「国葬」の誕生

伊藤博文の国葬
伊藤博文の国葬



 夏目漱石の『門』には、伊藤博文が暗殺されて驚く庶民の姿が書かれています。

《宗助は五六日前伊藤公暗殺の号外を見たとき、御米(およね)の働いている台所へ出て来て、「おい大変だ、伊藤さんが殺された」と云って、手に持った号外を御米のエプロンの上に乗せたなり書斎へ這入(はい)った》

 1909年(明治42年)10月26日、哈爾賓(ハルビン)駅に到着してホームを歩いていた伊藤博文は、安重根にピストルで狙撃され、暗殺されます。亡骸は軍艦「秋津洲」で横須賀に着きました。

横須賀に着いた伊藤博文の亡骸
横須賀に着いた伊藤博文の亡骸



 国葬は11月4日、日比谷公園でおこなわれました。この日の午前7時、官邸で柩前祭がおこなわれ、午前8時、棺に従った葬列は日比谷公園の祭場に向かいました。葬列は10時10分に到着し、式典終了後の12時20分、霊柩は馬車に移され、西大井の墓地へ。埋葬式がおこなわれ、すべて終了したのは16時と記録されています。
 
 漱石は『門』の主人公・宗助にこう言わせています。
「伊藤さんみたような人は、哈爾賓へ行って殺される方がいいんだよ。なぜって伊藤さんは殺されたから、歴史的に偉い人になれるのさ」

 今回は、安倍晋三元首相も対象となる「国葬」についてまとめます(なお、本稿において天皇皇后の葬儀については触れません)。

外国からの参列者(伊藤博文の国葬)
外国からの参列者(伊藤博文の国葬)



 明治になって最初の国葬(に類したもの)は1878年(明治11年)5月17日の大久保利通です。借り集めた馬車16両(太政官6両、内務省3両、陸軍省2両、大蔵省1両、工部省3両、伊達宗城から1両)で、自宅から青山墓地まで葬列を組みました。

 国葬的な意味合いを持つ象徴として、明治天皇の勅命により初めて建立された勅撰神道碑があります(青山墓地に現存)。明治天皇の勅命で建てられた勅撰神道碑は、大久保利通、毛利敬親、大原重徳、岩倉具視、広沢真臣、島津久光、三条実美、木戸孝允の8人だけです。

大久保利通の勅撰神道碑
大久保利通の勅撰神道碑



 一般的には1883年(明治16年)7月25日の岩倉具視が最初の国葬だとされています。当時はまだ「国葬」が法制化されていないので、こちらも「事実上の国葬」です。ちなみに、大久保の場合、公文書では「送葬」「霊祭」などの言葉が使われていますが、岩倉具視の場合「国葬」「国喪」といった言葉が使われています。また、岩倉の場合、3日間の廃朝(天皇の政務中止)と死刑停止が決まっています。

岩倉具視の「国喪内規」
死刑停止、歌舞音曲の禁止が指示された岩倉具視の「国喪内規」(国立公文書館)



 その後、明治天皇が崩御するまでおこなわれた国葬(とそれに準じたもの)は以下のとおりです。

1887年(明治20年)12月18日 島津久光
1891年(明治24年)2月25日 三条実美
1895年(明治28年)1月29日 有栖川宮熾仁親王
1895年(明治28年)12月18日 北白川宮能久親王
1896年(明治29年)12月30日 毛利元徳
1897年(明治30年)2月7日 英照皇太后(明治天皇の嫡母)
1898年(明治31年)1月9日 島津忠義
1903年(明治36年)2月26日 小松宮彰仁親王
1909年(明治42年)11月4日 伊藤博文

 なお、日露戦争の英雄である乃木希典は、明治天皇の大喪の礼が執りおこなわれた日に自刃しており、国葬にはなりませんでした。

乃木希典の葬儀(国葬ではない)
乃木希典の葬儀(国葬ではない)


 
 大正時代になり、最初におこなわれた国葬は、1913年(大正2年)7月17日、有栖川宮威仁親王のものです。ちなみに、3カ月後の11月30日には江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の葬儀がおこなわれましたが、もちろんこちらは国葬ではありません。しかし、写真を見る限り、徳川慶喜の葬儀のほうが壮麗な感じです。

有栖川宮威仁親王の国葬
有栖川宮威仁親王の国葬

徳川慶喜の葬儀(国葬ではない)
徳川慶喜の葬儀(国葬ではない)



