「メートル法」を阻止せよ
単位の誕生と「度量衡」統一への道

江戸時代の両替屋
江戸時代の両替屋
(単位が統一されてないと、両替はできません)



 1955年、通産省は乗用車を普及させるため、「国民車構想」をぶち上げます。これに呼応して、1958年、富士重工が「スバル360」を発表。この軽自動車は、量産型として初めて大人4人が乗車でき、しかも当時の水準を超える走行性能を実現したことで、大人気となりました。

スバル360
スバル360
 
 この360という数字はどこから来たのか。もちろん排気量から来てるんですが、どうしてこんな中途半端な数字なのか。一説によると、360ccは180ccの2倍、つまり2合だというんですな。当時はまだ尺貫法が残っていたため、通産省の官僚が「2合」に決めたとされています。

 しかし、1954年以前の軽自動車は、2ストロークエンジンの排気量を240cc、4ストロークを360ccと決めていました。240ccだと1.3333…合になってしまうし、そもそも「国民車構想」では「積載量100kg以上」「最高時速100キロ以上」「修理なしで10万キロ走行」などとメートル法が使われていることから、この説は都市伝説だと思われます。

 けれど、こうした話が信じられるほど、当時はまだ尺貫法が使われていました。実際、尺貫法が廃止され、メートル法が完全実施されたのは、スバル360が登場した翌1959年のことでした。


 度量衡とは、「長さ(度)」「容積・かさ(量)」「重さ(衡)」を意味しています。日本の尺貫法では、容積は次のような単位で表されます。

 勺(0.018リットル)
 合(0.18リットル)
 升(1.8リットル)
 斗(18リットル)
 石(180リットル)

「石」という単位があることから、これは米の量から来てることがわかります。まず「石高」を決め、「枡(ます)」で計って年貢を取ると。日本で初めて「枡」の大きさが決まったが701年の大宝律令で、中国の枡と同じ大きさでした。この量は、両手で水をすくう形で、一回にすくえる米の量だと言われています。

 この枡が全国で共通化されるには時間がかかり、初めて実現したのが豊臣秀吉です。太閤検地の際、従来の1.2倍で枡を統一しました。このサイズを京枡といい、今の1升と同じです。

 ちなみに、米俵の大きさが全国で統一されたのは明治時代で、1つの米俵は4斗(72リットル)と決められました。米1斗の重さは約15kgなので、1俵は約60kgということです。

米屋
尺貫法が使われていた米屋


 よく考えればわかりますが、量の単位は、長さの単位が決まれば自動的に決まります(明治24年の度量衡法では、量の単位は升を基準とし、升は6万4827立方分とされました)。
 では長さの単位を見てみます。長さの単位は、

 分(0.3cm)
 寸(3.03cm)
 尺(30.3cm)
 丈(303cm)

 で、これは思いっきり手の平を広げたときの、親指と中指の長さが6寸(18cm)だと言われます。距離の場合は6という数字が使われることが多く、6尺は1間、60間は1町、36町は里(1里は約3.9km)です。

尺貫法が書かれた地図
「邦里」と尺貫法が書かれた地図(左がメートル)


 通常、尺といえば、大工が使っていた曲尺(かねじゃく)を指し、ほかに着物の仕立てに使われた鯨尺(くじらじゃく)があります。曲尺1尺は30.3cmで、鯨尺1尺は37.88cm。
 その昔、「サザエさん」(1950年8月30日、朝日新聞)に「クジラの8寸がカネの1尺よ」というセリフがあって、庶民はうまく換算できていたことがわかります。

 重さの単位は、主に「匁(3.75g)」と「貫(3.75kg)」で、1匁(もんめ)は唐の「開元通宝」1枚の重さから来ています。ちなみに、この重量は江戸時代の「寛永通宝」に引き継がれ、現在の5円玉の重さも1匁と決められています。


 長さや面積の単位は、多くが体の部分から来ています。これを身体尺といいますが、たとえば「フィート(フット)」は男の足の長さ、「尋(ファゾム)」は両手を左右いっぱいに伸ばしたときの長さです。
 重さの単位は、身近な穀物由来が多いです。宝石の「カラット」は南アフリカの豆の重さから来ており、中国の「分」はこうりゃん1粒の重さから来ています。

 このように、単位は人間と密接な関係があったんですが、それがメートル法の導入で、一気に破壊されます。
 メートルはフランスが作った単位ですが、これは地球の子午線の長さの4000万分の1と決められました。確かに正確ですが、誰も想像できない大きさです。

