間宮海峡・埋め立て計画
寒流を封じて「温暖化」を目指せ

結氷した間宮海峡
結氷した間宮海峡



 北海道の北にある樺太(サハリン)は、南北950kmほどの非常に細長い島です。この島の南部は、1945年まで日本領でした。1905年(明治38年)、日露戦争に勝利した日本は、ポーツマス条約により、ロシアから北緯50度以南の樺太島を割譲されたのです。
 
 日本は統治のため、樺太庁を設置しますが、これは1908年以降、豊原(ユジノサハリンスク)に置かれました。そして、1911年、この地を鎮護するため、豊原の小高い山の上に樺太神社が作られました。1995年、本サイトの管理人がユジノサハリンスクへ行ったとき、樺太神社の建物はまだ残されていました。

樺太神社跡
樺太神社跡



 さて、この1995年の夏、ユジノサハリンスクでは姉妹都市との市長サミットがおこなわれました。それを告知する立て看板が下の写真です。

 地図を見ると、いわゆる日本海は北のほうで袋小路のようになっていることがわかります。樺太の左側にあるのが間宮海峡ですが、ここを埋め立てて、本当に袋小路にしてしまったらどうなるだろう――かつて、日本にもソ連にも、そう考えた人たちがいます。いったい目的はなんだったのか。今回は、知られざる「間宮海峡埋め立て計画」を発掘します。

ユジノサハリンスクのサミット看板
ユジノサハリンスクのサミット看板



 1909年(明治42年)、日本は清国から吉会鉄道(中国・吉林〜朝鮮・会寧)の敷設権を獲得しました。

 この権利はしばらく放置されていましたが、1922年(大正11年)末、日本政府は、日本郵船調査部に「もし吉会鉄道が完成したなら、朝鮮北部のどこの港を修築すべきか」との調査を依頼しました。後に近海郵船の社長になる伊藤定治氏は、当時、日本郵船の東京支店に勤務しており、この事案を担当することになります。
 
 伊藤氏は、昭和3年(1928年)の2月、満州・朝鮮の各地を50日近く現地踏査し、羅津の築港を進言。すでに南満州鉄道(満鉄)による吉林〜敦化線の建設が進んでおり、日本海への出口の選定が急がれていました。結局、政府は1932年、吉会鉄道の終端を羅津に決定、その後、満鉄が羅津港を建設しました。伊藤氏の進言が実った形です。

 実は、日本郵船への調査はもう一つありました。それは「間宮海峡の埋め立ての実現性と、樺太への影響」というものです。間宮海峡は、樺太(サハリン)とロシア沿海州との間にある細長い海峡です。前述のとおり、北緯50度以南の樺太は日本領であり、日本政府はこの地の開発を急いだのです。

 伊藤氏は、樺太へ出張した際、現地をつぶさに調査しました。間宮海峡は非常に浅く、もっとも狭い場所なら、直線距離で7kmほどしかないことがわかりました。実際に伊藤氏がどのような提案をしたかはわかりませんが、その後、日本軍は埋め立てが可能なのか、さらに調査を続けたとされます(『月曜随想』による)。

間宮海峡の地図
間宮海峡の地図



 間宮海峡埋め立てというアイデアは、ソ連も考えていました。

 1926年4月18日、ハバロフスクで日ソ両国の科学者・専門家が集まり、沿海州の天然資源開発について会合がおこなわれています。このとき、ソ連のボロヴィンキン氏が、海峡の埋め立てを提案しています。

 氏のアイデアは、海峡を埋め立てて鉄道を敷くことで、この地の石炭、油田、鉱物、森林などの開発が容易になり、一大工業地帯が作れるというものでした。同時に、黒竜江(アムール川)の水を埋立地の南に流すことで、土地改良が進み、水運も向上させる計画です。

サハリン北部の主要鉱山ドゥエ炭鉱
サハリン北部の主要鉱山ドゥエ炭鉱



 おそらく、当時の埋め立て計画は日ソとも資源開発が最大の目的だったと思われます。しかし、このアイデアをまったく別の側面から提起したのが、北海道の土木業界の大物で、小樽新聞(現在の北海道新聞)社長、のちに国会議員になる、地崎宇三郎です。地崎は、間宮海峡を埋め立てることで、寒流「リマン海流」が日本海に流れ込むのを封じ、海水温を上昇させることを目指しました。

