「監獄」と「拷問」の近代史

さらし首
1870年頃、3人の強盗のさらし首


 幕末の1864年秋、鎌倉見物に出かけたイギリス軍のボールドウィン少佐とバード中尉が鶴岡八幡宮近くで攘夷派浪士に殺害されました。いわゆる「鎌倉事件」です。
 主犯の清水清次は、1カ月もたたないうちに逮捕されました。

 その清水について、ジャーナリストであるジョン・レディ・ブラックが裁判から処刑の様子までを詳細に記録しています。
 まずは裁判。証人が3人出てきて、次のように証言しました。

・セイ(未亡人、門前の菓子屋)「その囚人は、神社に行く前に、自分の店の腰掛に帽子をおいた男です」
・カネキチ(11歳の少年)「その男は、抜身を持って、最初の外国人を襲撃しました」
・イチベエ(茶店「かどや」経営者)「その男は、陰暦10月22日の夜、自分の店に来るとすぐ横柄に食べ物を求めた2人の侍のうちの1人です」


 証人喚問が終わると、尋問が始まりました。
「お前は清水清次か?」
「そうだ、おれの名前は清水清次だ」
「お前は陰暦10月22日、鎌倉で外国人士官を殺した者の1人か?」
「そうだ、おれは鎌倉で外国人士官の1人を殺害した」
 最後の尋問は、少しずつ形をかえて何度か繰り返されました。

 こうして清水には「横浜の市街を引き廻し、次に斬首に処し、その首を大道にさらす」という判決が下りました。

清水清次の市中引き回し
清水清次の市中引き回し


 以下、市中引き回しの様子です。

《12月30日午後5時頃、固く縛られ、荷馬に乗せられた囚人は、居留地と日本人町を引き廻された。彼の前には、1枚の板が掲げられ、それには、誰でも読めるように、大きな文字で判決文が書いてあった。多数の下級武士が行列をして歩いていた。この行列には、刻々と数十人という内外人が加わって、増えていった。
 彼は、まさに決然とした激しい外人憎悪者の態度を示した。その全道中、あらん限りの声で、外国人に対する憎しみを表わしている文句を歌い、同国人に自分と同様に、歌えと呼びかけた。彼は外国人からも呼びかけられると、それに答え、自分の行為を誇っていた》(『ヤング・ジャパン』)


 続いて斬首が行われました。
 本来、斬首は非常に簡単で、麻薬を飲ませた囚人の首を刀で斬って即座に終わるのが普通でした。囚人の首は目の前に掘られた1m四方の穴に落ち、その上に胴体が崩れ落ちます。それを被差別階級の人間が処分して終了。 
 しかし、清水は重罪だったため、別の場所で死刑が執行されました。

《もう一度調子の狂った猛烈な叫び声を外国人に向って発したあとで、首を前方に差し出し、「さあ、やれ」といった。一瞬、刀は宙にひらめいた。だが、ああ! 確かに第一撃が死をもたらしたけれども、すなわち脊椎骨は砕け、首は前に落ちかかったが、胴体から首を実際に切り離すには、さらに2回、打ち下ろさねばならなかった。
 刀が最初に振り下ろされた時、砲兵隊は一発を発射した。この音を、殺人者は自分の意識がなくなる前に、最後の音として聞いたことでもあろう》(「同」)


 落とされた清水の首は横浜居留地から約3キロ離れた場所に、鉄の杭に突きさされて3日間さらされました。首には監視の番人がついていて、その前に罪状と宣告文が書かれた立て札がありました。

獄門
清水清次の「獄門」画像


 さて、江戸時代から、日本では自白こそが最も重要な証拠でした。そこで自白を強要するため、さまざまな拷問が用いられます。これは相当広く行なわれ、尋問の中核となっていました。
 苦しい目にあうのは犯人だけでなく、証人も投獄されて犯人と同じような扱いを受けました。食事もまともに与えられず、多くの容疑者が飢えと病気に悩まされました。

水責め 石抱の拷問
拷問の様子。左が水責め、右が石抱(いしだき)

 
 明治時代も拷問は普通に行われていましたが、それを禁止させたのは「近代法の父」と呼ばれるお雇い外国人のボアソナード・ド・フォンタラビエです。日本の刑法や民法を起草した人物ですな。
 1875年4月15日、法案の準備で忙しくしていたとき、隣室から呻き声が聞えてきました。「あれは何だ」と尋ねたところ、役人は曖昧な返事しかしません。気になったボアソナードが呻き声のする部屋に飛び込んだところ、なかでは男が1人、拷問台の上に寝かされ、脚の上に幾層も重い石材が積み重ねてありました。
 これを見て、ボアソナードは「拷問と近代法は両立しない」と叫び、拷問制度の廃止を訴えたのです。こうして1879年12月、拷問制度は廃止されました。

切腹
切腹の様子

杖打ち
杖打ち

火あぶり
火あぶり


 では刑務所はどんなところだったのか?

《獄舎にはたれかれの区別なく詰め込まれるので、ついにはいつも15人から20人の入獄者が雑居している有様である。これらの者は鉄格子をはめた小さな窓枠を通して頭上の屋根から注ぎかける日光以外には、何の光もうけることがない。
 牢獄にあっては、自分の寝具を持ち込むことも拒否されることさえあり、また着物をしっかりと身体につけるための絹やリンネルの織物でできている帯を、日本人にとってはきわめて卑しいものとされている繩紐と取り替えさせられる。
 煙管、煙草、本その他彼らに休養と慰めを与えるようなものは、すべて最も厳重に差し留められている。壁の下部に開いている一つの小さな口から非常に粗末な食物を受け取り、同じようにそこから汚物が引き出される》(フィッセ ル『日本風俗備考』より省略引用)


 こうした劣悪な刑務所は、ジョン・カッティング・ベリーが大久保利通の嘱託で提出した報告書などによって状況が把握されていきました。
 日本人では馬場辰猪がイブニング・ポストに投稿した「In a Japanese cage」という記事が最初のものです。

 こうした努力の末、日本の刑務所の環境は改善されていき、明治44年(1911)の『国民雑誌』1月号では「刑務所には本の差し入れが自由にでき、 チェックの甘い聖書の文字に印を付けておくことで、メッセージが送れる」との記事が書かれているほどです。 

 このように、日本の刑法作成や監獄改善は、すべて外国人によって行われてきたのです。

 そんなわけで、最後に刑場の写真を公開しときます。


横浜暗闇坂刑場
明治2年、横浜暗闇坂刑場。強盗を手引きして家に押し入り、主人を殺害した質屋の番頭の磔


程ヶ谷刑場
明治5年、程ヶ谷刑場。母親を殺鼠剤で毒殺した笠原伊兵衛の獄門写真

私刑と刑罰の資料集

制作:2011年3月8日

<おまけ>
 昭和になると、監獄もかなり改良されていきました。

1926年建設の松本少年刑務所
1926年建設の松本少年刑務所

小菅刑務所・雑居房舎
1929年建築の小菅刑務所・雑居房舎
 
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