 フランスにおける単位の統一は、1790年、タレーランが国民議会で「世界の単位を統一するため、まずはイギリスに呼びかけよう」と演説したことから始まります。このとき、タレーランは、1秒打ちの振り子の長さを基準にすることを提案しています。

 地球子午線の測量は、ダンケルク、パリ、オルレアン、ローデ、バルセロナを通る線を三角測量で実測することになりました。この距離と緯度の差から、子午線の長さが割り出せます。測定は、ドランブルとメシャン(メッシェン)が担当しました。2人は、後にパリ天文台のトップになっています。

メートル法の成立
メートル法のための測量


 重さの単位は、1mが確定後、10cm四方の蒸留水が最も重くなる4℃のときの重さと決められました。水の密度の測定は、酸素の命名者であるラボアジエがあたりました。

 しかし、時代はフランス革命の頃で、メシャンは測量中にスペイン軍に捕まるは、ラボアジエは死刑にされるはで、作業が終わり、メートル原器とキログラム原器が完成するのは、1799年のことでした。このとき記念につくられたメダルには「すべての時代に、すべての人々に」と刻まれているそうですよ。

 その後、1812年にナポレオン1世が、旧単位とメートル法との比率を定めるなど、普及には一進一退ありましたが、1840年にメートル法以外の単位の使用が禁じられ、次第に統一は軌道に乗っていきます。

 メートル法は、1816年にベルギー、オランダ、ルクセンブルグで、1836年にギリシャで、1845年にイタリアで、1849年にスペインで、1852年にポルトガルで採用され、1853年にはコロンビアでも使われ始めます。1864年にイギリス、1866年にアメリカが使い始めたことで、世界的に普及していくのです。
 特に1867年のパリ万博ではメートル法の大宣伝が行われ、1870年、ナポレオン3世が国際会議を招集したところ、24カ国の代表が集まり、1875年、ついに国際的なメートル条約が結ばれるのです。

 さて、日本がメートル条約を批准するのは1885年で、公布されるのは1886年(明治19年)。このとき日本が抽選で手に入れたメートル原器はNo.22、キログラム原器はNo.6でした。この原器は、中央度量衡器検定所を経て、現在は産業技術総合研究所の計量標準管理センターに保管されています(尺原器と合わせ重要文化財)。

メートル原器、キログラム原器
メートル原器、キログラム原器のレプリカ(国立科学博物館)


メートル原器キログラム原器
メートル原器とキログラム原器の比較装置


 日本では、原器が到着した翌年の1891年に「度量衡法」が制定されますが、この時点では「度量は尺、衡は貫を以て基本とす」とあり、尺貫法が基本でした。ところが、1921年の改訂で、メートル法が基本とされるのです。

 メートル法導入が決まった翌年(明治20年)には、メートル法反対派の勢いが強まります。ちょうど明治維新から20年経ち、国内では国粋派の力が強くなっていました。「日本人のための日本を」というスローガンが叫ばれ始め、お雇い外国人は解雇され、東京商工会議所は貨幣からローマ字を削るよう決議します。服装も古代のものが再流行するなかで、メートル法への反対は日増しに強くなっていきます。

メートル法の教え方
メートル法の教え方(国会図書館蔵『メートル法度量衡の話』)


 この反対派が最も勢力を拡大するのが、1933年(昭和8年)でした。ちょうど戦争の準備が始まるとともに、「メートル使用は愛国的じゃない」という議論が盛んになったのです。

 反メートル同盟の中心となったのが、貴族院議員で子爵の岡部長景でした。岡部の反メートル論を箇条書きでまとめておきます。(『「メートル」法強制施行反対意見集』による)

(1)メートル法は10進法で便利というが、実際は1000進法や100進法も多く、単位の間隔が大きく不便である。船の単位である「噸」は353分の1000立方メートルなどと分数を使うことになり、使いにくい
(2)メートル法は地球の大きさを元にしていて科学的というが、地球の大きさが変わったらどうなるのか
(3)メートル法は「メートル」「グラム」「リットル」「アール」「バール」……と単位が多すぎて覚えられない
(4)メートル法は国際的に統一されていくというが、アメリカなどはほとんど使ってない
(5)法律の不備で、日本のメートル法は、国際基準と一致してないものが多い
(6)家では尺貫法が使われているのに、学校ではメートル法だけ教えるのでは、家庭が崩壊したうえ、西洋崇拝の人間ができてしまう。社会の慣習を無視したことを学校で教えるのは、不具者を養成してるのと同じだ
(7)高度な日本建築は尺貫法で建てられており、メートル法では建築技術が衰亡する
(8)尺貫法で書かれた膨大な土地台帳や登記簿を書き換えるのは困難だ