 日本海には、北から寒流のリマン海流、南から暖流の対馬海流が流れ込みます。このリマン海流を閉じ込めることで、日本海には暖流のみ流れ込むことになり、自動的に水温が上昇。地域の温暖化により、農業の大規模な改善が見込まれ、北海道は「大穀倉地帯」になるとしました。

 地崎は、このアイデアを1941年、小樽新聞で公開し、その後も、広めるべく努力しました。1946年には、敗戦で食糧難が続く日本を救う最善策として、このアイデアを『間宮海峡埋立論』にまとめて出版しています。

 ということで、以下に重要部分を、ほぼ全文掲載しておきます(読みやすさを重視し、一部を改変しています)。

『間宮海峡埋立論』
『間宮海峡埋立論』

(ここから)

 現在の日本海は、寒冷なリマン海流が、沿海州岸を洗ってウラジオストクを過ぎ、朝鮮東岸の清津・元山を経て対馬海峡に及び、ここで対馬暖流と合し、暖流は海の上部を、寒流は下部に潜んで、ともに日本列島の西岸を洗って北上している。

 従って盛夏で海面温度21度に達しているときでも、海中温度は1度に過ぎなかったりして、リマン寒流は絶えず海水温度を下降させる役目をなしている。
 
 もし私の提案どおり間宮海峡が埋め立てられたとすれば、日本海は湯タンボのように暖かくなり、ソ連が清津そのほかに不凍港を要求しなくとも、ウラジオストクでけっこう海水浴ができるようになる。

日本海の海流
日本海の海流



 現在、2月の北海道沿岸の海面は平均5度程度で、津軽海峡が8度の線にとどまっている。海面下温度は0度近いことは想像にあまりある。これが5月、陽春になっても海面温度10度前後、8月でも15度より上昇しないのは、ひとえにリマン寒流のせいである。
 
 暖流は普通、海温を20度以上にするものである。対馬海峡付近の海温が28度であることを見れば、この工事完成後は、宗谷海峡付近の海温が20度に上がるであろうし、そのときの海面下温度は18度を下ることはないと思われる。なぜなら、北海道の沖一帯は非常に浅く、海水表面に与える気温と大差ないのが普通だからである。

間宮海峡埋め立て後に変化する日本海の海流
間宮海峡埋め立て後に変化する日本海の海流


■気温の上昇と冷害問題の解決

 札幌は北緯43度に位置しているが、降雪は同緯度としては世界一多く、また寒い。同緯度にフランスのマルセイユがある。ロンドンが北韓51〜52度の間、ベルリンは52〜53度の間に位置しているが、札幌より寒くなく、また雪も少ない。

 東北・北海道の冷害は、稲作そのほかの作物の発育の最盛期である夏季の温度が上昇せず、寒波を生じ、その発育を妨げるためである。これは日本海の温度が冷たく上昇蒸気が少ないせいで、もし日本海に冷たい寒流が一滴も入らないで暖かくなるとすれば、多少、雨量は増すかもしれないが、冷害だけは絶対になくすることができる。

■降雪量減少と二毛作の可能

 上昇水蒸気の温度が高くなるため、シベリアの寒風を受けても降雪にはならない。従って、今まで一毛作すら困難であった地方が、完全に二毛作ができるようになり、現下の食糧問題解決に貢献する。たとえば、天塩方面で晩秋に麦を蒔いて、5〜6月頃に刈り取るならば、その増収は想像以上である。

間宮海峡埋め立ての平面図
間宮海峡埋め立ての平面図


■山岳農業の必要と開発可能

 日本の全面積中、可耕適地は約17%、残りの大部分は丘陵または山岳地帯であって、植林の可能地帯としては認められても、畑作地としては考えられないのが常識であるが、今日の日本ではこんな考えはもはや許されない。

 少なくとも、同じ植林するにしても、クリのような樹木(シイ、トチ、カヤ、カシ、カンラン、カシワなど何十種もある)を植えることだ。これらは、いずれも蛋白質を有し、澱粉性の実のなる樹木だからである。

