転車台の世界
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「扇形庫」と「転車台」
機関庫のなかは死と隣り合わせ
現在も稼働している鳥取県米子駅の扇形機関庫
沖縄県那覇市のモノレール「ゆいレール」の旭橋駅を降りると、突如、円形の遺構が見えてきます。これは、戦前の県営鉄道(軽便鉄道)の「転車台」跡で、2015年の再開発の際に発見されました。
転車台(ターンテーブル)は機関車を方向転換させる回転台です。直径約7メートル、高さ約1メートルほどで、中央に回転軸の土台があります。軽便鉄道は、線路幅が現在のJR在来線よりおよそ30cm狭いのですが、全長は50km近くまで延伸されました。しかし、1945年の沖縄戦で破壊され、姿を消しました。
この転車台は、かつて沖縄にも鉄道があった証です。もちろん、沖縄以外にも多くの転車台がありましたが、現在、その多くは姿を消しています。そこで、今回は転車台と扇型の車両基地についてまとめます。
沖縄県営鉄道の転車台跡
日本の従軍慰安婦問題を世に知らしめた作家の千田夏光は、この格好のネタを見つける前、ゼロ戦や占いの本を出す、いわば “なんでも屋” のライターでした。そんな千田は、1971年、鉄道雑誌の仕事で「国鉄体験入社」として、SL(蒸気機関車)の煤(すす)払いの仕事に挑戦しています。
《機関車の罐(かま)は丸い、円筒形である。その円筒形の底にたまった煤を掻(か)い出すのは誰れにでも出来る仕事ではなかったのである。罐のあちこちに鋲(びょう)が出ている。シャベルはそれにひっかかる。蒸気は奥から吹き出しつづけてくる。先の方が重いシャベルは思いどおりになってくれない。やっと媒をすくいあげ外に放り出そうとすると灰が飛び散る。灰神楽になる。
下の方にホースから水が撤かれ、その水の下に灰を煤を石炭ガラを投げ棄てるようになっているのだが、思い通りに命中させることも至難の業であった。悪戦であり苦闘であった。》(『鉄道ジャーナル』1971年11月号)
この重労働を、「機関庫の庫内手(こないて)は数分でやります」と聞いた千田は、《機関車とはロマンチックなものではない》と感嘆の声をあげています。
ここに登場する「庫内手」とは、鉄道の機関庫や工場で、機関車の点検整備から燃料補給(石炭・水)、ボイラーの管理まであらゆる雑務をおこなう職員のことです。
鉄道は「機関区」という担当エリア制で、ここには機関車と乗務員(機関士や機関助士)、そして庫内手がセットで配置されました。機関区は1968年の段階で本区が146、支区が34ありましたが、これに電車区30ほどが加わります。さらに気動車区、貨物区などがあり、車両基地の数と同義ではありません。
宮城県小牛田駅(旧小牛田機関庫)の転車台
なぜ機関区がこんなに多いのか。1943年(昭和18年)に刊行された『日本の機関車』が詳しく説明しています。
当時、東京から下関まで行く場合、特急「富士」で乗り換えせずに直行できました。その際、客車は下関までほぼ変わることなく使われますが、機関車はたびたび取り替えられました。
静岡県の沼津まではすでに電気機関車があったので、沼津で蒸気機関車に取り替えられるのは当然です。しかし、その後も名古屋、京都、姫路、糸崎(広島県)で取り替えられ、結局6両の機関車を順次引きついで東京〜下関を走ることになりました。これは、機関車の構造上、石炭や水の積載量に限度があるからです。
当時、最大規模の機関車でも12トンの石炭を積んでいるだけです。だいたい15kgの石炭で1km走れるので、およそ800km走れます。しかし、石炭は所属する機関区で入れるのが通常ルールなので、片道400kmまでしか走れません。実際には途中で石炭がなくなっても困るので、だいたい300kmが限界です。
大井川鐵道新金谷駅構内にあるSL転車台
もうひとつ、重要なのが水の問題です。普通の旅客列車用の機関車は、石炭12トンに加え、水17トンを積んでいます。ところが、水は機関車が1km走るのに約0.1トン必要とするので、17トンの水では170kmしか走れません。
つまり、石炭はあっても水が不足するため、長距離の無停車運転ができないのです。そのため、途中の駅でたびたび水を補給する必要がありました。
