証言録・日本の韓国統治はこうして始まった
伊藤博文、最期の言葉は「馬鹿な奴が!」
朝鮮総督府
大阪毎日新聞(現在の毎日新聞)記者の楢崎観一氏は、1905年(明治38年)から1911年(明治44年)までの7年間、京城(ソウル)に特派員として駐在していました。
楢崎氏は、それから約50年経った1957年、雑誌『新聞時代』(第2巻第4号)に「半世紀前の韓国をかたる」という記事を寄稿しています。
大日本帝国が大韓帝国を併合したのは1910年なので、まさに併合当時の様子を現場で見ていたわけです。その貴重な証言を、全文公開しておきます。
(著作権は消滅済み。句読点、誤字脱字など一部修正してあります)
慶運宮(写真は「徳寿宮」と改称した後のもの)
時は明治38年の冬、日韓保護協約がむすばれて間もないある日のこと。
韓国皇帝・李煕陛下は「慶運宮」奥深きお居間で、玉石をちりばめた紫檀の机に倚(よ)り、傍(かたわら)にかしこまっている皇族・李戴完の顔をチラと睨(にら)み、御機嫌、いとも斜(ななめ)である。
「卿(けい=君主が臣下に対して使う呼称)は、日本のことをいえば何から何までよい事ずくめに申す。宮殿が立派だ、市街が清潔だ、実業が発達している、教育が盛んだと。それほど日本が裕福なら、朕に向ってどこそこの鉱山をくれい、どこそこの荒蕪地を借せと無心ばかり申すはずはあるまい」
締約の答礼大使として日本に赴き、視察を終えて帰って来たばかりの李は当惑のおももちで、「臣は決して虚構の御報告はいたしませぬ。実際見聞い
たしましたことをその侭(まま)申し上げるだけで御座います」。
「朕はこれまで日本に使した大臣達の報告をまともに信じなかったが、皇族の卿までが嘘ッぱちを申すとは心外千万だ。何でも彼(かん)でも日本が優れているわけはない。何かわが国で優れたものはないと申すのか」
李は暫(しばら)く考えていたが、ハタと膝を打って
「有ります。日本の鉄道は狭軌で幅が3呎(フィート)6吋(インチ)ですが、わが国のものは広道と申しまして4呎8吋、たしかに汽車だけは日本のものより大きく堅牢であります」
「左(さ)もありなん、日本の文化はわが国から渡ったものじゃ。三韓時代に王仁(わに)が文学と書籍を伝えた歴史がちゃんとあるわい。わが国の文
物がすべて日本に劣るという、これまでの報告は皆うそじゃ」
韓国皇帝・李煕
李は陛下の笑顔をあおいでホッとした。
彼は韓国の鉄道が、日本の資本と技術と(で)建設経営されていることを百も承知しているが、極端な日本嫌いの皇帝に迎合してこうにでも答えねばならなかった。
ところで、この日本嫌いの皇帝が、初代統監として赴任して来た伊藤公を引見した時、
「卿は日本の天皇、日本国のため一生を捧げ、鬢髪(びんぱつ)ために白い。しかし、なお黒い所が残っている。それを朕のため韓国のため白うしてたまわらぬか」とおっしゃった。
伊藤は例の巧言令色とは察しながらも、何となく心をゆすぶられた。この君のため、この国民のため余力を尽したいと考えた。李煕陛下は、「東洋のバルカン」と呼ばれた韓国の独裁君主で、列国使臣を手玉にとった権謀術策の達人である。これ式の芸当は朝飯前であった。
朝鮮の民族衣装を着た伊藤博文一家
ベタ金の統監服
明治38年10月締結した日韓協約の内容は、日露戦争の結果、日本が韓国の保護権を握り、伊藤博文が保護政治の元締め、統監として京城に臨んだ基礎的取極(とりき)めであった。
伊藤といえば明治維新3元勲の一人で、初代の宮内大臣、初代の内閣総理大臣、初代の枢密院議長、初代の貴族院議長と最上級の閲歴を持つ大政治家である。
世人称して「初もの好き」と仇名した、あの方面でもその噂が高かった(注:伊藤博文の処女好きは有名だった)。
