神戸「ホテル」物語
居留地とハイカラ文化の誕生

トーアホテルに向かうトアロード
トーアホテルに向かうトアロード


 明治時代、神戸を騒がせたホテル泥棒がいました。横浜の監獄から抜け出してきたアメリカ人で、変装の名手だったため、一向に捕まらないのです。

 メリケン波止場のそばに位置する神戸郵船ビルの敷地には、昔、「兵庫(ヒョーゴ)ホテル」という神戸有数の外国人向けホテルがありました。ホテル泥棒はこのホテルに紳士の格好で投宿、片っ端から盗みを働きました。しかし、盗んだあとはインド人に化けたりボーイに化けたりで、逮捕までさんざんてこずったと記録されています。

神戸郵船ビル
神戸郵船ビル


 当時、このあたりは外国人居留地でした。1899年(明治32年)まで治外法権だったため、日本の警察は居留地に入ることができません。そのため、治安は「居留地警察」によって守られていました。居留地警察の署長は外国人でしたが、巡査には日本人もいます。
 いまでは今ひとつ想像できませんが、神戸の中心に日本人が許可なく入れない場所が厳然と存在していたのです。

開港直後の神戸
開港直後の神戸


 田舎の漁村だった神戸が開港したのは、1868年1月1日(江戸時代)です。
 明治に改元され、初めて土地の払い下げが行われました。居留地は約4万坪あり、○○番館と区分され、売却されました。

 たとえば、三井物産が3番館、アメリカ領事館が5番館、英国領事館は9番館といった具合です。このとき6番館を買ったのがオリエンタルホテルです。神戸居留地には江戸時代からグローブホテルがありましたが、一般には、オリエンタルホテルが、神戸で最も古い西洋式ホテルとされます。また、アメリカ領事館が後に移転して、そこに兵庫ホテルが建てられています。

オリエンタルホテル
オリエンタルホテル


 居留地は治外法権ですが、逆に、そこに住む外国人には移動の制限がありました。神戸在留の外国人は、周囲25マイル(約40km)までしか行くことができません(ちなみに、大阪在留の外国人は、京都までは行けましたが、奈良に行くと逮捕され罰金を払うことになりました)。

 ということは、外国人は、神戸一帯でよりよい生活を目指すしかありません。
 神戸が発展したのは、港が天然の良港だったこともありますが、背後に山を抱え、眺めのいい避暑地が近くにあったことも大きな理由です。外国人は、六甲山や摩耶山に登っては、そこでスポーツや狩猟をするようになりました。これが六甲山の観光地化の始まりです。

 神戸に住んだ外国人は、運動のため、毎朝、六甲山系を登り、頂上の喫茶店で優雅な朝食をとるという日課が広まりました。これが日本人にも伝わり、明治末期には「神戸草鞋(わらじ)会」など、数多くの登山会が発足し、「毎日登山」の文化が広まりました。

神戸海岸通(明治4年)
神戸海岸通(明治4年)


 こうした山歩きが好きだったイギリス人に、ウィルキンソンという人物がいます。彼の回想が、神戸新聞(1920年1月30日付)に残されています。以下、意訳しておきます。

「私が神戸に来たのは41年前で、現在まで居留地に出入りしているが、当時から不自由は感じなかった。ただ、物価は安かった。神戸の海岸寄りに兵庫ホテルがあったが、昼食が1円50銭で食べられた。もう1カ所のホテルは昼食が1食50銭だった。

 私は猟が好きで、神戸付近はもちろん、遠く大阪の山中まで歩き回った。ある日、宝塚の山中で、あまりに飛び回りすぎて、とてものどが渇いた。携帯していたウイスキーは苦力(人夫)が飲んでしまった。仕方なく谷あいで水を探したところ、清冽な水を手に入れた。
 これがいま、私が経営している炭酸水の源泉地である」

 ウィルキンソンは見つけた炭酸水の販売を開始します。これが現在でも販売中の「ウィルキンソン」(アサヒ飲料)の始まりです。

 1899年、条約が改正され、外国人も自由に内地旅行が出来るようになりました。同時に、六甲山も開発が進み、山頂には外国人の別荘が建ち並びます。
 1903年には、イギリス人貿易商グルームによって、六甲山上に日本最古のゴルフ場「神戸ゴルフ倶楽部」が完成しました。