当時の最新式の旅客列車用機関車は「C59」形式ですが、これは炭水車を大型化し、石炭を10トン、水を25トン積んでいます。東京と神戸を結んだ超特急「燕」は最高時速95kmで、特急「富士」に比べて2時間数十分の時間短縮に成功しましたが、これが当時最高レベルの無停車・無給水による運行です。一般的には50〜100km程度で補給する必要がありました。給水のため、ひんぱんに5分ほど停車する必要があるわけで、これが時間短縮できない最大の理由です。
ちなみに、特急「富士」で東京〜下関を行く場合、乗務員は10組制で、最長でも静岡〜名古屋の180km、時間にして2時間40分くらいでした。
新潟県新津駅の転車台(新潟市新津鉄道資料館)
前述のとおり、石炭は所属する機関庫で入れるルールなので、蒸気機関車は機関庫に戻ると、石炭と水を補給し、簡単な検査のため2時間から5時間くらい停車し、再び出発します。修繕があれな10時間いることもありますが、わりとすぐに出ていってしまうのです。
車庫には、2〜4両を並べて入れる細長い「矩形車庫」がありますが、これでは機関車の出し入れも不便なうえ、検査もしにくいのです。そのため、大きな機関区では、放射状に線路が敷かれた「扇形車庫」が採用されました。
兵庫県和田山駅のレンガ製「矩形車庫」
扇形庫の設計は、1924年(大正13年)年6月4日、「扇形機関車庫設計標準」が公布され、主要部分の設計指針が示されました。しかし、細部についての指示はなく、続いて1927年(昭和2年)7月26日、「扇形機関車庫設計標準改正の件」が公布され、標準設計法が示されました。さらに、1932年(昭和7年)1月には鉄道省工作局の扇形機関車庫設計標準図が完成しています。
新潟県直江津駅の転車台(直江津D51レールパーク)
扇形庫は甲、乙、丙の3種に分かれており、甲種は「C51形」機関車、乙・丙種は「8620形」機関車を基準としています。甲種と乙種では大規模な検査がおこなえるようになっており、そのスペースが4線分あるものを「その1」、3線分のものを「その2」と区分しました。
蒸気機関車はもちろんバックはできますが、前後の区別があることから、進行方向を変えるため、扇形庫には「転車台」が設置されました。転車台は、鉄道創業時代、新橋・横浜・京都・大阪・神戸などに設置されたものは40フィート(12.2メートル)クラスのものでした。機関車の大型化とともに、1900年ごろには50フィート(15.2メートル)のものが登場し、1909年(明治42年)には60フィート(18.3メートル)が標準形として制定されています。1923年には、さらに大きい20メートル級も登場しました(『鉄道ピクトリアル』2010年3月号による)。
岡山県津山駅の扇形庫(津山まなびの鉄道館)
1871年(明治4年)12月、新橋で、日本初の扇形庫が着工しました。完成は翌年6月です。この転車台は現存していませんが、1991年の発掘調査でホーム跡や転車台跡が発見されました。現在は埋め立てられ、ウィンズ汐留のイタリア街に大きな円形が転車台跡としてデザインされています。
日本初の転車台跡(新橋)
続く扇形庫は、北海道小樽の手宮機関庫に登場しました。北海道初の鉄道は官営幌内鉄道で、幌内炭鉱の石炭を小樽港そばの手宮駅まで運びました。全線が開通したのは1882年です。転車台に面して機関庫が2棟ありますが、小さいレンガ造りの「3号車庫」は1885年の完成で、現存する日本最古の機関車庫です(大きい「車庫1号」は1908年に竣工)。機関車庫3号を設計した平井晴二郎は、米国に留学後、北海道開拓使に勤め、鉄道建設を担当しました。実は、北海道庁の赤レンガ庁舎(1888年)の設計も担当しています。
機関庫で重要なのは、空間の広さと防火対策です。平井は、三角形と四角形を組み合わせたクイーンポスト・トラス構造を採用することで、広い空間を確保。また、開業当初は木造でしたが、防火のため、熟練のレンガ技術者・鈴木佐兵衛をわざわざ札幌に呼び寄せて「鈴木煉瓦工場」を創業させました。そして、5年後にはレンガ造りとしたのです。
なお、車庫3号のレンガは黒くすすけている部分が多いのですが、これは潮風による風化に加え、1898年(明治31年)に起きた火災の名残だと考えられています。防火のためレンガ造りにした判断は正解だったというわけです。
