「灯台」の世界
灯台の誕生と灯台守の仕事

観音埼灯台
観音埼灯台


 木下恵介監督の『喜びも悲しみも幾歳月』(1957)は、20年以上にわたる灯台守夫婦の生活を描いた壮大な物語です。1932年、灯台守の有沢四郎(佐田啓二)が新妻のきよ子(高峰秀子)をつれて最初に赴任したのが、三浦半島の突端にある観音埼灯台(神奈川県)です。

 結婚を親族に報告するため、手紙を書いた有沢四郎は、赴任地を説明するため、こんな表現をします。

「そもそも当観音埼灯台は、明治2年正月元旦、初めて点灯せる日本最初の洋式灯台にて、この由緒ある灯台に初めて妻を迎え、わが人生に新しき灯を点ず」

 この言葉どおり、日本初の洋式灯台こそ観音埼灯台です。当時、もちろん電気はなく、明かりを灯す燃料は、清国から輸入した落花生油だったと記録されています。

 なお、観音「崎」ではなく、観音「埼」の漢字が使われるのは、明治時代の海軍水路部からの伝統です。陸軍陸地測量部(現在の国土地理院)は「崎」を使いますが、灯台では陸地が水部へ突出したところを表す漢字「埼」が使われるのです。
 
 では、日本の灯台はいったいどのようにしてできたのか。今回はその歴史についてまとめます。

鞆の浦の常夜灯
鞆の浦(広島県)の常夜灯(1859年)


 紀伊半島(和歌山県)の南端にある太地町は、古くから捕鯨で有名です。
 1636年、紀州藩はこの地に行灯(あんどん)式の灯明台を設置しました。夜通し灯明がつき、近くを航行する廻船の目印となりました。ここでは、一夜に3合もの鯨油が燃やされたと言います。
 
 これが、航海の安全を守る「灯台」の初期の形です。

太地町の燈明崎
太地町の燈明崎


 日本では、古くから灯明による灯台が作られました。最古の記録は『日本書紀』664年のものです。

 前年の663年、朝鮮半島の白村江で、日本と百済連合軍は、唐と新羅の連合軍に大敗を喫します。翌年、敵の襲来に備えて、対馬や筑紫に防人と烽(とぶひ)を配置しました。昼は煙、夜はかがり火によって通信手段としたもので、その後、烽は西日本の広範囲に設置されることになります。最盛期には24kmごとに1つの烽が置かれ、昼夜問わず通信が可能となりました。これは海防用の “光通信” 施設ですが、航路の安全にも役立ったことで、灯台の始まりとも言えます。

 一般に灯台の始まりとされるのは、839年です。この年、遣唐使のトップだった藤原常嗣が長安から帰国しますが、航海の遅れを懸念した仁明天皇が、太宰府に命じて航路沿いに烽を配置しました。これが、公的な「夜標」の最初です(『続日本後紀』による)。

 当時のかがり火は、薪を燃やすだけですが、徐々に植物油を燃焼させて灯火に使うことが始まりました。江戸時代には、菜種油や綿種油の生産が盛んになり、本格的に普及しました。1608年には、能登半島の西岸に位置する福浦港でかがり火灯台が始まり、1876年、日野吉三郎が灯台を建造。これは日本最古の木造灯台として現存しています。

現存する日本最古の木造灯台
現存する日本最古の木造灯台「旧福浦灯台」


 江戸時代の海難事故は年間1000件を超えたとされます。そうしたなか、幕府は灯台の建設に乗り出します。1648年、三浦半島東端、東京湾の入口にあたる浦賀に、灯明堂が設置されました。菜種油1升を燃やした明かりは、海上7km先まで到達したと伝えられています。

浦賀の灯明堂
浦賀の灯明堂(復元)


 ペリー来航を経て、1854年、日本は開国します。1858年、日米修好通商条約が結ばれ、日本は諸外国との貿易を始めます。しかし、この段階で日本にはまともな灯台はなく、海図も不備だったため、大規模な海難事故が危惧されていました。当然、列強諸国は灯台の建設を要求しますが、事態は動きません。

 1863年、長州藩は関門海峡(当時は馬関海峡)を通過する外国船への砲撃を開始します。翌年、イギリス・アメリカ・フランス・オランダの4国連合軍が下関を砲撃し、占領。幕府はその賠償金を分割で払うことになりましたが、予算難で支払い延期を要望することに。このとき、イギリスのハリー・パークスは、支払い延期を認める代わりに、輸入税の軽減などを要求します。幕府は交渉で不利な立場に立たされ、1866年、12カ条の「改税約書」(江戸条約)を調印することになりました。

