スーパー技術者「明智光秀」
銃、築城、治水、医学の知識を持った男

福知山城
光秀が築城した福知山城



 1568年、足利義昭は織田信長の助けで室町幕府15代将軍に就任します。しかし、その1週間後、敵対する三好三人衆は、義昭を暗殺すべく、仮御所に使っていた本圀寺を襲撃します(本圀寺の変)。本圀寺の籠城軍はわずか2000人しかおらず、約1万の兵を率いた三人衆にあっという間に殲滅されると思われました。

 しかし、このとき義昭を守っていた兵のなかに明智光秀がいたのです。光秀は、大筒という口径の大きな鉄砲を使って、みごと敵を撃破しました。通常の火縄銃が4~5匁(もんめ)の弾丸を飛ばすのに対し、大筒は200匁の弾丸を飛ばすことができたといいます。熊本・細川家の家史『綿考輯録』には「光秀が大筒の妙技を持っている」と書かれています。

 信長は、事件の一報を聞いて駆けつけますが、すでに三人衆は撤退していました。このとき信長は光秀を褒め称えたことは間違いないでしょう。それにしても、光秀は普通の人間には扱えないような巨大な銃の技術をどこで学んだのか。その答えはわかりませんが、実は光秀は誰もが驚くスーパー技術者でした。城をみずから設計し、巨大な船を動かし、水害を止め、さらに豊富な医学知識も持っていたのです。
 
 今回は、そんな戦国時代の優秀すぎる理系男・明智光秀の正体に迫ります。

■若き日、医者だった光秀

 織田信長に仕えるまで、明智光秀が何をやっていたのかは、ほとんどわかっていません。
 光秀が登場する史料は『明智軍記』をはじめ江戸時代(「本能寺の変」から100年以上後)に書かれたものが多く、基本的には「軍記物の小説」なので、どこまで信用していいのかわかりません。ですが、いまのところ信用できる最古の史料とされるのが、2014年に熊本の個人宅で発見された『針薬方(しんやくほう)』です。

 これは、15代将軍・足利義昭に仕えた後、熊本・細川家の家臣となった米田貞能が、人づてに聞いた話を書き写した医学書です。奥書に

《明智十兵衛尉(じゅうべえのじょう)高嶋田中籠城の時の口伝なり。(中略)
 沼田勘解由左衛門尉殿より大方相伝、近江坂本においてこれを写す》

 とあって、光秀が1566年ごろ、田中城(滋賀県高島市)に籠城した際、足利義昭の側近だった沼田清長に説明した内容を、さらに転記したものです。

「針薬方」には刀傷の治し方、薬の作り方などが詳細に書かれており、この史料をもって、光秀が医者だったのではないかと考えられるようになりました。しかし、光秀は、いったいいつ医学知識を得たのか?

 注目されるのは『針薬方』にキズ薬として紹介されている「セイソ散」です。これは、福井・朝倉家に伝わる「秘薬」だとされています。

 江戸初期に書かれた『信長公記』では、1572年、明智光秀は朝倉義景討伐の一環で、敵方となった田中城を攻撃していますが、ここで重要なのは、朝倉秘伝の薬を知っていた光秀が、朝倉攻撃をしていることです。簡単に言えば、光秀は朝倉を頼り、その後、朝倉を敵に回したのです。

■福井で日本中の情報を収集

 美濃(岐阜県)で生まれたとされる光秀は、1556年、斎藤道三の息子・義龍に居城の明智城を攻められ(長良川の戦い)、越前に逃げ延びました。当時、20代終わりだったと思われる光秀は、それから10年ほど、称念寺の門前に住んで「寺子屋」を開いていたと伝えられます。

 これは、『遊行三十一祖京畿御修行記』という僧侶の旅記録に、《明智十兵衛尉といいて、濃州土岐一家牢人たりしが、越前朝倉義景を頼み申され、称念寺門前に10カ年居住》とあることから確実視されています。称念寺(福井県坂井市丸岡町)は、新田義貞の場所がある名刹で、のちに足利将軍の祈願所となりました。一遍上人が開いた「時宗」の念仏道場の拠点ですが、実は、ここに日本中の情報が集まったと言われています。いったいなぜか。