伊藤は翌39年3月、京城に統監府を開くに当って、2つの初ものを持参した。
一つは金銀色さんたる統監府制服、他は統監旗といって旗の4分の3を青く染め、その右上肩の白地に日の丸を描いた。
臣下としては外に類のない身分標示の旗である。
統監服は黒羅紗(ラシャ)詰襟、金釦(ボタン)5つの軍服のようなもの、両肩に金色のエボレットをつけ、両袖には1寸幅のベタ金筋1本と星(桐花)3つ、以下、勅任官は細い金筋3本に星3つ、奏任官は金筋2本に星2つ、判任官は銀筋1本に星1つと、それぞれの肩章をつけ剣をつる。植民地向けのいかめしくもまたけばけばしいものであった。
彼は、その統監服に大小様々の勲章をつるし、天皇恩賜の馬車で、意気揚々、都大路をのし回った。
のみならず、官邸の出入には陸軍から差回した衛兵が堵列(とれつ)して将官待遇の喇叭(ラッパ)を吹いて送迎する。実に豪勢なものであった。
が、その真意は、韓国統治に軍閥が勝手に容喙(ようかい=口を出す)するのを抑えるためだったともいう。彼は口癖に「余は天皇の代表である」と誇称して長谷川軍司令官(好道・陸軍大将)をへこましていた。案外そういう心配があったからであろう。
伊藤博文一家
当時の京城(韓人は京城をセウルという、都という俗語である)セウルの市街は四方に堅牢な城壁をめぐらし、東西南北に大小2つずつ、合(わ)せて8つの城門を開いているだけであった。
なかんずく代表的なものは南大門であり、その門外に京義、京釜、京仁3鉄道の発着駅があった。この南大門は幅3間、長さ5間位の石造アーチ型をなし、その上に壮麗な2層楼がそびえていた。京城随一の関門であるだけに、夜明けから晩おそくまで(夜中閉門)の交通量は大変、両班(貴族)の輿(こし)や、荷車、電車、それに冬になれば名物の薪を売りにくる牛の群で雑踏する。
その隙間を縫うて人の波また波がひっきりなしに通る。
馬の毛で作った奇妙な幅子を戴き、白い周衣を裾長く着、羅宇(らう)の柄長さ3〜4尺もある煙管を携えた紳士も通る、青絹に白襟をつけ、えび茶色の紐を前にだらりとたらした被衣に、顔をおおう淑女も通る、チゲという担具にいろいろの品を積んで運ぶ賤民も通る。
その光景たるや現代ばなれの交通地獄であった。
また門から駅に通ずる道路の両側にはわら葺のあばら家(商家)が軒を並べ、田舎からの行商人や百姓が群がり集い、その騒々しさは一層ひどかった。
門のすぐ脇までぼろ屋が並んでいた改修前の南大門
(明治36年の中学校教科書より)
伊藤は就任とともに、日本政府から起業公債500万円(今の15億円位か。注:1957年当時)を支出させて、教育、警察、道路、水道等の建設
に使ったが、その一部を割いてこの南大門の改修を行った。
すなわち、両側の城壁を切り開いて新しく幅12間位の車道・人道を設け、在来の南大門——窮窿門とその上の二層楼——を残し、その周囲を石垣で囲み装飾用の電灯をあしらったロータリー風に改めたのである。
同時に門から駅に通ずる道路も改修拡張したので、都の玄関はまるで面目を一新した。それが今の南大門で当時の市民は感激してこれを迎えた。
改修後の南大門
宮廷に暗躍するドイツ妖女
「挟雑(ヘプチャプ)」という朝鮮語を正しく日本語に訳したら、何といったらよかろうか、その言葉は大きくも、小さくも、深くもまた浅くもとれるが、その時代において挟雑行為とは、「絶対主権者である皇帝をだまして、内帑金(ないどきん=君主の金)を引出し、排日言動を扇動したり、実演するともがら」に要約された。
端的にいえば政治的悪ブローカーである。群小政党が皇帝側近派と共謀(ぐる)になって排日運動の資金を貰ったり、外国人新聞記者が内帑金をむさぼって、排日の小新聞を発行するなどは適例である。
