「文化の日」の秘密
天皇誕生日は宮中ダンス三昧

明治節記念塔
比叡山に建設予定だった明治節記念塔


 11月3日は文化の日ですが、100年以上前から、この日はいつも晴れる「特異日」だと知られていました。

 明治26年(1893年)11月4日、『時事新報』に風変わりな記事が掲載されています。11月2日が豪雨で、翌3日も天気予報では雨だったため、ついに晴れのジンクスが破られてしまうのかと、露天商の間に落胆が広がりました。晴れるかどうか賭けをする人も多々いました。そして、いざ朝を迎えると、その日は小春日和のような素晴らしい天気で、晴れに賭けた人間は鼻高々だったというのです。

 いったいなぜこんな記事が新聞に掲載されたのか。
 実は、戦前、11月3日は最重要ともいえる祝日でした。この日は明治天皇の誕生日なのです。

 明治天皇は、嘉永5年(1852年)9月22日(旧暦)、京都で生まれました。
 明治元年(1868年)、天皇の即位とともにこの日を「天長節」として奉祝することになります。「天長」は老子の「天長地久」より採られており、日本では光仁天皇が775年に祝われましたが、その後、途絶しています。つまり、天皇誕生日は、事実上、明治時代に始まったものなのです。

 第1回天長節は、まだ江戸開城から半年ほどしかたっておらず、明治天皇が初めて江戸に向かう途中でおこなわれました。場所は鈴鹿峠(三重県)の土山で、従者や近隣に酒などがわずかに配られた程度です。

江戸城に到着した明治天皇
江戸城に到着した明治天皇(旧暦10月13日)


 天長節は、明治4年に始まった観兵式の拡大とともに派手になっていきました。
 明治6年、改暦で太陰暦が太陽暦に変わり、天長節は11月3日となりました。そして、この年から、市民が揃って日の丸を掲げるようになりました。それまでは、出したり出さなかったりは自由だったのです。

 こうして、天長節は明治時代、ある意味で最も愛国的な祝日になっていきました。

明治10年観兵式
観兵式(明治10年、日比谷練兵場)


 明治45年(1912年)7月30日、明治天皇が崩御。
 次の大正天皇は8月31日生まれで、この日が天長節となりました。しかし、体の弱かった大正天皇は盛夏に行事をおこなうことが厳しく、新たに10月31日が「天長節祝日」となりました。大正時代は、天長節と天長節祝日の2回休日があったのです。

 一部の国民は、休日でなくなった11月3日がやってくると、そこはかとない寂しさを感じていました。
 そこで、大正14年(1925年)、11月3日を恒久的な祝日にしようという請願運動が始まります。中心になったのは、天業青年団の田中智学でした。田中は、東郷平八郎以下1万8000の署名を国会に提出、結局、昭和2年(1927年)の第52議会で「明治節」の建議案が可決され、翌年3月3日、明治節制定の詔書が公布されました。

 田中が中心となった「明治会」は、この後、国粋的な活動を進めていきますが、それとは別に明治天皇の威光を広める団体が誕生します。それが、陸軍大将から明治神宮の宮司になった一戸兵衛(いちのへひょうえ)を会長とする「明治節記念橖奉建会」でした。「橖」は「塔」という意味です。

一戸兵衛大将の揮毫
一戸大将の揮毫


 奉建会は、比叡山に高さ130尺(約39m)にもなる巨大な記念塔を建立することを目標にしていました。その塔は、近畿一帯から夜に望めるよう、「一万燭光」の白熱燈を点灯する計画でした。下の画像は、設計者・伊東忠太のデザインです。

明治節記念塔
明治節記念塔


 どうして比叡山かというと、趣意書によれば、「皇室典範では即位礼は京都で行われるべきと明文化されており、奉祝は京都でなければならない。桓武天皇が四神(東の青龍・南の朱雀・西の白虎・北の玄武)に囲まれた平安京を造ったとき、鬼門(北東)の比叡山へ臨幸して以来、この場所は1000年以上も鎮護の地位にあった」からです。