称念寺
称念寺



 時宗の僧侶は、「遊行」といって、全国を歩きまわって念仏を布教します。とくに戦国時代は、軍とともに各地を歩く従軍僧が多かったとされます。称念寺は北国街道に面しており、僧侶が集まっては情報交換がおこなわれました。加えて、当時の称念寺は、配下の光明院に日本海交易を担わせ、大規模な水運ネットワークと財産を持っていたのです。陸と海のネットワークで、この地には諸国の情報が集積したのです。

『明智軍記』には、光秀が諸国を視察して回ったと書かれていますが、実際は称念寺で知った情報が多かったのではないかと考えられます。そして、時宗は「同朋衆(阿弥衆)」といって日本有数の芸能集団でした。光秀は、称念寺の門前で連歌や茶道などさまざまな芸能に詳しくなったのです。

 浪人だった光秀は、なんとか朝倉家に士官したいと考えました。ここで知られるのが「黒髪伝説」です。あるとき、称念寺の住職が朝倉家の家臣と連歌会を催す機会を作ってくれました。しかし、貧困に苦しむ光秀には資金がありません。そこで、妻・熙子(ひろこ)が自慢の黒髪を売って資金を調達しました。

 このエピソードはよく知られており、江戸中期、この地に立ち寄った松尾芭蕉は、出世に悩む門弟に「月さびよ 明智が妻の 咄(はなし)せむ」と詠みました。「出世していなくても、支えてくれる妻がいるではないか」という意味です。

 この連歌会をきっかけに、光秀が実際に朝倉家に仕官できたかどうかは、記録がないのでわかりません。朝倉義景に仕えたという説もありますが、朝倉の本拠地・一乗谷は遠いので、近所に邸宅があった朝倉家家臣の黒坂備中守に仕えていた可能性も指摘されています。

足利義昭を迎えた一乗谷の朝倉館跡
足利義昭を迎えた一乗谷の朝倉館跡


■織田信長との出会い

 1565年、室町幕府13代将軍・足利義輝が三好三人衆に殺されると、後に15代将軍となる足利義昭は福井に逃げ、朝倉家を頼ります。このとき朝倉義景に仕えていた光秀が接待にあたり、その後、義昭のため、将軍家再興に協力してくれそうな信長との交渉役を担ったと言われます。

 前述の『遊行三十一祖京畿御修行記』は、光秀のことを「土岐家の牢人」と書いていますが、土岐家は清和天皇を祖とする清和源氏の名門です。妻・熙子の実家・妻木家も清和源氏につながり、将軍足利家も清和源氏です(ついでに新田義貞も清和源氏)。

 こうして、光秀夫婦は室町幕府再興を目指すわけですが、朝倉義景はいつまでたっても足利義昭の上洛のために動くことはなく、1968年、義昭は織田信長を頼って岐阜に移ってしまいます。同時に、光秀も信長の家臣になった可能性は高いでしょう。

■穴太衆を配下においた築城の名手

 織田信長の家臣となった明智光秀は、信長の指揮下、朝倉家と戦うことになります。敦賀の金ケ崎城(敦賀市)を落とした信長は、朝倉家の本拠・一乗谷を目指しますが、ここで同盟関係にあった浅井長政の裏切りにあいます。ここから信長の撤退戦「金ヶ崎の退き口」(1570年)が始まるのですが、このとき、光秀は豊臣秀吉らと軍の最後尾で敵の追撃を阻止し、信長から高い評価を受けます。

 そして、1571年、比叡山・延暦寺の焼き討ち。この実績を買われ、家臣のなかでいち早く琵琶湖西岸に坂本城を築くことを許されます。

比叡山根本中堂
比叡山根本中堂



 坂本は、比叡山の入口にあたり、琵琶湖や北国街道に面していることから物流の中心地でした。ここを任されたということは、光秀がきわめて高い評価を受けていた証です。

 坂本城は、石垣しか残っていませんが、城跡から赤く塗られた瓦が多数出土していることから、赤い城だったと考えられています。琵琶湖の青、比叡山の緑、そして赤い城。それはひときわ目立っていたはずで、実際、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスは、坂本城について《豪壮華麗で、安土城に次いで、これほど有名なものはない》と書いています。つまり、1579年に安土城が完成するまで、日本でいちばん有名な城だったのです。

