日本の「気球」史
ツェッペリン伯号から風船爆弾まで
気球中隊の係留気球
先日、ドライブ中に飛行船に遭遇しました。愛知万博を宣伝するため、日本飛行船がドイツから購入したツェッペリンNT号です。高さ17.5m、全長75m。あわててカメラで撮影しましたが、予想以上のスピードで1枚しか撮れませんでした。残念。
ツェッペリンNew Technology号
この飛行船は、名前が示すとおり、ドイツのツェッペリン社から購入したものです。ツェッペリンの飛行船は、1900年に第1号機LZ1が作られて以来、世界中の空をのんびり運航してきました。ところが第1次世界大戦が始まると、当然のように偵察や爆撃などに使われます。
戦後になると、飛行船は再び平和の象徴みたいになっていきます。特に1928年にツェッペリン伯号が建造され、わずか22日で世界一周に成功すると、のんびりとした飛行船は大いに人気を集めました。
霞ヶ浦にやってきたツェッペリン伯号
ところが次のヒンデンブルク号は、1937年にアメリカのレークハーストで大爆発。こうして、燃料が水素からヘリウムに変わるのですが、この事故の衝撃は大きく、事実上、飛行船の時代は終わってしまいました。
実際のところ、巨大な飛行船はあんまり軍事的には役立ちませんでしたが、飛行機が未完成の時代、確かに飛行船優位の時代があったのです。当然、日本でも、かなり早い時期から気球や飛行船の研究が進められていました。
そこで、今回は日本の気球開発史を公開しますが、これはハッキリ言って軍事気球の歴史そのものです。
日本で最初に気球実験が行われたのは、明治10年(1877)5月23日、築地海軍省練兵所でのことでした。これは西南戦争で気球を使おうと実験したもので、初めて人を乗せて1200尺(360m)の高さまで浮上しました。
明治16年、陸軍士官学校での実験風景
実際に気球を軍事行動に用いたのは、日露戦争の旅順港閉鎖作戦でのことで、偵察やら観測やらに利用されました。以下、年表で見ていくと、
●明治10年(1877)西南戦争・田原坂の戦で気球の使用を発案
●明治37年(1904)日露戦争で臨時気球隊が設立され、旅順港封鎖に気球が活躍
●明治40年(1907)電信隊に平時気球隊を新編成。兵舎は中野
●明治43年(1910)山田猪三郎が国産初の飛行船(長さ30m)の野外飛行に成功
山田式飛行船
で、これは明治44年?に作られた気球隊の内部資料。気球の操作方法などがまとめられています。
大量の数式が登場
このマニュアルによれば、気球の飛行には指揮官(士官)1、気球班長(下士)1、ガス班長(下士)1、作業手18名が必要とされていて、たとえば気球の膨張は、
《指揮官の下す「膨張用意」の号令を受くるや、班長は「気嚢に就け」の号令を下し、2番ないし9番は約2歩の間隔に気嚢の外周に就き、1番は注入口および膨張管に就く。而して指揮官の下す「膨張始め」の号令にて、各作業手は気嚢の周縁を覆網と共に握りて瓦斯の浸入に応じて高く上げ、瓦斯を周縁に導くに容易ならしむ》(原文はカタカナ)
といった具合です。さらに、
●大正02年(1913)気球隊、所沢に移転
●大正12年(1923)航空大隊気球中隊に編成替え
●大正14年(1925)2中隊に編成替え
●昭和02年(1927)気球中隊、千葉に移転
千葉の気球聯隊本部
●昭和11年(1936)気球聯隊と改称
●昭和12年(1937)独立気球第1・第2・第3中隊、中国南京攻略などに動員命令
●昭和16年(1941)防空気球隊仮編成
●昭和17年(1942)独立気球第1中隊、タイ・仏印・シンガポール攻略
と戦争で大活躍するのでした。
気球聯隊の紀念祭
気球から撮影した千葉県庁
さて、戦局の悪化により、ついに風船爆弾による攻撃命令が下ります。
● 昭和19年10月25日 大本営から風船爆弾による攻撃命令(作戦名「富号作戦」)
《一.気球聯隊は「米国」本土に対し、気球をもつてする攻撃を開始すべし。実施期間は、11月初頭より明 春3月頃までと予定するも、状況によりこの期間を更に延長することあり。
二.投下物量は爆弾、焼夷弾とし、その概数、次の如し
15瓩(キロ)爆弾 約7.500箇
5瓩焼夷弾 約30.000箇
12瓩焼夷弾 約7.500箇》
この命令では放球数まで具体的に指定されていました。その数は、全体で約1万5000個。11月に500、12月に3500、1月に4500、2月に4500、3月に2500個をメドに放球するようにとの指示でした。そして、日本領土およびソ連に落下しないようにとの厳命つきでした。
風船爆弾とはどのようなものか? エネルギーとしての水素に注目した『幻の水素社会』という本によれば、
《風船爆弾は、直径が10mの大型気球で、下に高度を調節する重り(バラスト)および爆弾・焼夷弾が吊された。爆弾を載せた気球が秋から冬にかけて東へ向かう偏西風(ジェット気流)に乗せられ、太平洋岸から放たれて直接アメリカ本土を攻撃したわけである。
女学生らを勤労動員させて風船を作り、東京の国技館や歌舞伎座など大型の建物で点検を行った話はよく知られている。もっとも、和紙とコンニャクのりで作ったという話から、一般的には竹ヤリのような「原始的な兵器」だったと思われている。ところが、重りを加減して高度を調整したり、風船の中に水素を間違いなく充填したりする高い技術も必要だったのだ》
というものです。
さて、最初の風船爆弾は、昭和19年11月3日午前4時、現在の茨城県北茨城市大津、福島県いわき市勿来、千葉県一宮町の3地点から放出される予定でした。ところが大津で地上爆発が起こり、一時、中止になってしまいます。11月1日には勿来でも地上爆発が起こっていて、計画が危ぶまれましたが、11月7日以後、3地点からの放球は上々の成果を収めるようになりました。
作戦末期には1つの発射台から20分間隔で放球に成功、1日に150個も放出したそうです。
で、昭和20年4月、ジェット気流が逆風になったことで作戦終了。実際は、水素の供給先だった昭和電工や気球工場が空襲で破壊され、補給が不可能な状態でした。作戦終了までに、約9000個が放出されたといわれます。
ちなみにその成果は、オレゴン州で6人死亡させたうえ、
《風船爆弾に搭載した焼夷弾がアメリカ本土で山火事を起こし、一部の送電線が破壊された。この断線でプルトニウム製造が一時停止し、原爆の完成が遅れたのは有名な話である》(『幻の水素社会』)
なんというか、ずいぶん微妙な戦果であります。
富士山での演習
女学生を動員した気球の撤収作業
というわけで、風船爆弾の発射地点を探しに福島&茨城に行ってきました。
茨城県の五浦海岸(大津)の風船爆弾「平和の碑」
犠牲者の「鎮魂碑」
放球地跡は、現在では単なるだだっ広い空き地で、残念ながら崩れた防空壕以外、何も残っていませんでした。両方とも、上空から見つかりにくい場所だったのが印象的でした。
放球地跡(大津)
放球地跡(勿来)
制作:2005年4月6日
<おまけ>
世界で初めて気球を飛ばしたのは、フランスのモンゴルフィエ兄弟です。1783年6月5日、リヨンにほど近いアノナーで空に浮かんだ気球の燃料は、水素ではなく熱でした。
モンゴルフィエの熱気球
※今回の写真の多くは、風船爆弾の現場責任者だった永富正幸さんに提供していただきました。