明治神宮
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明治神宮「150年の森」造営計画
あるいは「文化の日」の誕生
明治神宮鎮座祭(11月1日)
渋谷の高層ビルから新宿方面を望むと、真ん中にこんもりとした広大な森が広がります。これが明治神宮。鬱蒼とした天然の森に見えますが、実は、わずか100年ほど前に作られた人工林です。
この森はいったいどうやってできたのか、今回はその歴史を探ります。
渋谷セルリアンタワーからの眺望
1912年(明治45年)7月29日、明治天皇が崩御しました。亡くなった時間は22時43分。しかし、公式発表ではその2時間後とされました。
どうしてかというと、天皇の即位などを定めた「登極令」の規定で、その日のうちに次の天皇が践祚(天子の位の継承)する必要があったのですが、深夜だったため、当日中に儀式ができなかったからです。もし翌日になってしまえば、万世一系の皇位継承に空白が生じてしまいます。
こうして、明治天皇は1912年7月30日午前0時43分に崩御したことになりました。
崩御直後から、実業家の渋沢栄一らは東京に墓地を作るべきだという運動を始めます。しかし、明治天皇の遺志もあり、8月2日には、京都・桃山に陵墓が作られることが決まりました。
しかし、世の中の中心はすでに東京です。東京の政治家や財界人は、天皇陵に代わる何かを東京に造るべきだと考えました。これが明治神宮構想の始まりです。
造営中の本殿
政府は、1913年(大正2年)、内務大臣だった原敬を会長に「神社奉祀調査会」(後の内務省明治神宮造営局)を設置。建築・農林・法律などの専門家が招集され、40カ所ほどの候補地の中から建設地の選定に入りました。
当時、代々木近辺には広大な皇室御料地(加藤清正の旧下屋敷)と陸軍の練兵場がありました。博覧会計画もあったため、ほとんど使われず、空いたまま。代々木駅は1906年に開業していますが、まだ周囲は茶畑や草原ばかりで、馬や牛が歩いている状態です。この場所に、明治神宮を建造することが決まります。合計72.2ヘクタールで、東京ドームの約15倍です。
上棟式(1919年7月)
加えて、青山練兵場を神宮外苑にすることになりました。
1915年(大正4年)、実務を担当する「明治神宮造営局」が置かれます。神宮内苑の建設費は国費ですが、外苑は国民から集めた寄付金で造成することが決まりました。民間の「明治神宮奉賛会」が結成されると、あっという間に1000万円という巨額な寄付金が集まります。
神宮が着工したのは1915年(大正4年)10月のことです。
社殿や参道、池などの土木工事のため、全国の青年団から勤労奉仕隊が馳せ参じました。その数は延べ11万人ともいわれます。
土塁工事(北海道空知から来た青年団)
明治神宮が完成し、明治天皇、昭憲皇太后(皇后)を祭神として御鎮座祭がおこなわれたのは、1920年(大正9年)11月1日。すでに崩御から8年以上たっていました。
造営後の浄祭(1920年10月28日)
鎮座祭初日、表参道入口の雑踏(11月1日)
現在、明治神宮は鬱蒼とした森になっていますが、これは、渋沢栄一の呼びかけに応じ、全国から集まった献木が基礎になっています。
明治神宮造営局に集まった森の専門家のなかで、中心となったのは、日比谷公園を手掛け「公園の父」と呼ばれた本多静六・東大農学部教授です。
当時の大隈重信首相は「スギやヒノキなど針葉樹を中心に植え、伊勢神宮のような荘厳な森にしよう」と主張します。しかし、関東ローム層の代々木には針葉樹は不向きなため、本多や渋沢栄一はカシ、シイ、クスなど常緑広葉樹による森を作ろうと決意します。
本多たちが作った「林苑計画」は、以下のような手順を経て、150年で壮大な森を作る計画でした。
(1)神社の雰囲気を早急に作るため、まずは針葉樹の大木を植える
(2)何十年も経つと、常緑広葉樹が伸びてきて大木になる
(3)針葉樹は広葉樹の大木に日差しを遮られ、徐々に消えていく
(4)針葉樹は消滅し、最後は原生林のような鬱蒼とした森になる
(5)落ち葉が養分になるため、樹木は自然に代替わりし、人間の管理は不要に
『明治神宮御境内林苑計画』に描かれた林相の変移
(『明治聖徳記念学会紀要』復刊第43号より)
こうして、全国から献木を受け付けることになりました。80種類の樹木の名前を公告して募集したところ、樺太(サハリン)、満州、台湾、朝鮮を含め、全国から10万本近い木が集まりました。
『明治神宮造営誌』によれば、
献木 9万5559本
もともとあったもの 1万3292本
他省庁から譲り受け 8222本
購入 2840本
合計365種類、11万9913本の木が集まりました。内務省は、そのすべてを植樹することを決定します。
ちなみに運送費は献木者の自己負担でしたが、鉄道会社や船会社が半額割引で協力しています。
台湾阿里山から搬出された鳥居用木材(原宿駅に到着)
庭園には、自然そのもののような起伏を持つ「イギリス式」と、左右対称で幾何学的な「フランス式」の2つあります。専門家の間でどちらを採用するか議論になりましたが、結局、明治神宮は「イギリス式」を基本としました。
太平洋戦争末期の1945年4月14日、代々木に焼夷弾が降り注ぎ、明治神宮は社殿などを焼失します。しかし、森は無事でした。これは、常緑広葉樹が火に強かったからだといわれています。
神社が完成して50年経ったときの全木調査では、本数は約17万本に増えましたが、想定通り、針葉樹は淘汰され始め、種類は247種類に減りました。
東京五輪が開かれる2020年、明治神宮は、ちょうど100年を迎えます。まだ150年経っていませんが、ほぼ当初の予定通りの森に成長しました。今ではオオタカの巣も確認されています。
針葉樹が目立つ表参道
幕末に生まれた夏目漱石は、明治天皇崩御から2年後、小説『こゝろ』で、登場人物にこんな発言をさせています。
「夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終わったような気がしました」
明治神宮完成から5年後、そろそろ「明治」の喪失感が強くなってきた1925年、明治天皇の誕生日11月3日を祝日にしようという気運が高まりました。大正天皇の崩御があり審議は遅れますが、1927年(昭和2年)、「明治節」が誕生します。
戦後、この日が「文化の日」となるのです。
明治天皇の霊柩車が置かれた葬場殿跡(明治神宮外苑)
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国立競技場(明治神宮外苑)の誕生
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幻の明治神宮
制作:2016年9月26日
<おまけ>
日比谷公園や明治神宮の森を設計した本多静六は、日本初の林学博士です。北海道の大沼国定公園や福岡県の大濠公園なども手がけており、現在の全国植樹祭の提唱者でもあります。
一方、独自の蓄財投資法により一代で巨額の富を築いたことでも知られています。基本は収入の4分の1を貯蓄・投資する方法で、一説には現代の価値で数百億円ともいわれる資産を築きました。
そして、晩年には全財産を埼玉県などに寄付してしまった大人物なのでした。