1955年の北朝鮮

北朝鮮綿花農場
北朝鮮の綿花農場(以下、すべて1955年)


「美しい花は嵐を好まない。踊る崔承喜は全身で平和を叫んでい るように感じられた」
 1955年、北朝鮮を訪問した芥川賞作家・火野葦平が、世界的に有名なダンサー崔承喜の舞踊を見て語った感想です。

北朝鮮1955年
たぶん火野葦平が見た崔承喜の舞台

 
 1911年、京城(現在のソウル)で生まれた崔承喜は、戦前、日本を代表する美人として有名で、川端康成など多くの文化人から支持されました。
 戦時中は中国戦線の日本軍へ慰問活動をしていましたが、戦後の1946年、北朝鮮で舞踊研究所を設立します。この研究所は1952年に国立舞踊研究所に昇格し、崔承喜は押しも押されぬ大スターとなりました。
 
 1950年から1953年にかけて朝鮮戦争が起きますが、戦争終結とともに、国民的大スター崔承喜は、復興労働者のために北朝鮮各地を慰問に廻りました。
 その回数は膨大で、北朝鮮の復興は、崔承喜の慰問とともに成し遂げられたと言っても過言ではないかもしれません。

北朝鮮牡丹台
ピョンヤン近郊の観光地・牡丹台

 
 ここで北朝鮮の戦後復興についてまとめておきます。まず、ソ連の後押しを受けて、金日成が臨時人民委員会の委員長に就任したのが1946年2月8日。

●1946年3月【大規模な土地改革】
 大地主が所有していた100万町歩(100km四方)もの土地が無償で没収され、小作人に分配されました。

●1946年8月【主要産業の国有化】
 鉱山、鉄道などが没収されました。

北朝鮮1955年
北朝鮮の電気を支えた水豊ダム


 当時、北朝鮮が最も重視したのが、鴨緑江下流に作られていた水豊ダムでした。これは1937年、日本が巨額の金をかけて工事を始めたもので、1944年に竣工しました。琵琶湖の半分近い水を貯め、発電規模は当時の世界最大級。朝鮮戦争中にアメリカ軍機からの攻撃を受けましたが、戦後、北朝鮮は発電能力を増強して復興。現在に至るまで、北朝鮮の電気を支える大インフラです。

北朝鮮1955年
爆撃中の水豊ダム空撮(1952年)


●1946年10月【朝鮮中央銀行を創設】
●1947年2月【立法府として北朝鮮人民会議を設置】

●1947年12月【通貨改革】
 日本統治下の朝鮮では、朝鮮銀行が「円」(朝鮮語読みでウォン)を発行していましたが、戦後はソ連のルーブルやソ連軍票が流通しました。これが激しいインフレを起こしたため、極秘裏に通貨改革を図ります。新通貨への交換が制限されたことで、多くの資産の没収に成功します。

●1948年2月8日【朝鮮人民軍を創建】
●1948年9月9日【朝鮮民主人民共和国が成立】

 北朝鮮は1947年と1948年に単年度の経済計画を実施し、1949年から2カ年計画をスタートさせましたが、1950年6月の朝鮮戦争勃発で計画は中断してしまいます。

 朝鮮戦争で、北朝鮮の国土は大きく荒廃しました。農地は荒れ、労働力は不足し、工業生産もガタガタでした。
 そこで、北朝鮮は朝鮮戦争終結の翌1954年から1956年にかけて、戦後復興3カ年計画を実施します。このとき、重工業と農業集団化が促進され、北朝鮮は一気に復興するのです。

北朝鮮1955年
トラクターで開墾する国営農場


 たとえば、ソ連やモンゴルから牛馬が輸入され、大量の肉が供給されました。
 綿織物は1mあたり30円から40円という安値で販売され、労働者には無料で配布されました。
 さらに、日本統治時代にはなかった託児所が生まれ、国費で子供を預けながら、親は安心して仕事ができました。

北朝鮮1955年
無料の託児所


 復興で特に重要だったのは住宅難の解消ですが、これも次第に整備されていきました。

北朝鮮1955年
平壌初の労働者向けアパート


 1957年から5カ年経済計画が始まるんですが、このときのスローガンが「千里馬運動」です。
 1956年の末に金日成が提唱したもので、1日に千里を走る伝説の馬のように、一気呵成に国力向上を目指そうという運動でした。実際は単なる生産性向上を目指したのではなく、思想教育を重視したことで、北朝鮮初の共産主義的大衆運動と呼ばれています。

北朝鮮1955年
北朝鮮の紙幣(1978)に描かれた千里馬銅像。左上のマークには水豊ダムが


 実は、この思想教育と軌を一にして、北朝鮮の秘密主義が進んでいきます。もちろん、対外的にはプロパガンダが盛んにおこなわれ、日本でも「北朝鮮は地上の楽園」と思われていきました。
 こうして、1959年12月14日、新潟港から最初の帰国船が出航します。いわゆる「在日朝鮮人の帰還事業」ですが、「完全就職、生活保障」を求めて帰国した人たちが、粛清などで悲惨な目にあったのはご存じの通りです。結局、1984年までに合計で9万3340人が北朝鮮に渡りました。

北朝鮮1955年
アパート建設現場を見る日本の国会議員


 なお、冒頭で触れた崔承喜も、1962年に人民俳優の称号を受け、政府の要職を歴任したのち、1967年頃に粛清されたと言われます。
 ただし、北朝鮮は2003年に「崔承喜は1969年8月8日に亡くなり、遺骨は愛国烈士陵に葬られている」と公式発表しました。死亡日時はウソだと思いますが、墓碑には「舞踊家同盟中央委員会委員長、人民俳優」と刻まれているそうで、一応は名誉回復がなったようです。


制作:2012年3月26日


<おまけ>
 金日成は1960年2月、毛沢東の人民公社方式に感化され、「青山里方式」という新しい農業政策を提唱します。さらに翌1961年12月には「大安の事業体系」という工業政策を提唱。
 ともに、現実離れしたノルマや教条主義で満ちあふれ、北朝鮮経済が崩壊する原因となりました。
 なお、2008年末から北朝鮮では「第2の千里馬総進軍」が唱えられていますが、もはや誰からも相手にされてませんな。
北朝鮮の切手
農業と工業の振興を謳った北朝鮮の切手(1997年)
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