米軍が見た「原爆直後の長崎」

ビールで宴会する米兵
ビールで宴会する米兵


 2018年1月、フランシスコ教皇(当時)は、原爆投下後の長崎で撮影された「焼き場に立つ少年」の写真を印刷し、「戦争の成果(the fruits of war)」という言葉をつけて広めるように指示しました。写真は、亡くなった弟を背負いながら直立不動で立つ少年が、遺体を焼く順番を待っている場面です。

 この写真は、米軍の従軍カメラマン、ジョー・オダネルが撮影しました。オダネルは少年に言葉をかけることができず、写真は40年間もトランクにしまわれたままでした(実際に撮影された写真は左右反転)。

 オダネルは、前線の上陸部隊である海兵隊に従軍していました。では、当時、海兵隊はどのように動いていたのか。本サイトは、原爆投下直後の長崎に上陸した第2海兵師団の写真集(『Pictorial Arrowhead : Occupation of Japan by Second Marine Division』)を入手したので、掲載された写真をもとに、まとめていきます。

「焼き場に立つ少年」と裏面に書かれた「戦争の成果」
「焼き場に立つ少年」と裏面に書かれた「戦争の成果」(日本財団PR資料より)


 1944年6月15日の明け方、米軍は日本軍が死守するサイパンに向け、軍艦45隻による猛烈な艦砲射撃を開始。さらに合計1000機の艦載機で、海岸線の日本軍陣地を徹底的に攻撃しました。こうした強烈な援護のなか、米海兵隊(第2海兵師団、第4海兵師団)がサイパンに上陸。そして、米軍は日本を直接爆撃できる長距離爆撃機「B29」が常駐する飛行場を、サイパンに建設したのです。ここから飛来したB29は、東京、大阪、名古屋などの大都市と各地の工場地帯を、連日のように空襲しました。

サイパンに残された日本軍の戦車
サイパンに残された日本軍の戦車


 米軍は7月24日にはテニアン島を制圧。ここにも広大な飛行場が作られました。1年後の8月6日、テニアンから原爆を搭載したB29「エノラ・ゲイ」が広島を、8月9日には「ボックス・カー」が長崎を目指し、2つの都市を焼き尽くすのです。

日本軍の自爆特攻機「桜花」
日本軍の特攻機「桜花」は「BAKA BOMB」と記載


 第2海兵師団は日本本土への強襲上陸作戦を計画していましたが、1945年9月23日、長崎への占領任務に従事することになります。これは、広島と長崎への原爆投下およびソ連の対日参戦で、日本が予想より早く降伏したからです。降伏受諾後は、当初予想されたような大規模な抵抗はなく、占領計画は大幅に修正されました。

 日本の占領にあたり、九州北部では長崎が重要な拠点として位置づけられました。長崎は原爆で壊滅的な被害を受けていましたが、天然の良港であり、九州で捕虜救出をおこうなうための拠点港に選定されたのです。

 そこで、まず第5海兵師団が佐世保を確保し、その後、第2海兵師団が長崎を占領する手筈となりました。

 9月8日、港湾周辺の機雷掃海が開始され、9月11日には捕虜救出チーム(RAMP=復員・引揚援護庁)が入港し、占領軍上陸までに9000名以上の連合軍捕虜を救出・収容しました。

原爆後で焼き尽くされた長崎
原爆で焼き尽くされた長崎


 9月16日、第2海兵師団から先遣偵察隊が長崎に飛来。このチームは、長崎の日本側責任者と接触して、占領受け入れの準備を進める任務を担いました。一行は日本側に「進駐要領」を通達し、武装解除の履行状況を抜き打ち検査し、米軍上陸予定地の港湾・ドックの状況、道路や飛行場の状態などを事前調査しました。

 そして、9月22日早朝、第5海兵師団主力が佐世保に上陸を開始。同日中に佐世保の海軍航空基地や造船所など主要施設を制圧し、周辺の警備を開始しました。

第2海兵師団の長崎上陸
第2海兵師団の長崎上陸


 続いて9月23日13時00分、予定より2日早く、第2海兵師団の主力部隊が長崎に上陸しました。上陸部隊は直ちに市内各所を占領し、原爆により壊滅した市街中心部を立入禁止区域として封鎖。上陸は穏やかな雰囲気のなかで進み、夜までに艦船を桟橋に横づけして、物資の荷揚げも開始されました。9月24日には残余部隊も上陸し、占領体制が本格化しました。

長崎山王神社の鳥居を表紙に
写真集の表紙は山王神社の鳥居

長崎山王神社の鳥居
山王神社の鳥居の実際の画像


 同日、連合国軍第6軍司令官クルーガー大将は、九州の占領は「流血なき進駐」になるだろうと判断しています。実際、公式資料「The United States Marines in the Occupation of Japan(PCN19000411500)」「THE 2D MARINE DIVISION AND ITS REGIMENTS(PCN19000319300)」などによれば、占領部隊の将兵たちは「日本人が降伏にこれほどまで従順に協力するとは予想外だった」と述懐しているほどです。