 現在、ドングリさえ食糧に動員されているが、このドングリを食って頑張る気なら、なんでも食べられるはずだ。しかも、これらの樹木の植林は、どれも普通の畑作より簡単で手数がかからない。植えたら何十年でも実をなす。樹齢20年以上のものなら、1本の樹木が2〜3石の実をもつことは普通である。

 もしそれを1反歩に平均10本植えるとすれば、30石あまりの実をならすことができ、下手な水田造りよりよほど有利な仕事である。水田で稲をつくることばかり考えるのは知恵のない話である。

 1日3食中、美味しい澱粉、蛋白質を十分含むパン食で2食をすまし、米食を1食だけにする時代が早く到来することを切望する。

 以上のように考えてゆけば、全国2000尺以下の山岳地帯はほとんど植林適地であって、その面積も2000万町歩を下るまいと思う。これは現在可能なことであるが、もし埋め立て工事が完成したら寒冷を除くことができるのだから、さらに高いところまで植林できて、ますます可能性が増してくる。

 北海道の2000〜3000尺の高地が残らず開拓されたなら、わが国8000万の人口に対し、食糧を自給することは容易である。

■樺太、沿海洲に対する影響

 今までは日本に対する影響だけを述べたが、視野をソ連に転ずれば、樺太はもちろんのこと、沿海州方面に至っては日本の数倍の受益を想像することができる。人口稀薄で、1平方kmあたり4人以下という寒帯地を一躍温帯となし、ネーブル、ミカン類が採れるようになることを思えば、神の奇蹟以上の感を与えるに違いない。森林資源のほかに地下資源に富むこの地帯が、世界の穀倉とうたわれるのも遠い将来ではあるまい。

アレクサンドロフスク
埋め立て後、中心的な港になると目されたアレクサンドロフスク(1905年ごろ)

(ここまで)

 前述のとおり、地崎は地元建設業界の大物なので、同書にはきちんと建造計画が試算されています。それによると、必要な資材は

・波返壁鉄筋コンクリート=10万1250立米
・頂版・基礎コンクリート=20万2500立米
・法張用粗石(大塊)=225万8300立米
・中詰用粗石(小塊)=116万500立米
・砂礫・粘土=161万9200立米

 となり、合計で6億9442万3000円。これに設計・船舶・機械料など1億3957万7000円が加わり、総予算は8億3400万円となりました。ただし、これはインフレ後の1945年ごろの予測で、1940年前後の数字で計算すると1億9500万円となりました。なお、冬は工事できないため、工期は2年とされました。

間宮海峡埋め立てイメージ図
埋め立てイメージ図



 地崎は、この計画の実現度を、農学出身の海洋研究者・田沢博に相談しています。田沢の『生産を高める農業気象の活用』という本には、地崎が当時の金3億円で、ソ連から工事を請負ってやると力んでいたと記録されています。

 一方、地崎のアイデアに対し、多くの反論も寄せられました。主なものは以下のとおりです。

●リマン海流が本当に間宮海峡から流れてきているのかわからない
●海水は、寒流では少なく、シベリア高気圧が発生させた寒冷空気によって直接冷却されている可能性が高い
●埋め立て後、日本海がすべて暖流で覆われるかどうかわからない
●海水温が上がったところで、北海道の降雪や冷害が減るとは限らない
●日本は雨が多くなって、稲作に適さなくなる
●カラフトマスの漁場が壊滅する

間宮海峡埋め立て縦断図
埋め立て縦断図

 戦後、冷戦が始まると、日本にはソ連の情報が入りにくくなりました。その結果、暖冬だった1955年ごろから「すでに間宮海峡は埋め立てられた」とする風評も出回りました。もちろん実際にそんなことはなかったのですが、戦後の食糧難が収まり、また豊作が続くと、間宮海峡埋め立て計画は歴史の彼方に消え去っていくのでした。


制作:2023年3月15日


<おまけ>

 ソ連では、驚くほどの地球改造計画が発案されました。
 たとえば、ベーリング海峡に巨大なダムを建造し、太平洋の温かい海水を、原子力ポンプによって北氷洋に注ぎ込めば、北極圏の気候が温暖化すると考えました。氷が溶ければ人間が住める場所も増加するわけです。地球環境を人間が制御できると考えた、古き時代の発想です。
ユジノサハリンスクに残されたソ連時代の遺物
ユジノサハリンスクに残されたソ連時代の遺物
 
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