 この条約の11条は
「日本政府は外国交易のため開きたる各港最寄船々の出入安全のため灯明台浮木瀬印木等を備うべし」
 というもので、これが灯台設置の最初の国際条約です。

 こうして、日本は観音埼(神奈川県)、剱埼(神奈川県)、野島埼(千葉県)、神子元島(静岡県)、樫野埼(和歌山県)、潮岬灯台(和歌山県)、佐多岬(鹿児島県)、伊王島(長崎県)の8灯台と横浜本牧、函館に2灯船が設置されることになりました。

野島埼灯台
野島埼灯台(関東大震災で倒壊し、再建)


 当たり前ですが、当時の日本に灯台を作る技術はありません。
 そこで、お雇い外国人の登場となりますが、日本の灯台の基礎を作ったのは、フランス人のヴェルニーと、スコットランド人のブラントンの2人です。

横浜本牧の灯船
横浜本牧の灯船


 1865年(慶応元年)、江戸幕府は、海軍力を強化するため、横須賀製鉄所(造船所)を開設します。翌年、トップとして招聘されたのが、海軍技師のヴェルニーです。当時29歳。最初は造船技術を指導していましたが、このころ、灯台の機械はフランスが世界一と言われており、灯台建設でも白羽の矢が立ちました。

 工事は、鳥羽・伏見の戦いが起きたため、新政府の発足まで着工が延期されました。こうして、日本初の洋式灯台・観音埼灯台は1868年(明治元年)11月1日に着工し(現在の灯台記念日)、翌1869年(明治2年)2月11日(旧暦1月1日)に火がともされました。

初代観音埼灯台
観音埼の初代灯台


 ヴェルニーは、観音埼灯台のほかにも、野島埼灯台、品川第2灯台、城ヶ島灯台などの建設に関わりました。各灯台は関東大震災で崩壊するなどして残っていませんが、唯一、品川灯台が明治村に保存されています。これが、現存するわが国最古の洋式灯台となります。

品川灯台
品川灯台(雪の明治村)


 一方、幕府はイギリスにも、灯台建設について支援を求めました。イギリス商務省は、エディンバラにあるイギリス北部灯台委員会に諮り、推薦されたのがリチャード・ヘンリー・ブラントンです。ブラントンは、明治政府のお雇い外国人の第1号となり、後に「灯台の父」と呼ばれるようになります。

 ブラントンが最初に手がけたのは、伊豆半島下田の沖合約10キロにある神子元(みこもと)島灯台です。1869年に着工し、1871年に完成。明治政府「灯明台掛」にとって最初の本格的な灯台建設とされ、点灯式には三条実美、大久保利通、大隈重信ら明治の元勲が来島しています。石造灯台では、日本最古の現役灯台で、世界歴史的灯台100選の1つです。

 では、ブラントンが設計し、今も現役で活躍している灯台をいくつか紹介していきます。

友ヶ島灯台
友ヶ島灯台


【友ヶ島灯台】和歌山県、石造、1872年点灯

 友ケ島は、大阪湾に入口にあたり、いまも砲台跡が残されています。灯台は白色で高さ12メートル。太平洋戦争では米軍機から攻撃を受けてレンズなどを破損。空襲を避けるため、1945年3月から終戦まで消灯しました。

安乗埼灯台
安乗埼灯台


【安乗埼灯台】三重県、木造、1872年仮点灯

 木造灯台で、総ケヤキ造り、高さ11メートルの八角形。日本で初めて、回転式のフレネル式多面閃光レンズが使用されました。当時のものは船の科学館に移設保存されています。現在のものは珍しい四角形の灯台。

鍋島灯台
鍋島灯台


【鍋島灯台】香川県、石造、1872年点灯

 瀬戸内海の御影石を組み上げた重厚な外観。高さ10メートルの3層構造で、1層目は石造、2層目より上は金属製。鍋島は、もともと瀬戸内海航路の要衝となる島でしたが、いまは堤防で陸続きになっています。

犬吠埼灯台
犬吠埼灯台


【犬吠埼灯台】千葉県、レンガ造、1874年点灯

 高さ31メートル。神子元島灯台とともに世界歴史的灯台100選の1つに選ばれています。見物客が一番多い灯台で、濃霧の際に灯台の場所を知らせた霧鐘や、国産第1号の大型1等レンズなどが展示されています。

