シリーズ【失われた国宝】
京都・金閣寺(鹿苑寺)

消失前の金閣寺
消失前の金閣

《それにしても金閣の美しさは絶える時がなかった! その美はつねにどこかしらで鳴り響いてゐた。耳鳴りの痼疾を持つた人のやうに、いたるところで私の金閣の美が鳴りひびくのを聴き、それに馴れた。音にたとへるなら、この建築は五世紀半にわたつて鳴りつづけてきた小さな金鈴、あるひは小さな琴のやうなものであつたらう。その音が途絶えたら……》(三島由紀夫『金閣寺』)



 昭和25年(1950)7月2日、国宝・金閣が放火されました。火を付けた林承賢(21)は寺の徒弟で、取り調べに対し、
「おれは金閣と心中する覚悟で、午前二時ごろ布団と衣類とカヤを金閣に持ち込み、マッチで火をつけたが、こわくなってすぐ裏山に逃げた。金閣が燃え上るのを見て、ナイフで心臓と左肩下を突き刺し、カルモチン百粒を飲んだ。動機は、落ち着いてからにしてくれ」(「朝日新聞」)
 と答えています。

 三島由紀夫は「金閣寺・創作ノート」で作品の主題を  美への嫉妬  絶対的なものへの嫉妬  相対性の波にうづもれた男。 「絶対性を滅ぼすこと」 「絶対の探究」のパロディー  としていて、観念上で完成された絶対美としての金閣と現実の金閣の誤差が放火につながったとしています。ただ、実際のところはどうなんでしょうか?

 林の学友によれば、林は、どもりもあって友人とはあまり口をきかず、内向的な性格だったとか。さらに、賭け事が大好きで、毎晩のようにカケ碁や花合わせをしていたそうです。「小遣に不自由し、カツギ屋をやっているというウワサもあった」そうだから、単なる現実逃避による突発的な放火だったような気もします。

 いずれにせよ、この放火で、1397年に建てられた金閣は全焼。同時に国宝・足利義満坐像も炭になってしまいました。

足利義満坐像
足利義満坐像(高さ77.2cm)

 金閣は、その後、1955年に復元、1987年には金箔も張り直されるのでした。


更新:2001年10月7日


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