 大正時代の特筆すべき葬儀は、原敬と大隈重信と山縣有朋です。1921年(大正10年)11月から翌1922年2月にかけて、首相経験者である3人が相次いでこの世を去りました。そして、この3人はまさに三者三様の葬儀となりました。

 まず最初は1921年11月4日、原が東京駅で刺殺されます。享年66。妻は「もう一個人だ」として、葬儀を郷里の盛岡でおこないます。当然、国葬ではありませんが、「平民宰相」と呼ばれただけあり、会葬者は寺の周囲にあふれたと伝えられます。

原敬の葬儀(国葬ではない)
原敬の葬儀(国葬ではない)



 1922年1月10日には大隈重信が、2月1日には山県有朋が亡くなりました。2人とも同じ83歳で、ともに日比谷公園で葬儀がおこなわれました。

 1月17日、大隈の葬儀は「国民葬」としておこなわれました。政界や早稲田大学の関係者に加え、20万とも30万とも言われる市民が大挙して訪れ、会葬の列が何重にも公園を取り囲んだとされます。日本の憲政史上、最初の政党内閣を組織しただけあり、国民からの人気が高かったのです。

大隈重信の葬儀(国葬ではない)
大隈重信の葬儀(国葬ではない)



 一方、山県の葬儀は2月9日、当時の高橋是清内閣によって「国葬」と指定されました。しかし、参列者は数千人程度で、一般の会葬者はきわめて少なかったと報じられています。山県は日本陸軍の生みの親で、日本の官僚制度の基礎を作った大人物ですが、国民の生活向上を考えるような政治家ではなく、庶民はもちろん、政治家からもまったく人気がなかったのです。 
 
 ちなみに、山県は病床で原の暗殺を知り、「ああいう人間をむざむざ殺されては日本はたまったものではない」と泣いたと言われています。

山県有朋の国葬
ガラガラだった山県有朋の国葬会場



 さて、国葬が法制化されたのは1926年(大正15年)10月21日です。大正天皇を除き、初めて法律上認められた国葬がおこなわれたのは、1934年(昭和9年)6月5日の東郷平八郎元帥です。

 1905年(明治38年)、日露戦争で日本海海戦を指揮してバルチック艦隊を撃破した東郷平八郎は、長らく国民の英雄として親しまれました。日本海海戦がおこなわれた5月27日は、その後、「海軍記念日」として祝日になっています。海戦から30年ほど経った1934年(昭和9年)5月27日、東郷は突然倒れ、それから3日後の30日に死去しました。86歳でした。

 まもなく「国葬」が決定し、式は6月5日におこなわれることが決まりました。東郷は20年以上も「元帥」として君臨し、イギリスでは「東洋のネルソン提督」などと呼ばれ、世界的な名将として知られています。そのため、葬儀には各国から軍人含む参列者が多数集まりました。

日比谷公園に向かう葬列(東郷平八郎の国葬)
日比谷公園に向かう葬列(東郷平八郎の国葬)



 国葬の様子を簡単に再現しておきましょう。

 1934年6月5日早朝、東郷元帥の霊柩を送る「柩前祭」が、30年以上住んだ東京・麹町の自宅でおこなわれました。加藤寛治海軍大将が司祭を務め、霊柩を安置した正寝の間には、天皇皇后両陛下より下賜された神榊をはじめ、数多くの供物や花が飾られました。まず長男夫妻が礼拝し、続いて孫たちの礼拝があり、午前7時40分、柩前祭は終了しました。

 午前8時30分、 霊柩を載せた砲車は、横須賀海兵団の水兵に曳かれ、自宅を出て日比谷公園の葬場を目指します。

 海軍軍楽隊の奏する『葬送曲』の悲壮な調べが響くなか、棺のそばには山本五十六や岡田啓介といった海軍大将、大角岑生海軍大臣、陸軍大将らが並び、その後、陸海軍の儀仗兵、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、中華民国の海軍将校・水兵らが従い、葬列の長さは2キロも続きました。沿道には女学生などが並んで送葬します。

 8時30分、霊柩砲車の元帥邸出発に合わせ、品川沖に停泊中の弔艦「伊勢」が、まず弔砲の第一発を放ちます。続いてイギリス艦「サフォーク」、フランス艦「プリモゲ」、アメリカ艦「オーガスタ」、神戸ではイタリア艦「クワルト」、下関では中華民国艦「寧海」などが半旗を掲げつつ弔砲を放って哀悼の意を表します。

