川崎造船所「軍艦で大儲け」の歴史
あるいは「国立西洋美術館」のはじまり
川崎造船所の広告(明治19年)
いまから100年前、1日の労働時間は12時間が普通でした。現在、法定労働時間は「1日8時間」ですが、日本で初めて8時間制を導入したのは、川崎造船所、つまり現在の川崎重工業です。
第1次世界大戦で造船業は活況を呈し、川崎造船の従業員は戦前の2倍、およそ1万5000人になっていました。米騒動が起こり、労働者側はインフレに見合う賃上げを要求。さぁ、これから労使交渉というとき、社長の松方幸次郎がいきなり「1日8時間労働で給料も減らさず」と宣言したのです。
当時は世界的にも8時間労働は珍しく、マスコミは大きく報道します。1919年9月のことで、川崎造船は、翌1920年の第1回メーデーを祝ってもいます。
川崎造船所の旧本社
しかし、1919年まで爆発的に儲けていた川崎造船ですが、1921年ごろから雲行きが怪しくなり、1927年には倒産寸前となりました。
そして、そのとき失ったのが、世界トップレベルの美術コレクションです。
今回は、川崎重工と美術コレクションの流転についてまとめます。
神戸の川崎重工業(右下に潜水艦)
川崎造船の創業者は、鹿児島生まれの川崎正蔵。
1869年(明治2年)、正蔵が大阪から船で鹿児島に向かっている途中、土佐沖で暴風雨に遭い、あやうく転覆しかけます。折しも、その日は中秋の名月。九死に一生を得た正蔵は、「雲行きも変わる名残の月見かな」と詠み、ある決意を固めます。
自分が荒天でも生き抜けたのは、運もあるが、西洋船の技術によるものだ。自分も造船業を始めよう——というものです。
当時、江戸時代以来の鎖国により、500石積以上の大型船の建造は禁止されていました(大船建造の禁)。しかも、まだ和船が主流で、西洋船の製造はほとんどおこなわれていません。そこで、駅逓頭の前島密に直訴し、禁令を解いてもらった上で、1878年、東京・築地に土地を貸りうけ、造船業を始めます。
築地の造船所
1886年(明治19年)、神戸の官営兵庫造船所が払い下げられ、川崎は神戸に工場を一本化。1896年、川崎造船所が設立され、初代社長に松方幸次郎(日本銀行を設立した松方正義元首相の3男)が就任します。
神戸に作られた川崎造船所
1894年(明治27年)、日清戦争が始まると、日本は船舶不足に悩まされます。そこで、日本政府は造船と海運の保護政策を推進。1896年、「造船奨励法」と「航海奨励法」が同時成立します。
「造船奨励法」は優秀な国産船に補助金を出すもの、「航海奨励法」は航海距離に応じて補助金を出すものですが、当時の造船技術はレベルが低く、結果として「航海奨励法」により、外国船の輸入が盛んになりました。
本来の意図とは異なるため、航海奨励法は改正され、以後、国内の造船業が発展します。なお、「造船奨励法」適用第1号は、川崎造船製造の「伊予丸」でした。
伊予丸の進水式
川崎造船は1900年、初めて海軍省から水雷艇「千鳥」の建造発注を受け、これ以降、軍艦建造が拡大。
さらに、日露戦争後の1906年には、日本初の国産潜水艦(第6潜水艇)を建造。
その後、製鉄事業に進出し、蒸気機関車や橋桁まで製造開始します。
川崎の第1号機関車6700型(明治44年使用開始)
1911年、戦艦「榛名」が発注されました。これは、主力艦として初めて民間に建造発注された艦です。ほぼ同時に、三菱の長崎造船所にも戦艦「霧島」が発注され、両社は激しいライバル意識を燃やしながら建造に当たりました。
ちなみに、日本で戦艦・空母を建造したのは、この神戸と長崎しかありません。
戦艦「榛名」(上は艤装中の写真)
川崎造船所は、技術力の高さに定評がありました。
1911年におこなわれた巡洋艦「平戸」の進水式では、海軍の艦政本部長から、こんな賞状が授与されています。
《本邦に於ける舶用カーチス・タービン機械の製造は、貴社の手に成れる前記両艦(「河内」「筑紫」)装備のものを以て其(その)嚆矢(=はじまり)とし、予期以上の良果を挙げられたるを見るは、邦家(=日本)の為(た)め欣喜に堪(た)へざると同時に、我が工業界の一進歩として慶すべき事なりとす》(『川崎造船所四十年史』より省略引用)
