日本住血吸虫と「レイテ島」の死闘
あるいは甲府からホタルが絶滅するまで
レイテ島の戦跡
日本軍に追い詰められ、フィリピンから脱出したマッカーサーが残した有名な言葉が “I shall return.” で、訳せば「絶対に戻ってくる」。
その言葉通り、フィリピンのレイテ島にマッカーサーが再上陸したのは、1944年10月20日のことでした。
レイテ島に上陸するマッカーサー
この日の前日、日本軍は「捷一号作戦」を発令しており、米軍に対し、徹底抗戦することが決まっていました。こうして、レイテ島は「天王山の戦い」となり、大激戦が始まります。
12月28日、日本軍は島の北西部にあるカンギポット山に司令部を移します。
1945年1月1日、カンギポット周辺にいた1万人近い日本兵は、米の飯を炊いて正月を祝いました。いかにも平和的な光景ですが、実態は大きく異なります。
カンギポット山
レイテ島の戦いを描いた大岡昇平の『レイテ戦記』によれば、レイテ島に派遣された日本兵は8万4006人います。しかし、生還できた人間はわずか2500名。
この時点で、司令部から遠い場所にいる多くの兵士が、飢えに苦しんでいました。
《兵士はあらゆるものを食べた。蛇、とかげ、蛙、お玉杓子、みみずなどである。山中に野生するバナナには種子があり、渋くて食用にならない。芋でも残っているのは、口の中が痺れる、いわゆる「電気芋」である。葉の柔らかそうな野草が採取され、飯盒で煮て食べられるが、これは誰かマッチを持っている場合である。多くは生のまま噛んで飲み込むのである。下痢は一般に栄養不足の結果であるが、こういう悪食によって一層ひどくなる》(『レイテ戦記』)
1月5日、信じられない規律違反が起こります。第102師団長の福栄真平中将ら幹部が、命令を無視して揃いも揃って、カンギボットからセブ島に脱出したのです。
島内のジャングル
2月中旬になると、残された兵士の間で「人肉を食べた」という噂話が広がります。
《ある十六師団の兵士が同年兵にめぐり会った。ほかの中隊の下士官がいっしょだった。猿の肉と称する干肉をすすめられたが、気味が悪くやめた。その夜同年兵から秘密を打ち明けられた。下士官を殺して食糧を作り、米軍の陣地を捜して投降しようと誘われたが、気味が悪くなって逃げ出した》(『同』)
3月23日、この島の軍司令部(第35軍)のトップ、鈴木宗作中将らが島を離脱。
こうして、レイテ島では指揮官が不在のまま、兵士が飢えやマラリア、フィリピン人ゲリラ、米軍の火炎放射器に追われ、次々に命を落としました。
本サイトの管理人は、かつてこのカンギポット山の登頂を果たしたことがあります。ジャングルの道なき道を歩き、ようやく頂上に着くと、海がとても美しく見えたことを覚えています。
カンギポット山からの眺望
さて、地獄のような苦しみの中にあった日本兵ですが、一方のアメリカ兵の間には、奇病が流行しつつありました。
最初は皮膚のかゆみや発熱、下痢といった症状ですが、次第に肝臓や脾臓がはれ、けいれんや脳梗塞を起こすのです。そして、たいていの場合、腹水によって腹が異常にふくれあがり、食道静脈瘤が破裂して血を吐いて死にました。
米兵はおよそ1700人が感染したといわれますが、アメリカには存在しない病気なので、対処に苦労します。この奇病は、いったい何なのか。
実は、これこそが日本住血吸虫症(「日虫病」)でした。
腹が膨らんだ日本住血吸虫の症状
(昭和町風土伝承館 杉浦医院)
日本では広島県福山近辺と、佐賀県・福岡県の筑後川沿いがおもな流行地ですが、特にひどいのが山梨県の甲府盆地です。
たとえば甲府から10キロほど離れた中割という場所には、「中の割に嫁に行くなら、買ってやるぞえ、経帷子(きょうかたびら)に棺桶」という民謡が残されています。
日虫病の流行地に嫁ぐのは、死にに行くのと同義だったのです。
日虫病は、武田信玄家に伝わる兵書『甲陽軍艦』(1582年)に、お腹の「脹満」とあるのが最古の記録です。
1881年(明治14年)、山梨県の春日居村から県令に提出された奇病対策の「御指揮願い」から、撲滅に向けた対策が始まります。
山梨県では、徴兵検査のたびに、深刻な感染者が見つかり、問題となっていました。
