溥儀、皇帝になる
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満州国建国!
建国を祝う長春駅の装飾
昭和7年(1932年)3月1日、満州国が建国されました。満州国の執政は清朝最後の皇帝である「宣統帝」溥儀(ふぎ)です。いわゆる“ラストエンペラー”ですな。
満州国は「王道楽土・五族(日・満・漢・蒙・鮮)協和」を謳っており、表面上はあくまでも民族共存の理想的な多民族国家を目指していました。その高邁さがよ〜くわかるのが、「満州国建国宣言」です。これは長文なので、文末の3分の1くらいを公開しておきましょう。
《竊(ひそか)に惟(おも)ふに政は道に本づき道は天に基く、新国家建設の旨は一に天に順(したが)ひ民を安んずるを主とす、施政は必ず真正の民意に徇(したが)ひ私見を存する事を容さず、
凡(およ)そ新国家の領土内に居住する者は皆種族の岐視、尊卑の分別なし、原有の漢族、満族、蒙族及日本、朝鮮の各族を除く外、即ち其他の国人と雖(いえど)も長久に居住を願ふ者も亦(また)平等の待遇を享くる事を得、其当に得べき権利を保障し、其をして絲毫(しごう)の侵損あらしめず、
並に極力往日の黒暗政治を排除(原文では「さんじょ」ですが文字がありません。「さん」は「産+リ」)し法律の改良を求め、地方自治を励行し広く人材を収めて賢俊を登用し、実を奨励し金融を統一し富源を開闢し生計を維持し警政を調練し匪禍を粛正す、更に進んで言へば教育の普及は当に礼教を崇ぶべし、
王道主義を実行して必ず境内一切の民族をして煕々皓々(ききこうこう)として春台に登るが如くならしめ、東亜永久の光栄を保ちて世界政治の模型となさんとす。
其対外政策は信義を尊重して努めて親睦を求め、凡そ国際間の旧有の通例は謹みて遵守せざることなく、其中華民国以前、各国と定むる所の条約上、債務の満洲新国家領土内に属する者は、皆国際慣例に照し継続承認す、商業を創興し利源を開拓する為、我が新国家に投資を希望する者あらば、何国に論なく一律に之を歓迎し、以て門戸開放機会均等の実を挙げんとす。
以上宣布せる各節は新国家の立国に関する主要の大功大綱なり、新国家成立の日より始め、新に組織せる政府に於て其責任を負ひ、極めて誠懇恵なる表示を以て三千萬民衆の前に向ひ其実行を宣誓す、天地照鑑すこの言を渝(かわ)る事なし。
大同元年三月一日
満洲国政府》
建国から8日後の3月9日午後3時、満州国の首都長春(その後「新京」に改名)で、建国式と執政就任式が行われました。モーニングに身を包んだ26歳の溥儀は、執政就任に当たってこんな宣言を発しています。
《東北の地は余の発祥の地である。
今回民意により満洲国執政に推戴(すいたい)された。軍閥の秕政(ひせい)に生民は塗炭の苦に悩み、且つ三千万民衆が民の総意として出蘆(しゅつろ)を促して居るのに、之を拒むのは天意でない。よって決意して執政に就任することとなった。
既に執政に就任せる以上、民意を尊重して東北に民意に基く政治を行ふ、天日上にあり庶民悉(ことごと)く体せよ》
(左)執政就任式。(右)お祝いに駆けつけた溥儀の弟・溥傑と
満州国の実権は国務院総務長官が握っていて、この役職に日本人が就任したことを見ても、たしかにこの国は日本の傀儡でした。そんなことは100も200も承知の上であえて書くんですが、この「建国宣言」と「就任宣言」はかっこいいと思いません?
内情はどうであれ、ここには国家というものの1つの理想があると思う。なにせ、「世界政治の模型」ですからね。別に弁護するつもりはないけれど、本来こうした理想って大事ですよね。
(まぁ、とはいうものの、「建国宣言」の最後が「わが国に投資してね!」で終わってるところが寂しいものがありますが。ちなみにこの呼びかけに応じて日本からの投資が急増、一攫千金を狙う荒くれ者とかが大量に満州へ入国したわけですな)
で、日本は昭和7年9月15日、満州国と議定書を結び、満州国を承認します。この日満議定書も全文公開しときましょう。
満州国承認の瞬間!
《日本国ハ満洲国カ其ノ住民ノ意思ニ基キテ自由ニ成立シ独立ノ一国家ヲ成スニ至リタル事実ヲ確認シタルニ因リ
満洲国ハ中華民国ノ有スル国際約定ハ満洲国ニ適用シ得ベキ限リ之ヲ尊重スベキコトヲ宣言セルニ因リ
日本国政府及満洲国政府ハ日満両国間ノ善隣ノ関係ヲ永遠ニ鞏固(きょうこ)ニシ互ニ其ノ領土権ヲ尊重シ東洋ノ平和ヲ確保センガ為左ノ如ク協定セリ
一、満洲国ハ将来日満両国間ニ別段ノ約定ヲ締結セザル限リ満洲国領域内ニ於テ日本国又ハ日本国臣民ガ従来ノ日支間ノ条約、協定其ノ他ノ取極及公私ノ契約ニ依リ有スル一切ノ権利利益ヲ確認尊重スベシ
二、日本国及満洲国ハ締約国ノ一方ノ領土及治安ニ対スル一切ノ脅威ハ同時ニ締約国ノ他方ノ安寧及存立ニ対スル脅威タルノ事実ヲ確護シ両国共同シテ国家ノ防衛ニ当ルベキコトヲ約ス之ガ為所要ノ日本国軍ハ満洲国内ニ駐屯スルモノトス
本議定書ハ署名ノ日ヨリ効力ヲ生ズヘシ
本議定ハ日本文及漢文ヲ以テ各二通ヲ作成ス日本文本文ト漢文本文トノ間ニ解釈ヲ異ニスルトキハ日本文本文ニ拠ルモノトス
右証拠トシテ下名ハ各本国政府ヨリ正当ノ委任ヲ受ケ本議定書ニ署名調印セリ
昭和七年九月十五日即チ大同元年九月十五日新京ニ於テ之ヲ作成ス
日本帝国特命全権大使 武藤信義
満州国国務総理 鄭孝胥》
この議定書で、日本は満州での権益と軍の駐屯を確保するわけですが、ここでのポイントは、正文が日本語というところでしょう。こんなところも日本の傀儡政権の証拠と判断されてしまうわけで、甘いところですな。
まぁ、それはともかくとして。
「皇帝」の座にこだわった溥儀は、1934年、ついに満州国の皇帝となり、「康徳帝」と称しました。退位した君主が再度返り咲くことを「復辟(ふくへき)」と言うんですが、そのときの心境はいかばかりだったか?
後年、『わが半生』の中で、溥儀はこう書いてます。
《長春駅頭の竜旗と軍楽、就任式のときの儀礼、それに外人客との会見のときのほめ言葉が、私に深い印象を残し、私は多少うきうきした気分にならざるをえなかった》
……嬉しかったんだね。
で、翌1935年、溥儀は日本を訪問するのですが……このときはもっと嬉しくなってしまうんだな。結構単純な皇帝の日本での歓迎ぶりは、近日中に公開です!
制作:2003年12月1日
<おまけ>
これが溥儀の居室と執務室だ!
満州国国歌・国旗
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