川崎造船所は、船舶用タービンに関し、海外と率先して技術提携していたため、当時、圧倒的な技術力を持っていたのです。
カーチス式蒸気タービン機(1910年頃)
1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子夫妻が、セルビアの青年に暗殺されました。いわゆるサラエボ事件です。その1カ月後、「オーストリア・ハンガリー帝国がセルビアに対し最後通牒」というニュースが飛び込んできました。
この頃、松方幸次郎は川崎造船所だけでなく、神戸新聞社の社長も務めていました。このニュースを聞き、幸次郎は世界大戦が起きることを確信、船舶の大増産に入ります。それも、どんな注文が来るかわからないので、ストックボートという、さまざまな船に応用が利く船底を一気呵成に作り始めた
のです。
1918年に進水した「来福丸」は30日で完成し世界記録に
これは、ロンドンタイムズが「日本に『船の既製品メーカー』が出現した」と報じるほど、驚愕の出来事でした。
当時、世界大戦はまだ一度も起きていません。しかし、幸次郎はそれを見事に予測したのです。実際、第1次世界大戦となり、世界シェア1位と2位の造船国イギリスとドイツが交戦、船は高値で売れ、川崎造船は大儲けしました。日本一の造船会社の誕生です。
1カ月で完成した「来福丸」の工事写真(左から1日目、3日目、8日目)
このとき、幸次郎は「日本にいては情報が入らない」と本社機能をロンドンに移しています。幸次郎の世話をしたのが、当時の大商社「鈴木商店」ロンドン支店。
日本では鉄鋼が不足しており、船舶の製造も危ぶまれましたが、鈴木商店の活躍で、日本はアメリカと「日米船鉄交換契約」を結ぶことに成功します。これは「アメリカが日本に鉄を供給し、その代金を日本は完成した船で払う。その際、供給された鉄鋼の3分の1は日本が自由に使える」というものでした。これで川崎造船は鉄鋼を確保することができました。
ロンドン滞在中のある日、幸次郎が繁華街のピカデリー・サーカスを歩いていると、突如、ドイツ軍機からの空襲を受けました。危うく難を逃れた幸次郎は、飛行機の製造に乗り出すことを決めます。
非常に荒っぽくいえば、川崎造船所は日清戦争で造船に本格参入し、日露戦争で機関車の国産化に乗り出し、第1次世界大戦で飛行機と潜水艦の生産拡大に入ったのです。
八七式重爆撃機
さて、『川崎重工業小史』によれば、第一次世界大戦下、巨額の利益をあげた川崎造船は、「部長クラスで70〜100カ月分のボーナスが支給され、配当も4割が続いた」とされています。こうして、大株主でもあった松方幸次郎は大金持ちになりました。
幸次郎はその巨額なマネーを、ひたすら美術のコレクションに使います。
最初に購入したのは、フランスの宝石商アンリ・ベベールの世界最高の浮世絵コレクション(8213点)です。当時、浮世絵は海外に流出し、日本に質のいいものは何もないと言われていました。情報をもたらしたのは、バッキンガム宮殿に出入りしていた美術商「山中商会」ロンドン支店です。
この浮世絵コレクションは1919年、日本に運ばれ、川崎造船の地下倉庫に隠されました。
松方は、その後、大量に西洋美術を購入します。
有名なエピソードが、画商に行き、ステッキで「全部でいくらだ?」と言ってすべて買い占める「ステッキ買い」です。
1921年には、印象派の巨匠モネの家を訪れ、「邸内の絵をすべて買いたい」と言ってモネを怒らせます。しかし、「私は日本の若い画家たちに本物の油絵を見せてやりたい」と説明し、大量購入に成功します。
松方コレクションの全体像は不明ですが、モネ、ルノワール、ゴーギャン、さらにロダンの彫刻など1万点を超える作品を買い集めました。総額については諸説ありますが、今日の貨幣価値でいえば200億円とも600億円とも言われます。