 その後、鹿児島県の鹿屋基地に進駐していた米第32歩兵師団も、10月1日付で海兵隊の指揮下に入り、南九州の占領に統一的な指揮がとられるようになりました。以後、第2海兵師団は10月から11月にかけて九州全域へ占領地域を段階的に拡大していきます。10月5日付で第2師団の担当エリアは熊本県まで広がり、続いて10月末から11月半ばにかけて、宮崎県および鹿児島県全域を管理下に置きました。

焼き尽くされた鹿児島
焼き尽くされて廃墟になった鹿児島


 米軍の占領には、おもに以下の5つの目的がありました。前述の公式資料をもとに、まとめておきます(米軍資料に依るので、あくまで米軍の見解)。

(1)軍事施設の制圧・武装解除
 佐世保や長崎をはじめとする重要港湾・基地を迅速に制圧し、日本軍の残存兵力や軍事物資を無力化することが最優先の課題でした。占領軍は日本軍の武装解除と復員を日本政府に実施させつつ、その過程を監督する任務を負いました


銃を回収する米軍
銃を回収する米軍

燃やされた日本軍機
燃やされた日本軍機


(2)連合軍捕虜の救出と保護
 占領の初期目的として、日本各地の捕虜収容所に残されていた連合軍捕虜や抑留者の速やかな救出がありました。長崎は前述のとおり、九州の捕虜救出拠点となり、9月11日までに9000名以上の捕虜が保護されました

(3)治安維持と民間統治の監督
 占領軍は必要最小限の軍政を敷きつつ、日本の既存行政機構を活用して統治する方針を採りました。マッカーサー元帥(連合国軍最高司令官)の方針により、日本政府を「活用すれども不当に廃さず」の原則で使い、指令の実行を監督する形が取られました。降伏条件(非軍事化・民主化)の履行は日本側が主体的に当たり、あくまで占領軍は「監視役」として必要に応じて介入するにとどまりました

(4)民生安定と復興支援
 占領目的には、日本の戦後復興の初期支援も含まれていました。海兵隊は現地の行政当局と協力し、軍需工場を生活必需品生産へ転換させる取り組みを支援しています。また、原爆被災地である長崎市では、被爆地の封鎖や安全確保をおこなう一方、必要に応じて医療・衛生面での監督も実施しました。道路や橋梁などのインフラ復旧もおこない、地域経済の立て直しを側面支援しました

原爆で破壊された三菱製鋼所
原爆で破壊された三菱製鋼所


(5)大量復員と引き揚げ支援
 終戦直後には、数百万人規模の日本軍将兵や在外邦人の復員・引き揚げが発生しました。占領軍はその円滑な実施を目的に、主要港湾での復員業務を監督しました。同時に、日本本土に残留していた多数の朝鮮人・中国人・台湾人の労働者や捕虜の本国送還もおこないました。海兵隊はこれら外国人の収容・輸送計画を立案し、日本の船舶と乗員を活用して本国への送還を進めました。1945年11月末までに、海兵隊管区だけで70万人以上の日本人復員が処理されました。逆に日本国外へ送り返された朝鮮人・中国人・台湾人(沖縄出身者含む)は延べ27万3276人にのぼりました

 約2万名の将兵が日本軍の復員業務に携わっていましたが、1945年12月1日、これをすべて文民職の形で新設省庁「厚生省」や警察部門に配置換えし、以後は日本政府直轄で復員・引き揚げ事業が継続されていきます(軍人軍属・一般邦人の受入援護は社会局保護課、在日外国人の送還援護は同局福利課が所管)。


日本人女性とダンスする米兵
日本人女性とダンスする米兵

長崎で宴会する米兵
宴会する米兵

子供たちに日本語を習う米兵
子供たちに日本語を習う米兵


 船舶不足などから在日外国人の送還事業が滞ると、一部で暴動寸前の騒ぎが起きたことが報告されています。これらの多くは日本の警察が出動して沈静化させましたが、場合によっては海兵隊を含む米兵も介入し、大事に至らぬよう監視・制圧する場面もあったようです。

 占領政策が順調に進むと、海兵第5師団は1945年12月1日付で本国へ帰還することになりました。この結果、1946年初頭以降は、第2海兵師団のみが九州占領を担う部隊として残留しています。そして、1946年6月15日付で、第2海兵師団は日本での占領任務を終了し、第24歩兵師団へ業務を引き継ぎました。師団司令部は6月24日に佐世保発の船団で離日し、後方要員を除き、主力部隊は1946年7月2日までに全員日本を後にし、アメリカへ帰還するのです。

アメリカへ帰還する第2海兵師団
アメリカへ帰還する第2海兵師団


制作:2025年8月6日


<おまけ>

 第2海兵師団の写真集には、浦上天主堂(爆心地から約500メートル)の原爆前と後の写真も記録されています。天主堂は高さ26メートルの双塔にそれぞれドーム形の鐘楼があり、教会堂としては当時「東洋一」を誇りました。
 1946年11月に仮聖堂が落成しますが、天主堂は戦後しばらく残されていました。しかし、天主堂は1958年に解体され、1959年に再建。落下した北側の鐘楼は、地面に一部埋まった状態で保存され、国の登録記念物になっています。

原爆前後の浦上天主堂
浦上天主堂(原爆前と後)
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