 岡部は、後に、東條英機内閣で文部大臣となって学徒動員を実施するんですが、やはり教育的見地からの批判が一番熱がこもっています。

 建築の面からは、平安神宮や明治神宮、築地本願寺を設計した伊東忠太もこう言っています。

《今日メートル尺で茶室を設計せよと注文されたとすれば、何人も手が出せないと思います。メートル尺で神社を設計せよと言われたならば、何人も一種の悲哀を感ずることと想います……幾千年慣用された尺寸法に由(よ)る各方面の規格を急造することは、殆(ほと)んど不可能と言ってもよいと思います》


 また、朝日新聞記者の杉村楚人冠は、「太陰暦を撲滅しようと思っても、いまだに太陽暦と太陰暦のどっちが多く使われているかわからない。気温を摂氏で測るように推進する人もいるが、多くの人は体温を摂氏で、気温を華氏で測りたがる。やはり90度の暑さ、30度の寒さという方が通りがいい」として、文化面から強制を批判しています。
 まぁ、今じゃ、華氏なんて使われてませんけどね。

 このように、なかなかメートル法は普及しませんでしたが、導入にもっとも熱心だったのが陸軍です。1887年には、すでに村田銃(日本軍が採用した最初の国産小銃)の照尺をヤードからメートルに変更しています。戦前、メートル法は国体に反するという議論が出たときも、荒木貞夫・陸軍大臣が「メートル使用が非愛国的だとはけしからん」と反対派を非難しているほどです。

メートル法完全施行
メートル法完全施行の記念切手


 1959年、メートル法が完全実施され、鯨尺と曲尺は禁制品となりました。これで困ったのが、大工や和服関係者です。鯨尺と曲尺が闇流通する状態に憤然とかみついたのがタレントの永六輔でした。1976年、尺貫法の復権を訴えるキャンペーンを起こし、イベント会場で鯨尺や曲尺を売って警察に自首したことまであるのです。
 そんなわけで、最後に永六輔のコメントを。

「僕はメートル法より尺貫法のほうがいいと訴えたわけじゃない。法律の決めかたや適用にあいまいで筋の通らないところがあるから、ちょっとヘンだ、と言ったり書いたりしただけ。尺貫法を必要としているのは、おもに年季の入った職人衆。そんな人たちを捕まえて罰するのは、国家として、とても乱暴なことですよ」(朝日新聞、2012年4月21日)

石工
現在も尺貫法を使う石工


制作:2013年4月22日


<おまけ>
 その後、1mの定義はクリプトンの波長を元に決められましたが、今では光の速度に依っています。1mは、1秒の2億9979万2458分の1の時間に光が真空中を伝わる長さです。ちなみに1秒は、セシウム原子によって決められています。

 一方、キログラムは現在でもキログラム原器が基本となっています。国際キログラム原器は直径・高さとも約39mmの円柱形で、プラチナ(白金)90%、イリジウム10%からなる合金でできています。しかし、人工物に依存しているため、厳密さに欠けてしまいます。そこで、2011年10月、国際度量衡総会で新しい定義を設けることが決議されました。

<おまけ2>
 現在、TPP交渉で反対派と賛成派が議論を交わしてます。国際化(=ルールの統一)というのは昔から大きな反対を呼ぶんですが、TPP参加でルールが変更されると、困るのは、永六輔が言うとおり、新ルールについていけない庶民です。そう考えると、国際化がいつも正しいわけではないのですな。
 実は、今でも真珠の単位は世界的に「匁」と「貫」が使われています。もちろんグラムも使われていますが、あえてその地位を譲る必要はないでしょう。アメリカだって、かたくなにヤード・ポンド法を使っているし。
 生物の世界でも多様性が大事だと言ってますね。それは人間も一緒。リーマンショックやギリシャ危機を見てて思うのは、ルールを統一すると、何かをきっかけに総崩れするということです。
 そんなわけで、これからはルールの統一ではなく、ルールの不統一を目指すのはどうかなぁ、と本サイトの管理人は思うのでした。
 
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