比叡山からの琵琶湖側の眺望
比叡山からの琵琶湖の眺望


 昭和3年3月18日、比叡山で記念塔の建標式、地鎮祭がおこなわれました。
 しかし、京大の生物学者・川村多実二らが野鳥被害など自然保護の観点から反対を表明。その後、奉建会関係者による寄付金流用問題が発覚したこともあり、プロジェクトは頓挫しました。

比叡山での地鎮祭
比叡山での地鎮祭


 さて、明治天皇への崇拝が進むなか、宮中では天長節にどんなイベントが行われていたのか。若月紫蘭『東京年中行事』(東洋文庫)にその詳細が書かれています。昼は厳粛でしたが、夜はまったく様相が異なり、ダンス三昧だったと記録されています。

 まずは昼から見てみましょう。

 天皇は午前8時半に皇居を出て青山練兵場に向かい、閲兵式の後、すぐに皇居に戻り、午前9時から宮中三殿で祭典。
 午前11時、鳳凰の間で親王、王殿下などの拝賀を受け、12時前、豊明殿で親王、王殿下、大勲位、親任官、公爵、さらに各国大公使らを集めて祝宴となります。

 最初に天皇から「本日の誕辰(=誕生日)に際し、各国大使・公使ならびに臣僚と宴を共にするを歓び……」といったお言葉が出され、次いで首席大使と総理大臣から祝辞。宴の間は絶えず西洋音楽が奏でられています。宴のあと、14時まで参賀が続きます。

焼失した明治宮殿の鳳凰の間
鳳凰の間(焼失した明治宮殿


 砲兵は前日の日没に21発、当日の日の出に21発、当日正午100発、日没には101発の祝砲を撃ちます。各軍艦は駆逐艦、水雷艇、修理中のものを除き、すべて正午に21発の皇礼砲を発し、外国軍艦も同数の皇礼砲で祝意を表する決まりでした。
 なお、宴が始まったのは明治2年、閲兵式は明治5年からです。

 では、夜の「天長節夜会」はどんなものだったのか。
 大夜会の会場は明治16年(1883年)まで延遼館(=迎賓館)あるいは外務省官舎で、その後は鹿鳴館、さらにその後は帝国ホテルなどで開催されました。

芝離宮内につくられた延遼館
芝離宮内につくられた延遼館


 日本人男子の服装は燕尾服にシルクハット、婦人は夜会服か白襟紋付というドレスコードがありました。しかし、正装に慣れず、黒ネクタイや白以外の手袋、赤靴などを着て、玄関払いされる人もいます。

 舞踏会は午後9時から始まります。定刻になると、奏楽にあわせてダンスが始まり、夜11時頃には食堂が開かれ食事も楽しめます。食べ終わるとだいたい深夜0時近くで、たいていの来賓はそろそろ切り上げますが、なかにはここからまたダンスに興じる人もいました。

 来賓客には横浜在住の人も多く、その人たちのため、午前1時に新橋から特別列車が出ました。東京に住む人たちはまだ帰らず、午前2時くらいまで楽しんだと記録されています。

 このように、文化の日は、ダンスで踊りまくる楽しげな記念日だったのです。

明治節記念塔ピンバッチ
明治節記念塔ピンバッチ


制作:2020年11月2日


<おまけ>

 昭和になると、天長節は4月29日になりました。
『昭和天皇実録』によると、昭和20年(1945年)の天長節では、観兵式と天長節宴会が中止されています。9時35分から10時55分、11時10分から27分までの2回、空襲の警戒警報が発令され、拝賀も中断しました。スウェーデン、満洲国、アフガニスタン、タイ、中華民国国民政府から祝電が寄せられましたが、ドイツのヒトラー総統からの祝電は到着しませんでした。すでに電信が途絶状態にあったからです(ヒトラーは4月30日に死去)。
 その翌年、敗戦後の天長節では、観兵式はもちろん、天長節宴会も中止されました。しかし、GHQは庶民が日章旗を掲げることは認めています。
 昭和23年7月、天長節の名称は廃され、天皇誕生日となるのでした。
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