1885年に完成した手宮機関車庫3号(右、小樽市総合博物館)
さて、稼働状態で保存されている転車台といえば、京都市下京区にある京都鉄道博物館(旧・梅小路蒸気機関車館)が有名です。京都駅は東海道線と山陰線の分岐点にあたり、鉄道網の要として知られました。扇状庫は鉄筋コンクリート製で、1914年(大正3年)に竣工しました。転車台からは放射状に20本の線路が伸びています。設計は、旧京都駅や綿業会館を作った渡辺節です。
渡辺は、耐火性を重視し、当時まだ珍しかった鉄筋コンクリートを採用。さらに、柱と梁(はり)を骨組みとして床を支える「アンネビック式」という工法を使って頑丈な作りにしました。
直径20メートルの転車台(梅小路蒸気機関車館時代のもの)
映画『すずめの戸締まり』で登場した機関庫のモデルとされたのが、大分県の旧豊後森機関庫です。福岡県久留米市と大分県大分市を結ぶ久大本線の全線開通と同じ1934年(昭和9年)に完成しました。戦後の最盛期には機関車25両が配置されていたといいます。機関庫は半径48メートルの扇型で、機関車12両を格納できます。
豊後森機関庫公園
なお、戦時中は軍事輸送の拠点となったため、アメリカ軍の攻撃目標にされ、背面には機銃掃射の跡が残っています。この攻撃で、助役らが亡くなっています。
機銃掃射の跡(豊後森機関庫公園)
さて、先述した千田夏光の煤払い体験は、最後に石炭をくべる焚き口の掃除で幕を下ろします。焚き口のなかは火のまわりを調整するため、上下を耐火煉瓦で仕切り二段に別れていました。説明を聞きながら、千田は亜硫酸ガスに似た臭いに気づきます。その際、説明してくれた助役はこう話します。
《「余熱や灰や石炭ガラの残っているときはガスマスクをして入りますが、このていどなら何もしなくても大丈夫です。心配しないで下さい」》
言うまでもなく、機関車は煤だけでなく多くの有毒物質を出します。そのため、国鉄は、煤煙が発生する蒸気機関車の運行を廃止し、ディーゼルや電車に置き替えることを大きな目標としていました。これがいわゆる「無煙化」です。
しかし、電化はやすやすと出来るものではありませんでした。1977年の『鉄道ピクトリアル』に電化をめぐる秘話が掲載されており、そこでけっこうな紙幅を取っているのが「感電死」です。
《今度はサーキットブレーカーがとんだ。機械室に入っていってサーキットブレーカーのコンパウンドのにぎりをつかんでギューと入れたら人差し指に感電した。最初はなんともなかったのだが、ギュッと手を回して動かしたらあたってしまって感電した。その時はひどかった、体全身大ハンマーでたたきのめされたような感じだ。それからビックリして運転台へでていったが体全体が感電しているようで、しばらく口もきけなかった》(『鉄道ピクトリアル』1977年11月号)
なお、感電した場合は声が出ず、ヒューヒューといった音を出すばかりで、人工呼吸をやっても駄目だったといいます。意識が朦朧とするなか、感電で死ななくても、落下して当たりどころが悪くて死ぬことも多かったようです。《ただ軽い感電ならブドウ酒を飲ませて息を吹き返したという話はある》とのことです。
機関車の時代、足を踏み外す落下死や圧死など多くの事故で人命が失われましたが、電化により、新たな死因が生まれたのです。扇形庫のなかでは、いつも死と隣り合わせの重労働が続いていたのです。
明治を代表する機関車「1080号」(愛称ネルソン、梅小路蒸気機関車館時代に撮影)
制作:2026年2月8日
<おまけ>
1897年7月5日、アメリカの労働運動の影響を受けた高野房太郎が呼びかけ、「労働組合期成会」が成立しました。これは、それまで日本に存在しなかった近代的労働組合を作ろうという社会運動で、同年12月、東京砲兵工廠(軍の工場)の労働者を中心に日本で初めての「鉄工組合」が誕生しました。続いて結成されたのが、鉄道労働者で作った「日本鉄道矯正会」でした。こうした組合は1900年の治安警察法で弾圧され、消滅してしまいますが、労組の重要性は後の世に広まっていくことになります。
また、日本初のストライキは、青森県八戸市の鉄道労働者によって起こされたと言われます。ストは1898年2月末から3月頭にかけて、「日本鉄道」尻内機関庫の機関士を中心に待遇改善を呼びかけたものでした。