日本海海戦100年
戦艦三笠・幻の時鐘を見に行く!

戦艦「三笠」
戦艦「三笠」


 新宿御苑の隣に、都立新宿高校があります。この高校は、その昔、府立六中と呼ばれていました。実はこの高校には、校歌とは別に「健児の歌」というのがあるんです。公式サイトより引用しておくと、こんな感じです。

●健児の歌(堀内敬三作詞・作曲)

 黎明の雲を破り さしいづる日のごと
 明けし生気充てり我等 六中健児
 いざ燃えよ朝日のごと 祖国(母校)の光世にあらはせ
 興国の鐘は響けり 興国の旗あがれり
 建国の毅き力 こゝろに保ちて
 新なる御代を護る 我等六中健児
 いざ築け強き日本 歴史の光なほ加へよ
 興国の鐘は響けり 興国の旗あがれり


 この歌のリフレインの部分、「興国の鐘は響けり 興国の旗あがれり」とは、いったい何を意味しているのか?
 今回は日本海海戦100年を記念して、この歌詞の秘密に迫ります!

 興国の鐘とは、連合艦隊の旗艦「三笠」の艦橋にあった鐘のことです。

 明治38年(1905)5月27日午前4時45分、五島列島沖で警戒中の信濃丸は、ロシアのバルチック艦隊を発見、連合艦隊に「敵艦隊発見」を打電します。
 
 午前5時、三笠上で2回、鐘が鳴らされました。当時、海軍では30分ごとに鐘を鳴らし、時刻を知らせていました。これを時鐘(じしょう)というのですが、午前0時30分の1点鐘から始まり、1時は2点鐘、1時30分は3点鐘と続きます。これは4時の8点鐘で一巡するので、5時には2回鐘が鳴らされるのです。
 
 この時鐘を合図に、三笠には3連結の信号旗が掲げられました。「敵艦見ユ直チニ出動セヨ」という意味です。この命令をもって、連合艦隊は、午前5時5分鎮海湾を出発したのです。
 
 で、5時15分、三笠は大本営に宛てて電文を発信します。これが有名な「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ、聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天氣晴朗ナレドモ波高シ」で、日本海海戦は、まさにこの時鐘をもって開始されたのです。

日露戦争
日露戦争でもっとも有名な絵画
(中央が東郷平八郎、左上の旗がZ旗)
 

 さて、今回は日本海海戦そのものには触れませんが、この日13時55分、三笠に国際信号旗が掲げられます。これが有名な「Z旗」で、「皇国ノ興廃、此ノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」の意味です。

 ここから「興国」という言葉が非常に重要な意味を持ってくるわけで、三笠の鐘は後に「興国の鐘」と呼ばれるようになりました。冒頭で書いた「興国の鐘は響けり 興国の旗あがれり」の意味がようやくわかってもらえたと思います。

東郷元帥の揮毫
東郷元帥の揮毫


 戦艦三笠は、明治35年3月にイギリスのヴィッカース造船所で竣工したのですが、大正12年(1923)9月1日、関東大震災で被害を受け、20日、帝国軍艦籍から除籍されてしまいます。かくて日本人の誇りとも言うべき「興国の鐘」は府立六中に寄贈されました。なぜこの学校が選ばれたのかはよくわかりません。

 下の写真は昭和5年の「興国の鐘」です。府立六中も気合いの入った展示を見せています。

興国の鐘
興国の鐘
府立第六中学校にて
 
 実を言うと、この鐘は現在、横須賀で係留保存されている三笠に飾られています。空襲で新宿は焼け野原になりましたが、鐘だけは生き残ったんでしょうか? それとも三笠の鐘は模造なのかな? 新宿高校には空襲のときにどこかに埋められたという話が残っているそうです。何度が発掘が試みられましたが、いまだ見つかっていません。

 一時期、日本人の魂の根幹のような存在だったこの鐘は、いったい今どこに?

制作:2005年5月30日


<おまけ> 
 大正14年4月、戦艦三笠は記念艦として保存されることが決定します。8月には三笠保存会が設立されるのですが、当時、保存会は全国の小学生から寄付を集めていました。当時の少年少女は、きっと喜んで寄付したんでしょうね。

三笠保存会
大正時代の三笠保存会のビラ


 上のビラには、「全国の学校の生徒から1銭以上の寄付を受けることになりました。1銭でも2銭でも心から寄付して、この名誉ある三笠を永久に保存しましょう」とあります。

 三笠は終戦とともに米軍に接収されますが、以後、誰も管理することなく、荒廃していきます。これを無念に思ったイギリス人のジョン・ルービンが中心となって、1度解散した三笠保存会が復活します。三笠が完全復元されたのは、昭和36年(1961年)5月27日。まさに日本海海戦記念日のことでした。

三笠

   
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