それというのも、その頃の韓国では宮中と政府の区別がはっきりしていない、租税はもちろん、ぼう大な皇室財産からの収益、賄賂その他の雑収入まで、一(いっ)たん皇帝の懐にはいり、政府の費用はその中からまかなう仕組(み)であったから、皇帝に直属する経理院卿は絶大な権利を持ち、寵臣中の寵臣が任命されていた。
そういう組織の隙間をくぐって内帑金を引出すのが挟雑の仕事であり、絶対主権者との取引であるから、ばれても罪にならぬと高をくくっていた。伊藤はこのことに目をつけ、その弊風を一掃したいと考えていた。
ところが間もなく、日韓協約反対を旗じるしにする暴徒の中から「われ等は皇帝陛下から『馬牌輸尺』を賜り、伊藤統監、長谷川軍司令官斬るべしとの密勅をうけている義軍である」というものが現われた。馬牌輸尺は皇帝から賊徒討伐の司令官に与える標識であるから、これが真実とすればゆゆしき事になる。
皇帝と統監がまっこうから対立し、戦争のいと口にもなりかねないものである。伊藤、長谷川は烈火の如く怒ったが、統監政治の初期という複雑微妙
な政情を考えて、例の挟雑行為を軽くあしらい、宮中警察を強化し、雑輩の出入を厳重に監視させるに止めた。
ソウルの旧市街
別の挟雑——この政治的な挟雑と異なったものに、外国人の利権あさりにまつわる別種の挟雑もあった。
冒頭に韓帝が「日本は貧乏国だから鉱山をくれろとか、荒蕪地を借せとかねだるではないか」といわれたことを引用した。だがこれは独り日本だけではない。
東洋のバルカン半島と呼ばれた韓国の複雑怪奇な外交舞台で、列国が先を争って利権の獲得に狂奔したことは周知の通りである。
韓国最初の京仁鉄道もはじめ米国側が権利をとっていたのを、竹内綱(吉田〔茂〕前首相の実父)がとりもどして敷設した。京城の電車事業と水道は米国人コールブラン、ポストウヰック両人に独占され、他の国から羨望の的となった。
露西亜公使ウヱーベルが活動してとり込んだ鴨緑江森林伐採と竜巌浦租借の利権が、日露戦争の一誘因であったことも余りにも有名である。
その他、英・仏・独もそれぞれ鉱山その他の利権を獲得した。こういう時に表向きの交渉は公使館がするが、必らず裏門をくぐらねば成功しないのが例で、挟雑の輩が跳梁する別の舞台があったのである。
独逸(ドイツ)人ミス・ソンタクは宮中出入を許されているただ一人の外国人お雇女官であった。
彼女は皇帝に願って宮城の付近に外賓優遇のホテルを建てた。ホテルは本来の主旨にも使われ、伊藤もこのホテルに宿ったことがあるが、ここを根城にする外国人は概ね利権あさりが目的で、ソンタク嬢とその一味の宮廷派と談合する場にしていた。
ただ、ここでは皇帝をだまして金を引出すのではなく、反対に莫大な賄賂を皇帝に贈って、利権をあさる。挟雑のともがらの働き場所で、ミス・ソンタクは彼等から福の神のようにあがめられた。
そのからくりを知った伊藤はこれにも手を入れようとしたが、治外法権があるため統監府も施すに策がなかった。
彼の女は年頃60そこそこの肥っちょで、それ程の美人ではなかったが、韓人の若い燕と同棲して豪勢なくらしをしていた。
明治42年、日韓併合(が)成ったのち、宮廷に見切りをつけた彼女は莫大な退職金をせしめて故国に帰って行った。
1000万人と雖(いえど)も
昔、韓国が清国(中国)の属国であったころ、京城から宗主国の首府・北京に通ずる京義街道が賑わっていた。
西大門外のその街道に沿って迎恩門と慕華殿が建てられ、清国の勅使を迎える用に供していたが、独立後、目障りだとそれを取りこわし、新しい独立門を建てた。
独立門
ついでだから宗属関係の一端を述べるが、この勅使というのは代変(わ)りの時「汝を朝鮮王に封ず」という封冊を持参する国賓であったから、宮廷
