスなどの前身企業を育て上げた藤田伝三郎です。干拓は予算難でなかなか進まなかったため、旧藩士たちは資金援助を藤田に依頼。採算の見通しはまったくなかったものの、国土創成に夢を感じた藤田は支援を決めました。このあたりは、政商という世間の評判を超えたスケールの大きさです。

 干拓事業は1884年(明治17年)に出願、5年後の1889年(明治22年)に認可されましたが、地元の反対運動などが続き、着工したのは1899年(明治32年)でした。児島湾内7000haのうち、およそ5500haを大地に変え、すべてが完成したのは1963年(昭和38年)でした。

上空から見た児島湾の干拓
上空から見た児島湾の干拓



 当たり前ですが、干拓により広大な農地ができます。そのため、江戸時代以降、現代まで、日本では数多くの干拓が続けられてきました。
 
 東京近郊で有名なのは、埼玉県の見沼田んぼです。浦和や大宮の東に広がっていた広大な沼地が江戸時代から干拓され、新田開発により「江戸の米倉」ともいわれる穀倉地帯になりました。

 前述のとおり、この地は干拓だったため、水面より低い土地です。そのため、1934年(昭和9年)、東京市は村山貯水池(多摩湖)・山口貯水池(狭山湖)に続く、第3の貯水池の場所に選定しましたが、大規模な反対運動で貯水池計画は潰えました。現在は保全が進んでいますが、今でも広大な田んぼが見られます。

見沼田んぼからさいたま新都心を望む
見沼田んぼからさいたま新都心を望む



 同時期、千葉では、たとえば潮来市の内浪逆浦なども干拓されています。

潮来の干拓
潮来の干拓



 戦前の干拓で有名なのが、京都の南にあった巨椋池です。国営干拓事業は1933年(昭和8年)から1941年(昭和16年)にかけておこなわれ、広大な農地が誕生しました。

巨椋池
京都の南にあった巨大な巨椋池


 戦前も食料増産のため干拓がおこなわれましたが、戦争が終わると深刻な食糧難のため、本格的な干拓が始まります。静岡県の浜名湖でも、緊急開拓事業がおこなわれました。干拓された村櫛村の沿岸部は、現在は浜名湖ガーデンパークになっています。2004年には、浜名湖花博が開催されました。

浜名湖の村櫛干拓
浜名湖の村櫛干拓



 また、かつて琵琶湖のそばには40数カ所も内湖がありました。そのうち最大のものが大中湖で、信長の安土城は、この大中湖に面していました。大中湖は1952年(昭和27年)に干拓計画が承認され、1957年(昭和32年)から工事開始。1966年から入植が始まりました。

 このように、特に第2次世界大戦後は、不足する食糧確保や失業者対策の一環として、全国で干拓が計画されたのです。

干拓された大中湖
干拓された大中湖



 数ある干拓でもっとも有名なのが、1957年(昭和32年)に始まった八郎潟(秋田県)です。1964年、ようやく大潟村が発足しました。当初、米の増産を目指していた干拓事業ですが、時代が下ると減反政策が始まり、長く農業行政は混乱することになります。

八郎潟の干拓モデル案(大潟村干拓博物館)
八郎潟の干拓モデル案(大潟村干拓博物館)



 農政の混乱もそうですが、干拓により、当然のことながら豊かな漁場や干潟が失われてしまいます。たとえば、長崎県の諫早湾では、1989年から「国営諫早湾干拓事業」の工事がおこなわれ、1997年4月14日に潮受け堤防が閉じられたことで、豊穣の海が死に絶えました。

 諫早湾では、漁業者による開門請求、営農者による開門差止め請求が同時に続いており、現在も着地していません。すでに、時代は干拓のような大規模な環境改変を疑問視する声のほうが強くなっているのです。

諫早湾の潮受け堤防排水門(1999年)
諫早湾の潮受け堤防排水門(1999年)



 江戸時代以降の干拓でできた高梁川河口の農地は、塩分が多く稲作に不適でした。しかし、温暖で雨が少ない気候は、綿花の栽培に適していました。綿花は、塩分があっても育つのです。一方で、染色などに使う水も豊富なことから、次第に繊維業者が集まりました。

 江戸時代は木綿を原料に真田紐(刀の下げ緒、下駄の鼻緒などに使用)や小倉帯などを生産。明治時代に入ると、政府が殖産興業を目指し、近代的な紡績業の育成が始まりました。まずは軍服や足袋の生産で有名となり、現在では、学生服やジーンズの生産地として知られます。

 なお、近年は中国やインドの安価な綿に押され、綿花栽培はほとんどおこなわれていません。

児島湾干拓の排水機場(児島湾干拓資料室)
あちこちにある児島湾干拓の排水機場(児島湾干拓資料室)



 そして1971年、イオン膜交換法による画期的な製塩法が実用化され、全国の塩田は一斉に閉鎖されました。農地もコメが余り、荒廃農地や耕作放棄地が大量に出現しています。膨大なお金を投じて作られた干拓地や埋立地は、いまでは多くが用途に困る状態となっているのです。

八郎潟で使われている排水ポンプの羽根車(大潟村干拓博物館)
八郎潟で使われている排水ポンプの羽根車(大潟村干拓博物館)


制作:2022年12月5日

<おまけ>

 岡山市の隣りにある瀬戸内市には、かつて東洋一と呼ばれた塩田がありました。それが錦海塩田ですが、塩田が閉鎖されたいま、国内有数のメガソーラーとして、膨大な数の太陽光パネルが並んでいます。ちなみに、近くの鹿忍塩田は、閉鎖後、鹿忍グリーンファームというペンション村になりました。しかし、いつしか排水ポンプが壊れ、まもなく水没。現在は、廃墟となったペンション群が水面から顔を出す「水没ペンション村」として知られています。

旧錦海塩田を空撮
旧錦海塩田を空撮
 
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