参謀本部の弔砲(東郷平八郎の国葬)
参謀本部の弔砲(東郷平八郎の国葬)



 霊柩砲車が日比谷葬場に到着すると、先着の斎藤実首相はじめ文武官3000余名が出迎えます。午前10時10分、葬場の南門が開かれ、葬儀が始まります。正午、式が終わり、引き続き12時半から一般民衆の参拝を許しますが、あまりの混雑ぶりに、やむなく13時15分、一般の入場を禁止することになりました。

 14時50分、霊柩を自動車に移し、日比谷公園正門から虎の門、溜池、赤坂見附、四谷を経て、甲州街道を通って多磨墓地へ。16時20分、多磨墓地に到着し、ここで最後の儀式がおこなわれ、無事、埋葬されました。発表によると、東郷家から日比谷まで60万人、斎場周辺に70万人、斎場から多磨墓地までの沿道に55万人集まったとされています。天皇を除く国葬では、未曾有の規模の葬儀となりました。

多磨墓地までの車列(東郷平八郎の国葬)
多磨墓地までの車列(東郷平八郎の国葬)



 さて、実は、多磨墓地の東郷平八郎の墓の隣には、同じく海軍軍人の山本五十六の墓があります。

 山本五十六連合艦隊司令長官は、1941年(昭和16年)4月18日、搭乗機が米軍機に撃墜されました。大本営がその死を公表したのは、約1カ月後の5月21日。山本は元帥の称号を与えられ、国葬が決まりました。実は国葬の日は、東郷元帥と同じ6月5日です。このときは、水交社から虎の門、海軍省を経て日比谷公園まで、やはり遺族や政府、軍関係者らの葬列が続きました。

山本五十六の国葬
山本五十六の国葬

山本五十六の祭壇
山本五十六の祭壇



 このように、日本の国葬は、岩倉具視で始まり、東郷平八郎と山本五十六でピークを迎えるのでした。

 明治時代は、庶民でも葬列がおこなわれました。まして国葬では、大規模な葬列がおこなわれます。棺とともに、真榊(まさかき)、白旗、神饌を収めた唐櫃(からびつ)、さらには高張り提灯、生花・造花、放鳥用の鳥なども同行しました。伊藤博文の国葬では、その葬列を見に庶民が集まり、伊藤博文の絵葉書や立ち見用の箱まで売る人間が現れました。

 このように、葬列は一大イベントで、多くの見物人が集まりましたが、大正時代になると、徐々に葬列は減り、祭壇中心に変わっていきます。有名人が死んでも、祭壇の葬儀になっていくと、庶民は会場に入れないので、あまり話題になることもありません。こうして、「偉い人」「有名な人」の葬儀に対する興味や関心が減っていきました。

 実際、1916年(大正5年)12月9日に死んだ夏目漱石の葬儀は、青山斎場でおこなわれ、葬列はありませんでした。ただし、漱石の翌日に亡くなった大山巌元帥は国葬となり、葬列が実施されています。ちなみに、新聞は漱石のことばかり報じ、大山については扱いが小さかったと伝えられています。

大山巌の国葬決定記事
大山の国葬決定記事の下に漱石の脳の解剖所見(朝日新聞1916年12月12日)


制作:2022年9月17日

<おまけ>
 
 日本では、鎌倉時代から火葬はありましたが、多くは土葬でした。明治時代、神道が影響力を強めると、仏教葬である火葬をやめるよう強く主張、結果、明治政府は1873年に火葬禁止令を出しました。しかし、すぐに土葬用墓地が不足したことから、1875年に撤廃。その後、火葬の設備が整うにつれ、それまでの座棺が現在の寝棺に変わっていきました。もちろん、これは寝ている方がよく焼けるからです。

 また、もともと日本では白い喪服が主流でしたが、明治以来の国葬では、西洋にならい、黒を着用せよとのお達しが出るようになりました(大久保利通や岩倉具視の葬儀でも黒が指定されている)。これが、徐々に庶民にも普及し、喪服は黒になりました。参考までに書いておくと、漱石の葬儀では、参列した4人の娘は白無垢の喪服を着ていたと記録されています。

江戸時代に描かれた座棺
エメ・アンベールが描いた江戸時代の座棺
 
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