では莫大な金を使って優待したばかりか、沢山の賄賂まで贈るのが常であった。
朝鮮王といえば国内でこそ絶対君主であるが、宗主国・清朝における待遇は、戸部尚書(六部尚書の一人、大臣)にすぎなかったことは史書にちゃんと載っており、宗属関係のいかに厳しかったかをもの語って余りがある——ここで朝鮮が清朝のきづなを断って独立したのは、日本のお蔭であるなどと野暮なことは書くまい——明治39年の師走、この慕華殿あとと伝えられる、蓮池にかこまれた丘の一軒家で恐ろしい陰謀がたくまれた。
筋書は、翌年和蘭(オランダ)ハーグで開かれる第2回万国平和会議に、日韓保護関係の打破、韓国の完全独立を訴える密使を派遣し、日本に一泡吹かせようとするものであったが、統監府は夢にもそれと知らなかった。
1907年、いよいよハーグで開かれた平和会議が、露国代表、ネリユドフ議長の下に、列国使臣(日本代表は都築馨六)を集め、正に幕を切っておろそうとするとたん、突如として皇帝の密使と称する李相卨、李儁、李瑋鍾が飛び出したのだから、世界の耳目はびっくり仰天した。
そればかりか、これに響応するかの如く英人ベッセル(大韓毎日申報コレアンデーリー・ニュース社長)、米人ハーバート(韓国評論コレアン・レビュー主筆)や露国人ステッドなどが筆を揃えて排日言論を流布し、盛んに火勢をあおった。
やがてこの運動は皇帝の寵臣・李範晋(元露都駐在公使)が一味の内外人をかたらって、皇帝の密勅と内帑金20万円(今の6000万円に当る。注:1957年当時)を引出した大芝居であることが明らかになった。ことここに至っては、もはや挟雑行為などと生やさしく見のがすことは出来ない。
真相をついて禍根を永遠に断たねばならぬ。京城の風雲うたた急。
伊藤は抜本塞源のはかりごととして、皇帝廃止の外(ほか)なしと決心したが、老巧の彼であるから、密使の出現は国内問題としてまず韓国政府が責任を持たねばならぬと、その実行を政府にせまった。
時の首相・李完用は宋秉駿農相、趙重応法相等と協力して、李煕皇帝を太皇帝とあがめて徳寿宮におしこめ、皇太子・李坧を新帝に立て昌徳宮に移した。これが有名な丁亥政変(注:ハーグ密使事件)で、その表裏を描けば興味津々であるが、既に小著「新聞記者五十年」につくしてあるから割愛する。
新皇帝になった李坧(純宗)
いよいよ7月20日、新皇帝即位式までこぎ付けた時、京城はかなえの湧くような騒ぎで、あちらこちらに暴動が起り、李首相邸や一進会(親日党)本部は放火され、通行の日本人が殺傷され、伊藤暗殺の檄文まで乱れ飛んでいた。
長谷川司令官は急使を立ててその参内を阻止し、左右の人々もこもごも諌止(かんし)したが、彼は自分が参列せねば、国際上、即位式が完全に行われたことにはならないと頑張り、「正を踏んで怖れず、千万人と雖(いえど)も吾(われ)征(い)かん」と豪語し、12騎の騎兵に護られ、馬車をかって日本人商店の密集している泥峴(注:地名)を通り宮殿にはせつけた。
それを見送る日本人の間から、「さすがは維新三傑の一人よ」と賞賛の声が高まった。
ここで、固苦しい話ばかりでもあるまいからちょっと笑話を披露しよう。
今いった泥峴は朝鮮語で「チンコウカイ」とよむ、京城に住んだ方なら皆承知していられようが、後に本町通りと改称された目抜きの町で、そこに行けば呉服反物を始め、日本の雑貨は何でもととのう。
まずは京城の銀座といった所で、顕官の令夫人からサラリーマンの奥様方、あこがれの町であった。
「ねえ、私これからチンコウカイに出掛けたいのね」
「アラ、私もよ、ご一(いっ)しょしたいわ」などあられもないことを囀(さえず)りたもう、新来の日本青年がこれを聞いて気を失った。
