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私刑類纂 (二)身体刑


 古来の公刑には、種々の身体刑ありたれども、我が国明治初年の旧刑法たりし、新律綱領、改訂律例などには、笞30杖80といえるがごとき身体刑の存せしのみにて、明治14年(1881年)以来は自由刑を主として、身体刑を全廃せり。

 しかれども、私刑には今なお殴打などの身体刑行わるること止まず、これ最も簡便にして即座に実行しうるをもってのゆえなり。次に稍々(やや)多きは、石打ちと水あびせなどならん。
 このほか軽微の刑罰には、ツネル、耳ひき、灸すえなど存せり。

 かくのごとく、今は身体刑多からずといえども、昔は私刑としての身体刑には、公刑と同じく耳切り、鼻そぎ、鬚
切り、髪切り、羅切(らせつ、男根切断)、踵(かかと)の筋切り、水牢、木馬、入墨など行われたり。
 また人糞を喰わせ、あるいは糞壷に入るるなどもまた身体刑と見ざるべからず。

 継子イジメとして煙管にて打ち、焼火箸、焼鏝を身にあつるも身体刑なり。
 台湾にて奸夫(密通した男)の両眼を抉(えぐ)り、掏盗(スリ)仲間にて指を折り、学校寄宿舎にての蒲団むし、
袋たたきなどもまた身体刑なり。

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 以上の身体刑の註疏(詳しい説明)を要すべきこと、および異例の2、3を左に記す。

▲耳切り、鼻そぎ


 公刑としては、支那および我が国の中古より享保年中まで行われたることなれども、その後は廃止せり。
『魯国漂流始末』には「魯西亜国にては、重科の者にても死罪にはいたさず、耳鼻を切り、金掘にして遣い候」とあり。寛政頃には露国の一地方にても公刑として行われしならん。

 我が国にては、幡随院長兵衛を殺せし水野十郎左衛門などに、唐犬権兵衛が耳切り鼻そぎの私刑を加えしといえり。
 また『摂陽落穂集』に「享保四乙亥年(1719年)11月、唐船密商者5人、大阪高麗橋にて3ケ日さらし、野江において鼻をそぎ、その後、銀銭などを遣わされ、御払にあいなり候は、珍しき御仕置なり」とあり、役人の私刑と見るべし。

 台湾の土人間には今なお耳切りの刑(が)行われていると言う。また松の里人の訳述にいわく、
「英国の南亜弗利加(アフリカ)土人調査委員の報告によれば、土人中には悪人に対する最も重い私刑として耳を切る風習がある。一度耳を切られた者は、大恥辱として人前に出られないことになっている。
 そして英国官憲が、裁判において、人を殺す罪は耳を切る罪よりも重しと判決したところ、土人の非常なる反抗に会ったということである」

 北海道のアイヌは、耳切り鼻そぎなどを重刑として、死刑を加うることなし。その理由は、死は人命の最終にて、懲罰の目的にそうものにあらずとするなり。
 アフリカ土人が耳切りを最重の刑とするにー致せるは奇とすべく、死刑廃止論者の一材料ならんか。アイヌは初犯の罪人にて軽きは打つに止(とど)め、重き罪人と再犯者には耳切り鼻そぎの刑を加え、最も重き罪は足の踵の筋を切るなり(足の筋切りは、支那にては丁刑と称し、膕(=ひざの裏のくぼみ)の字を用いたり。我が国にても中古には公刑として行わる)。

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耳そぎ



▲羅切(らせつ)


 支那にては宮刑と称して古代より公行し、我が国にては承元の頃、源空上人(法然房)が専修念仏宗を宣伝せし際、その帰依の徒弟らが、ことを念仏に寄せて貴賤の人妻に密通するなどの乱行ありしがため、源空を搦(から)め取りて土佐国に流し、その余の徒弟を捕えて、あるいは羅を切り、あるいはその身を禁固に処せりといえること、『皇帝記抄』にありと『古事類苑』に見ゆ。

 戦争の際、敵の間諜(=スパイ)を殺し、その男根を切りてその口に哺(か)ましむるなどの悪戯(いたずら)も行われたりと聞けり。

▲髪切り、鬚剃り


 髪切りとは婦人の髪を切り落とすことなり。公刑としては男の片鬚剃りとともに近世まで行われ、比丘尼(=尼僧)奸淫、または離縁状を取らずして再嫁せし者、不身侍女の入水(投身)未遂などに加えし刑なるが、私刑としてはアイヌ間に行わるること久しく、我が邦俗にては、婦人が懺悔の際、尼になるといえることあるごとく、夫婦喧嘩にて妻の髪を切り落すことあるは普知の事実なり。

 鬚剃りの刑はアイヌ間に行わる。『読史百話』にいわく、
「素戔嗚尊(すさのおのみこと)、高天原において畔放(あなはち)、溝埋、樋放(ひはなち)、重蒔(じきまき)、串刺、引剥、逆刺、屎戸(くそへ)など、ここだく(=多く)の罪を犯したまいしがために、天照大神怒りて天の磐屋に籠り給(たま)い、六合(=全世界)ために暗し。ここにおいて八百万神天の安の河原に神集いに集いて善後のことを議し、罪過を素戔嗚尊に帰して科するに千座置戸(ちくらのおきど)の祓(はらい)をもってし、ついに髪を抜かしむるに至る。一説にその手足の爪を抜きてこれを贖(あがな)うと(以上、日本紀本文による)。