神戸ゴルフ倶楽部
神戸ゴルフ倶楽部のクラブハウス(初代)

神戸ゴルフ倶楽部
1932年にヴォーリスがデザインしたクラブハウス(現存)


 神戸に最初に鉄道が走ったのは、1874年(明治7年)、神戸〜大阪間が開通したときです。
 しかし、神戸の開発が進むのは、2大私鉄である阪急と阪神が開通してからです。

神戸駅
神戸駅


 阪神は、1905年(明治38年)、三宮〜大阪間で営業を開始します。また、阪急は1910年(明治43年)に宝塚〜大阪で開業しています(当時は箕面有馬電気軌道)。両者は、宅地やレジャー開発を競って進め、神戸を中心にハイカラ文化を花開かせます。

 1908年、ドイツ系資本の高級ホテル「トーアホテル」が開業。
 このころ、六甲山上には外国人の別荘が並んでいましたが、第1次世界大戦が勃発すると、ほとんどが放置され、山上には廃墟が続きました。

トーアホテル
トーアホテル(右上は錨山)


 1925年、摩耶鋼索鉄道が摩耶ケーブルを敷設。摩耶山には安産祈願で有名な古刹「天上寺」があり、遊園地も設置され、手軽な行楽地になります。

摩耶ケーブル
摩耶ケーブル

神戸摩耶山天上寺
摩耶山天上寺(焼失前)


 阪急は1926年、宝塚ホテルを開業後、1929年、宝塚ホテルの支店という形で六甲山ホテルを開業。六甲山へバスで行き、阪急大食堂で眺めを楽しむという行楽を作り出しました。

 一方、阪神は1929年、系列会社が摩耶山の中腹に「軍艦ホテル」の異名で知られる摩耶温泉ホテルを建設。こちらは温泉、大食堂、ダンスホールを備えた一大観光施設です。その後、摩耶観光ホテルと改称しましたが、現在では壊すこともできず、巨大な廃墟となっています。

摩耶観光ホテル
廃墟となった摩耶観光ホテル


 1930年、西宮市の武庫川沿いに、甲子園ホテルが開業。


甲子園ホテル
甲子園ホテル

 1932年、六甲ケーブルが開業すると、阪神は六甲山ホテルに対抗すべく六甲オリエンタルホテルを開業します(オリエンタルホテルへの営業委託)。

 阪神と阪急は、六甲山系を舞台に、バス、ケーブルカー、ホテル、大食堂、観光施設などに競って投資を拡大します。「神戸又新日報」(1931年5月26日付)は、この戦いを「早慶戦」のようだと書いています。

風の教会
六甲オリエンタルホテルの結婚式用チャペル
「風の教会」(安藤忠雄設計)


 しかし、第2次世界大戦後、六甲ケーブルも摩耶ケーブルも休業となり、客足は途絶えます。
 これまでにあげたホテルはいずれも有名ホテルでしたが、現在も営業中のホテルは宝塚ホテルのみです(オリエンタルホテルは2010年にブランドを使って再開)。

 戦後、日本が経済復興に邁進するなか、神戸のホテルを育てたのは地元のダイエーでした。
 オリエンタルホテルを買収し、新神戸オリエンタルホテル、神戸メリケンパークオリエンタルホテル、神戸ポートピアホテルなどを次々に建てていきました。

 神戸のハイカラ文化は、こうしていまに続くのです。

神戸メリケンパークオリエンタルホテル
神戸メリケンパークオリエンタルホテル


制作:2018年12月9日

<おまけ>

 摩耶山の中腹には、かつて天上寺がありました。平安時代、空海が釈迦の母・摩耶夫人像を唐から持ち帰り、安置したことに由来する名刹です。急峻なため、この寺に行くには、ロープウェーや車で頂上に行き、そこから山道を歩く必要がありました。しかし、1976年に天上寺は放火で焼失、元の場所に再建できず、摩耶山の頂上に移転しました。
 かつて参道の山道には「摩耶花壇」というホテルもありましたが、こちらも現在は廃墟となってひっそり眠っています。

神戸摩耶山天上寺跡
山腹に残る天上寺跡

摩耶花壇跡
摩耶花壇跡

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