太子を気遣う太皇帝の欺き
伊藤統監は丁亥政変後、保護政治の拡大充実をなしとげ、日本皇太子の訪韓、皇太子・李垠の日本留学、新皇帝の国内巡幸など数々の事跡を残して、明治41年6月15日、枢密院議長に復任して母国に帰った。
韓国訪問の大正天皇(皇太子時代)
そしてその翌年10月26日、露都サンクトぺテルスブルグに赴く途中、北満州ハルビン駅で韓人・安重根のため暗殺されてしまった。暗殺は野蛮国に多い——韓国でも。
開国進歩派の首領・金玉鈞が日本から上海に亡命したとたん、同志・洪鐘宇に暗殺された。
時の清国政府は犯人をかばい、軍艦「威遠」で金の首と洪鐘宇を本国に送り帰したが、韓国政府では金の首を楊花津にさらし、洪には重賞を与えた。これは遠い昔話であるが、何だか後味の悪いものであった。
私が7年間在韓した間にも暗殺は頻々と起った。
中でも軍部大臣・李根沢、総理大臣・李完用の暗殺事件は、政治上、大きなセンセイションを起した。
また、韓国外交顧問スチブンスが明治41年2月、サンフランシスコで韓人・田明雲、張仁煥にピストルで射殺された事件は、米国の新聞から韓人の兇悪性をひどく非難攻撃された。
この事件に引続いて前記の伊藤暗殺が行われたのである。
伊藤博文暗殺を伝える朝日新聞
いま私の手許に関東都督府地方法院(旅順)で下した判決書写しがある。
主犯・安重根(無職32才)、共犯・禹徳淳(煙草商34才)、同・曹道先(洗濯業28才)、同・劉東夏(無職19才)4人は何(いず)れも教養浅く、また思慮も熟している人間ではない。彼等が暗殺遂行した動機、理由、目的等は判決文ではあやふやな上、その背後関係なども明らかにしていない。
安重根が使ったピストル
暗殺直前の伊藤博文(ハルピン駅)
伊藤は臨終の際、犯人が韓人であることを聞いて「馬鹿な奴が」と一語を残したと、ある別の記録に書いてあるが、謎は全然とけていない。
何者かがうしろから糸を引いていたという謎は当然起る。
だからといってこれを挟雑に結びつけて考えることば困難である。
というのは、その頃の太皇帝は既に帝位を退いているし、永い間反撥(はんぱつ)して来た伊藤に対し、今ではむしろ親和に傾いていたからである。
張赫宙著「私苑の花」(昭和25年出版)をよむと、その時の光景を叙して
《太皇帝はちょうど晩餐中で、近侍や宮女を相手に四方山(よもやま)話に興じておられたが、伊藤公の悲報を聞かるるや
「ナニ?」
と一言、手に待った箸を落し
「李朝の社稷(しゃしょく=国)も終ったよ。いく度かの協約も、統監府の設置も公を信じて調印したのだが」
と溜息をもらし、はっとして
「太子はどうなるのだろうか、太子の身辺が気づかいじゃ」
と東京遊学中の皇太子・李垠殿下のことを思い浮ばれた。》
と書いてある。恐らく真相であろう。この頃はへプチャプの幽霊も消えてなくなっていたと思う。
恩讐を越えて
伊藤暗殺が日韓併合の時期を早めたことは疑いない。
彼は韓国の将来を憂い、併合を唱えていた軍閥や右翼団体を抑えて来たのであるが、今やその支柱がくずれた。世論はいやが上に激昂し、ついに1910年に実現した。本稿ではそれには触れないつもりである。
さて、私が始めて明治38年10月、韓国・釜山に上陸し、京城に赴く途中、大邱で目撃した印象は決して好ましいものではなかった。
首かせを嵌められた韓国の囚人
慶尚南道・観察府の広庭には、数十名の囚人が露店のもとにさらされている。しかも首枷(かせ)、手枷、足枷など、およそ近代ばなれのした刑具をはめられていた。
足枷になると囚人の妻や、娘らしい婦人が食物と湯茶を持参して、手足の不自由な夫や親に、たべさしている光景は、人権蹂躙そのままの標本画であった。