犬吠埼灯台の初代レンズ
犬吠埼灯台の初代レンズ(フランス製)


角島灯台
角島灯台


【角島灯台】山口県、石造、1876年点灯

 総御影石造りで、高さ30メートル。優美な姿で知られ、ブラントンの最高傑作とも言われます。灯台建設に当たり、ブラントンはイギリス製のレンガにこだわりました。しかし、工部省灯台寮の指示でこの島に入った竹内仙太郎がレンガ製造に成功。以後、日本製レンガによる灯台建設が進みました。角島灯台が、ブラントンの日本での最後の仕事となりました。

 1877年、日本で初めて、尻屋埼灯台(青森県)に霧鐘が設置されました。重さ1.6トンで、濃霧のときは1分間に1回打ち鳴らしました。これが日本初の「音波標識」ですが、霧鐘を鳴らす機械が灯台に強いダメージを与えることがわかり、2年後に廃止され、日本初の霧笛が設置されることになります。

霧鐘の設置は工部卿・伊藤博文の指示
霧鐘の設置は工部卿・伊藤博文の指示(当時の公文書)

尻屋埼灯台の霧鐘
設置された霧鐘(犬吠埼灯台に保存)


 さて、灯台守とはいったいどんな仕事をするのか。灯台局書記の紀藤庄介氏の証言が残されているので掲載します。

「灯台の本務は第1、燈火(あかり)をつけること。これは毎日の日没時刻に点灯し、日出時刻に消すので1分も違うことはありません。燈火をつけると簡単に申しますと楽なようでありますが、実際は、発電をしているところでは発電作業があり、ガスを燃料にしているところではガスの発生をしなければならぬし、たとえ電灯会社から発電を受けているところでも、その電圧をたえず注意しなければなりません。定められた燭光力をキチンと守るということは、たいへん骨の折れる仕事です。

 それからもうひとつ、その灯台に定められた燈質を正確に保つということ。たとえば6秒暗黒、0.5秒閃光、1秒暗黒、0.5秒閃光、という電信のモールス符号のような燈質を作る機械を正しく調整するなどには泣かされます」

佐多岬灯台
烏帽子島灯台と並び、難工事で知られた佐多岬灯台(鹿児島県)
ブラントンが設計したものは1945年の空襲で大破して1950年再建


「第2は雨、霧、雪などで海上がおおわれたときは、フォグサイレンを鳴らします。このサイレンの間隔がそれぞれ灯台灯台に定めてあるので、すぐどこの灯台だということがわかる。その吹鳴間隔を正しく保つこと、そのサイレンの活動のため、これも機関の運転をしなければならぬ。

 第3はラジオシグナル。これは電波によって船舶や航空機の位置を測って通知したり、または灯台自身の位置を放送して船舶、航空機に船位、機位を決定させるものです。無線設備のあるものには燈火と霧信号とをあわせた効果がもっと適確に発揮せられます。雨霧のため位置を失った船舶や遠くの海上から船位をたしかめる船舶が四六時中呼んでくる。それに直に返事を与えなければならぬ」(『科学画報』昭和8年7月号より改変引用)

 船の安全は、こうした苦労の上に成立していたのです。


納沙布岬灯台
納沙布岬灯台(北海道)1930年に再建


制作:2024年2月17日


<おまけ>
『喜びも悲しみも幾歳月』で、燈台守の有沢四郎ときよ子は仲がよく、ほとんどケンカもしません。初めてケンカしたのが長崎県の海の果て「女島灯台」でした。四郎が食事が「ヌカ臭い」と文句を言うと、きよ子は「水がないんだもん。少しぐらいヌカ臭くたってしょうがないじゃない」と反論、これで大ゲンカとなります。

 映画は、灯台守・田中績と妻きよの実話(『婦人倶楽部』掲載の手記「海を守る夫とともに二十年」)を元にした創作ですが、この話は実際のもので す。絶海の孤島にある女島で、きよは米のとぎ汁で顔を洗い、残り水でぞうきんがけし、おしめを洗ったと記録しています。なお、この女島は、日本最 後の有人灯台で、2006年に無人化されるまで、食料や水は補給船の到着を待たなければなりませんでした。

灯台補給船「若草」
最後の灯台補給船「若草」
 
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