1904年、岡山医学専門学校(現岡山大医学部)の桂田富士郎が、甲府の猫を解剖し、寄生虫を発見、「日本住血吸虫」と命名します。
日本住血吸虫(杉浦医院)
1911年、山梨県下でおこなわれた初めての本格的な調査によると、検査対象者6万9131人に対し、日虫病の患者は7893人(11.4%)でした。あまりの感染率から「地方病」と異名を取りますが、まだ感染ルートはわかりません。
1913年、九州帝国大の宮入慶之助および鈴木稔が、ミヤイリガイ(宮入貝)という巻き貝が中間宿主であることを発見します。
卵が、人や家畜の糞便を介して水中に入り、孵化して中間宿主のミヤイリガイに寄生
→貝の中で成長し、セルカリアとして皮膚から哺乳類の体内に侵入
→成虫、産卵
というサイクルを繰り返します。
セルカリアの感染ルートを突き止めたのは、「日虫病」の権威として有名だった、山梨県の杉浦三郎医師(上の写真の人物)です。
ミヤイリガイ(宮入貝)
戦争が終わると、すぐに米軍は杉浦の病院を訪れ、住血吸虫症の共同研究を命じます。杉浦医院は一部が洋風に改装され、米軍の研究チームが常駐することになりました。
感染ルートが判明して以来、甲府盆地では、子供たちを動員し、ミヤイリガイの捕獲作業が続けられました。1cmほどのミヤイリガイを箸で捕まえていくんですが、実は川にはミヤイリガイそっくりで3cmほどの巻き貝カワニナがいて、子供たちは間違えてこっちの貝を捕ることがしばしばでした。
このカワニナが、源氏ホタルのえさなのです。
戦後、殺貝剤の開発、河川の護岸工事、上下水道の整備が進み、ミヤイリガイは激減していきます。特に効果があったのは、火炎放射器による焼き殺しでした。
レイテで日本兵を追い込んだ火炎放射器が、甲府ではミヤイリガイを追い込んだのです。
そして、ミヤイリガイと同時に、カワニナも姿を消し、かつて蛍が乱舞した甲府盆地から蛍が消えました。
日本住血吸虫は、広島県では1976年に消滅し、山梨県でも1996年に終息宣言が出されました。
その代償として、日本の河川はどこもかしこもコンクリートで固められたのです。
ミヤイリガイを焼き殺した火炎放射器
さて、『レイテ戦記』は文庫で1400ページにもなる長大な記録ですが、ここに住血吸虫の記載はありません。そのことを指摘された大岡昇平は、のちに再調査して「補遺」にまとめます。
しかし、結果として日本兵の住血吸虫患者は確認できませんでした。米兵は1700人も感染してるのに、なぜ日本兵の感染者が見つからないのか? 免疫があったわけではありません。レイテ島に派遣された歩兵第49連隊は、山梨県甲府市で編成されているので、病気を知らなかったわけでもありません。
その理由を大岡はこう推測しています。
「日虫病」は、感染時にかゆみ、下痢、発熱などが起きますが、1週間ほどで症状は消えてしまいます。それから7カ月から1年の潜伏期間を経て、本格的に発病するのです(山梨では10〜30年後の発病も確認)。
《要するに、それぐらいの症状では、戦陣では特別の病気とは見なされない。
「そんな病気は聞いたことはなかったな」と土居、金子両参謀が言う。
「それだけ激戦だったのですね」と林医師》(『レイテ戦記補遺Ⅱ』)
感染者は間違いなくいたはずですが、追い込まれた戦場で、誰にも気づかれなかったのです。このあたりにも、米軍と日本軍の違いが感じられますね。
日本兵が隠れたカンギポット山の洞穴
『レイテ戦記』に住血吸虫の記載がないことを指摘したのは、レイテ島で日本住血吸虫の撲滅活動を進めている林正高医師です。
林医師がレイテ島に来た1975年頃は、住民の26%が有卵患者で、有病地の小学生の3分の1は日虫症に感染していました。しかし、1978年に特効薬プラジカンテル(PZQ)が開発されたことで、2000年時点で住民の1.3%まで減っています。
なお、日本には、ミヤイリガイ以外にも、椋鳥(むくどり)を中間宿主とする住血吸虫(宍道湖畔の地方病「湖岸病」)や、アユやシラウオといった淡水魚を中間宿主とする横川吸虫(島根県や茨城県霞ヶ浦周辺)などがあります。横川吸虫はまだ撲滅されていないので、気をつけたいところです。