これが行政権と裁判権を併せて有する地方官吏の常套手段で、これ等の囚人は殺人とか放火というような重罪をおかしたものではない。そういうものは別に厳重な牢屋に入れてある。ほんの微罪——役人が金持の商人などに難ぐせをつけて捕える、無実のものさえ交っていることもザラにある。
それ等をこうして屋外にさらして置き、家族や友人が贖罪金(みのしろ金)を工面して放免を願い出るのを待つわななのであると聞いて、全く口がふさがらなかった。
朝鮮の刑罰「笞刑(ちけい)」
だから当時の人民はお金はほしいが、お金持になりすぎると役人に睨まれ、無実の罪に落され、財産を根こそぎ巻きあげられるのを恐れた。
金がたまればそれを壷に納めて地中に埋め、「他人が見つけたら蛙になれ」といい聞かせたという笑話がある一方、京城に始めて電車が開通したころ、数十枚のニッケル貨幣をにぎりしめ、それを使い果すまで終日市内を往復して楽しんだというナンセンスもあった。
一般に浪費が好きで貯蓄心がなかったのは事実である。
その時から既に50年の歳月が流れ、特に終戦後、韓国の面目は一新した。
いま時、こんな昔噺を持ち出すと「そんな馬鹿なことが」と一蹴されるだろう。薪にするため根ッ子まで掘りつくした禿げっちょの山にうっそうと森林が繁り、泥濘(でいねい)膝を没した道路がアスハルト舗装に変り、咿唔(いご=本を読む声)の声が流れていた寺小屋式の書房(サバン)が堂々たる大学となり、人権擁護の裁判が確立し、農商工業が盛んになった等々、半世紀間の変貌はすばらしい。
寺子屋式の「書房(筆房)」
私はここで久保田声明(※参照)に言及する愚をやめ、岸内閣がいさぎよくこれを撤退する事に賛成する。
だが久保田声明の有無にかかわらず、史実は史実として残るだろう。
たまたま京城時代の老友Gが私の宅を訪れ、ながしにかかっていた「一家天地自春風」と書いた伊藤博文の額面を眺め、珍しいものをと褒めた。
これは本来、中国の李鴻章が日清講和会議の時、伊藤に贈った詩の結びの一句である。日支の間、ひいては東亜が一家の如く親睦することが、おのづから、春風たいとうたる世界をつくる所以であると諷したものと解釈している。
日韓両国も今こそ恩讐を越えて、親和の道を開くべき時に遇っている。
制作:2014年9月8日
※久保田声明
1953年10月、日韓会談で、韓国側が植民地支配の被害について補償を求めたところ、日本側の代表だった久保田貫一郎は次のように述べました。
「韓国が賠償を要求するなら、日本は、その間、韓国人に与えた恩恵、すなわち治山、治水、電気、鉄道、港湾施設に対してまで、その返還を要求する。日本は毎年2000万円以上の補助をした。日本が進出しなかったら、ロシア、さもなくば中国に占領され、現在の北朝鮮のように、もっと悲惨だったろう」
この発言に韓国は猛反発し、日韓会談は大きく停滞します。
なお、久保田は、約2週間後の国会で、こう述べています。
《「そうしますと向うのほうではだんだんとそれから深入りしまして、朝鮮総督政治は決して朝鮮の民衆を利したものではない、日本が警察政治で以て韓国民を圧迫して、そうして搾取したのだし、それから自然資源なんかも枯渇せしめたのだ、そうであればこそカイロ宣言に韓国の奴隷状態ということを連合国が言つておるじやないかというので、いわゆる韓国の奴隷状態でカイロ宣言が問題にされたわけでございます。それに対しまして私は、カイロ宣言は、戦争中の興奮状態において連合国が書いたものであるから、現在は、今連合国が書いたとしたならば、あんな文句は使わなかつたであろうと一言答えたわけであります」》(第16回国会・水産委員会)
これが、「日本の植民地時代はひどかった」という言説が、韓国で生まれた瞬間なのです。