 宣教師は、明智光秀について「残酷」「裏切りを好む」「人を欺く72の方法を会得」など悪口ばかり書いていますが、城に関しては《築城に造詣が深く、建築手腕に優れている》と評価しています。貢献したのが、石垣の技術集団「穴太衆(あのうしゅう)」です。地元・坂本の出身で、もともとは古墳を築造していた石工の末裔だとされます。光秀は、こうした技術集団を抱え、名築城家として名を残すことになりました。

穴太衆の本拠地・坂本
穴太衆の本拠地・坂本



■琵琶湖の “制海権” をおさえる

 当時の坂本は、全国各地から京都向けの物資が集まる巨大な商業都市でした。坂本城そのものが港の機能を持っており、城から直接琵琶湖へ船を出せ る構造になっていました。光秀は「御座船」をもっており、その巨大船で琵琶湖を自由に航海しました。
 
 1578年、光秀は、織田信長から茶の湯を開催する許可を得ます。これは松永久秀を滅亡に追い込んだ軍功によるものですが、このとき光秀が招いたのが、堺の豪商で茶人の津田宗及です。坂本城の後、安土城に向かった津田は《御座船に城の内より乗って、安土へむかった》と記しています(『宗及茶湯日記他会記』)。

琵琶湖の制海権
琵琶湖空撮



 信長は、琵琶湖の “制海権” を4つの城で抑えていました。それが安土城(信長)、坂本城(光秀)、大溝城(信長の甥・津田信澄)、長浜城(羽柴秀吉)です。実際、光秀は強力な海軍を持っており、『信長公記』では、浅井長政の小谷城攻めに際し(1572年)、「囲船」(弾除け・矢除けの防御構造を持った船)で敵地を焼き払い、大筒・鉄砲で攻撃したと記録されています。この海軍は、先に触れた田中城攻めでも使われました。

■治水のプロと善政

 丹波攻めに入った光秀は、1579年、中世の横山城を改修し「福智山城」と命名します。現在の福知山です。
 福知山は、長らく由良川の水害に悩まされてきました。そこで、光秀は由良川を北に付け替えて堤防を整備し、城下町を開きました。光秀の築いた堤防は現在でも「明智藪(蛇ケ端御藪)」として残されています。
 また、地子銭(土地税)を免除するなど、善政を敷いたと伝えられます。

福知山全景
福知山全景(光秀が陥落させた鬼ヶ城より)



 この地で光秀は、明智軍の規律などを記した18条の「家中軍法」を発出しました。前半7カ条は「戦場で大声を出さない」「部隊はまとまって行動 する」など戦いのルールが定められています。後半の11条は、「100石について6人の兵を出せ」といった軍役負担が書かれています。

光秀が雀部通明に打たせた槍はよく貫通するとして有名だった(福知山市郷土資料館)
光秀が雀部通明に打たせた槍はよく貫通するとして有名(福知山市郷土資料館)


 
 ちなみに第7条は《陣夫、荷物軽量「京都法度の器物」3斗、ただし遼遠の夫役においては2斗5升、その糧1人について1日に8合ずつ領主が下す》とあります。ここには3つのことが書いてあります。

(1)陣夫(徴発した百姓)は1人3斗を運ぶが、遠方から来た人間は2.5斗でよい
(2)計量は、信長が公式の器として決めた京枡でおこなう
(3)報酬は1日8合を領主が支給する

(2)は単位の共通化、(3)は雇い主の明確化です。(1)は夫役についての軽減条件で、こうしたことが光秀の善政説を裏付けているのです。

 この「家中軍法」は、最後に「水に沈む瓦礫のように落ちぶれた私を召し抱え、軍勢を預けてくれた」と、織田信長への恩義が記されています。日付は1581年(天正9年)6月2日ですが、ちょうどこの1年後の天正10年6月2日、本能寺の変が起きるのです。

■三日天下

信長が森蘭丸に命じて光秀の頭を打たせる場面(『絵本太閤記』)
信長(右)が森蘭丸(中央)に命じて光秀の頭を打たせる場面(『絵本太閤記』)



 本能寺の変の原因はさまざま言われています。『惟任退治記』が怨恨説の元祖ですが、ルイス・フロイスもまた『日本史』で、家康の接待をめぐり、光秀が信長に反論したところ、足蹴にされたとあり、怒りが募っていたことがわかります。ほかにも、