 今、続々『群書類従』(に)収むるところの『蝦夷島記』を見るに、
《科人をば死罪に行うことはこれなく、過料を取り申し候。過料贖いならず候えば、鬚を抜き罪を免れ申し候。鬚を抜かれ候えば、蝦夷の交りなり申さず候。死罪同前の様(よう)に存じ候よし。女は頭の髪を抜き申し候》
 とあり、過料に財産を徴し、財産なきものは鬚を抜くこと、素戔嗚尊が千座置戸の過料を科せられ、ついに鬚におよびしものと全然あい似たり。我が太古の風習のなおアイヌ間に遺れるものか、はた偶合(=偶然の一致)か」

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▲釜煎り、髪釣りなど


 ジョン・バチェラー子(=氏)著『アイヌとその伝説』によれば、アイヌは罪人拷問法として、くがたち(探湯=熱湯に手を入れる)および鉄石を焼きて握らすることあり。
 また髪を械にかけて全身を釣り上げ、あるいは釜に水を入れてその中に坐せしめ、徐々に火を焚き熱せしめて白状せしむる法もあり。
 また桶に水を入れて、その水を悉(ことごと)く呑み尽くせば罪を免すといえる刑もありしという。

▲海栗(うに)と苦草(にがくさ)


 サモア島の土人は、軽き犯罪者に対する刑罰としては、衆人環視の中にて棘(とげ)の多い海栗を捕えしめ、あるいは投げしめるか、またはニガキ草の根を噛ましむるなりと言う。この第2の味覚刑は珍とすべし。

▲饑渇(きかつ)


 ニュー島の土人間には、すべての犯罪者を棒に縛り付け置きて、餓えしむる以外の方法なかりしが、近頃は基督(キリスト)教伝道師の教えにて、有用なる労働を犯人に強制することに改めおれりという。

▲囊撲(ふくろだたき)


『類聚名物考』に「嚢撲」といえる語あり。昔は罪人を嚢に入れて多衆が交々(かわるがわる)打ち懲らせし私刑ありしならん。「袋だたき」といえる近世の俗語は、名称のみ存してその実の亡びしものなるべし。

▲胴上げ


 我が国には、歓迎とか祝意を表するとかいう場合に、胴上げと称することを行う風習あり。多衆の者が平常、小面(こづら)憎しとて、何がな懲らしやらんと思う人物を、ある機会に胴上げに托して強く放擲することあり。これまた私刑なり。

▲蛇責め


 我が国神話の「蛇の室屋」を小説的に仮作せしものか否か、近世の稗史野乗(=民間人が書いた歴史書)に蛇責めの刑といえることあり。穴または箱に多くの蛇を入れて、その中におらしむるなりという。真偽は知らざれども、もし実際にありたることとすれば、最も意地悪きイヤナ刑と言うべし。

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蛇責め



▲塩炒り責め


 水責め火責めはあまねく行われしことなるが、これらのほかに塩いり責めといえることも行われたりと言う。火にて炒りたる塩の、熱気まだ去らざるものを体にあてて呵責(かしゃく)するなり。
 このほか、継子イジメのひとつとして、煙草の火気にて熱せる煙管を頬にあてて責むるもあり。

▲鞭、笞、杖、棒、板


 他人を手(拳または掌)にて打つことは、古今内外ともに普(あまね)く行わるる私刑なるが、これに次ぐは、手に物を持ちて打つことなり。その物には鞭(むち)、笞(しもと)、杖(つえ)、棒、板などあり。

 鞭撻(べんたつ)といえる語は奨励の義にも用うれど、本義は私刑の呵責なるべし。笞は木の枝を束ねしものにて原始的刑具なり。杖と棒とは弁ずるまでもなき日用品、有(あ)り合う便宜にて刑具に使用す。板は牢内のキメ板、ツメ板など、杖・棒なき場所にての刑具なり。

 また近刊の『小谷口碑集』に、信州オタリの方言として「グズグズコクト、べいた背負わせるぞ」といえる私刑的罵語あり。べいたとは太き棒または割木を言うと注せり。

「中部アフリカに20年間滞在していたキッチングは、その著述において、自分が裁判官となって土人に私刑を行い、河馬の皮の鞭で打ったことを記している」(松の里人訳)
 かくのごとく殴打用の刑具多くして、天下一般に行われしことは、近刊の英国クーパー氏著『ムチの歴史』といえるを見ても明らかなり。同書は本文530余頁にわたり挿画数多(あまた)ありて、古今各国における公私の笞刑に関することのみを記述せるものなり。その中に見ゆる古代の笞刑たる珍しき古図の写しを抜載す。

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▲指切り


 橋塘と号せし伊藤専三が、明治15、16年(1882、1883年)の頃、『有喜世新聞』の記者として、その紙上に博徒某の悪口を記載せしため、博徒数名に捕らえられて、橋塘はその指を折られたりと聞きしことあり。指を折り、指を切られし私刑は、古来少なからざりしがごとし。

 伝説に須磨寺の制札(=布告などを書いた立て札)といえる「一枝を伐(き)る者は一指を剪(き)るべし」は、その事実の如何、実行の如何は知らざれども、私刑的風流事と見るに足(た)れり。