松方が買ったロダンの「考える人」(国立西洋美術館)
ずいぶん巨額ですが、一説によると、松方は海軍省の依頼でドイツの潜水艦Uボートの図面を入手するため、お大尽の演出でカモフラージュしていたと言われます。だとすると、資金の一部は海軍省から出ていた可能性もあります。
松方は、「共楽美術館」という西欧文化の殿堂をつくる計画でした。設計はイギリスの画家フランク・ブラングィンで、幅75m、奥行き80m。中庭に噴水のある建物でした。建設予定地は東京・麻布の松方正義の所有地です。
ちなみに、川崎造船・創業者の川崎正蔵も美術に造詣が深く、実際に美術館を持っていました。有名な作品でいうと「寒山拾得図」などがあります。
また、明代の「万暦七宝」を再現すべく、研究に巨費を投じ、完成した作品を1900年のパリ万国博覧会に出品しています。名誉金牌を受章したこの作品は、ベルギー皇帝がどうしても欲しいというのを断った逸品です(1918年刊行の山本実彦著『川崎正蔵』による)。
松方の美術好きは、間違いなく川崎正蔵の影響を受けているはずです。
川崎正蔵の七宝焼工場(国会図書館『川崎正蔵』による)
さて、絶好調だった川崎造船所にまもなく危機がやってきます。もともと、第1次世界大戦後の不況で、海運状況は悪化していました。
1922年、ワシントン海軍軍縮条約で英・米・日の主力艦の比率が5・5・3と決められます。
当時、日本海軍は「八八艦隊計画」(戦艦8隻、巡洋艦8隻を主力に)を進めていましたが、この案が消滅し、海軍からの注文が激減。ほぼ完成していた巨大戦艦「加賀」も建造が中止になりました(「加賀」は後に空母に改造され、真珠湾攻撃に参加、ミッドウェー海戦で米空母と交戦して沈没します)。
空母「加賀」
主力艦が制限され、潜水艦建造に活路を見出しますが、渾身の潜水艦「70号」が試運転中に沈没。引き揚げなどで巨額の費用がかかります。
やむなく鉄鋼、航空機、車輌などで食いつなぎますが、経営は上向きません。
1923年、関東大震災による「震災手形」処理で経営が深刻化。
さらに1927年、蔵相の失言で取り付け騒ぎが起き、鈴木商店が破産。金融恐慌で、メインバンクの「十五銀行」も影響を受け、川崎造船は資金繰りに詰まります。
幸次郎は松方コレクションを銀行融資の担保にするしかありませんでした。8213枚の浮世絵コレクションや、川崎家の「寒山拾得図」は十五銀行から宮内庁を経て、現在は東京国立博物館に収蔵されています。
また、ロンドンに預けてあった約300点のコレクションは焼失。
そして、パリに保管していた400点ほどの作品群は、第2次世界大戦が始まると「敵国財産」として没収されてしまいます。松方幸次郎は、1928年、経営不振の責任をとって社長を辞任し、1950年、84歳で死去します。死の間際まで、「フランスに行ってコレクションを持ってくる」とつぶやいていたと記録されています。
1958年、松方コレクションのうち、ゴッホの「アルルの寝室」など本当に貴重な17点を除いた371点が日本政府に寄贈されました。
返還の条件が美術館の建設だったため、日本はフランスの建築家ル・コルビュジエに設計を依頼。1959年、総工費2億円超えの「国立西洋美術館」が開館します。
国立西洋美術館
2016年、国立西洋美術館は「ル・コルビュジエの建築作品」の構成資産として世界遺産に登録されました。松方が目指した「共楽美術館」は、こうして姿を変え、今も上野にあるのです。
制作:2016年7月25日
<おまけ>
松方コレクションは返還されましたが、返還されなかった美術コレクションも存在しています。
松方幸次郎に大量の浮世絵と西洋美術を売ったのが、世界最大の東洋美術商だった「山中商会」でした。番頭の山中定次郎はアメリカで大規模なビジネスを展開していましたが、開戦で在米資産は没収され、二束三文でたたき売られました。
山中商会はサンフランシスコ講和会議後、在米資産を取り戻そうとしますが、結局、「請求の法的期限が切れた」との理由でうやむやにされました。
川崎重工の潜水艦「おやしお」(横須賀)