・信長に代わって天下を取ろうとした(野望説)
・信長が正親町天皇に譲位を迫り、天皇が脅威を感じて光秀を差し向けた(朝廷黒幕説)
・敵対する足利義昭が邪魔な信長を殺させた(足利義昭黒幕説)
・イエズス会が邪魔な信長を殺させた(イエズス会黒幕説)
・信長は長宗我部元親とよい関係性を築いていたが、四国統一をめぐり徐々に関係悪化したことで、間に入っていた光秀も立場が悪くなった(四国説)
・信長が計画していた中国出兵を防ぎたかった(『本能寺の変 431年目の真実』)

 珍説で言えば、「ハゲ」と言われて恨んでいた怨恨説などもあります(『稲葉家譜』)。いずれにせよ、信長を倒すと、光秀はそのまま安土城に入城します。ルイス・フロイスによれば、《光秀はただちに信長の居城と館を占拠し、天守に登ると財宝が入っていた蔵と広間を開放し、気前よく金銀を分配した》という状況です。

 朝廷は、即座に光秀の勝利を祝い、安土城へ吉田神社の神官である吉田兼見を勅使として送りました。兼見は光秀の友人で、このとき「京都をまかせる」とも伝えています。その後、光秀は吉田兼見宅を訪れ、朝廷に銀500枚を献上するなど、金をばらまきました。さらに京都でも地子銭を免除しています。

伊勢神宮さえも支配下に置こうとした吉田神社の「大元宮」
伊勢神宮さえも支配下に置こうとした吉田神社の「大元宮」



 信長が殺されたことを知ると、中国地方の毛利輝元と戦っていた羽柴秀吉は、すぐさま和睦して京都に戻ってきます。これがいわゆる「中国大返し」です。

 光秀にとって誤算だったのは、親戚でもある細川幽斎・忠興父子の離反です。幽斎とは越前時代から親交があり、息子の忠興には娘のガラシャを嫁がせてもいました。また、面倒を見てきた筒井順慶も離反。さらに高山右近、中川清秀、池田恒興らも離れていき、ついに「天王山」山崎の合戦で敗北しました。

 光秀は勝竜寺城に逃れ、そこから坂本を目指しますが、真っ暗な藪の中で襲撃されて殺されます。本能寺の変からわずか12日めのことでした。

■光秀の最期

 光秀の最期は、さまざまな史料に記載されています。

 たとえばルイス・フロイスは《明智は隠れ歩きながら、農民たちに「金の棒をたくさん与えるから自分を坂本城に連れていくように」頼んだということである。だが農民たちは金の棒も刀剣も欲しくなり、刺し殺して首をはねた》としています。

『多聞院日記』では《山科にて一揆にたたき殺されおわんぬ》、『信長公記』を書いた太田牛一の『太閤さま軍記のうち』では《醍醐・山科あたりの百姓ども、棒打ちに討ちとめ候》と撲殺だとしています。

 ここでは、同じく太田牛一の『太田牛一旧記(別本御代々軍記)』説を紹介しましょう。以下、現代語訳です。

《下は平らな田んぼ、上に細い道、さらにその上に小籔がある小栗栖(おごろす)という小さな里があり、落人がたくさん通ると聞いた百姓が、風雨吹き荒れる真っ暗闇のなかで、小藪を通った10騎ばかりの一団に錆びまくったヤリで一突きしたところ、運悪く、光秀の腰骨のあたりを突いた。光秀は2、3町進んだところで、こらえ切れずに「馬から降ろしてくれ」と頼んだ。「どうしたのか」と聞くと「傷を負った」と答え、「毛氈でできた馬の鞍覆いで自分の首を包み、知恩院に葬ってくれ」と申した》

光秀が刺されたと伝えられる場所(小栗栖の明智藪)
光秀が刺されたと伝えられる場所(小栗栖の明智藪)



 小栗栖には、いまも光秀が刺された場所が伝えられています。

 ただし、碑銘には「小栗栖館の武士集団、飯田一党の襲撃」と彫られています。地元の伝説では、飯田左吉兵衛が信長に仕えており、本能寺の変で「追腹」を切ったことから、その恨みを晴らすべく百姓を扇動したとされているのです。この説が正しければ、光秀は「たまたま」ではなく「明確な殺意」で狙われたことになります。

 光秀は、江戸時代の史料の影響で「裏切り者」「逆臣」のイメージが強くなりましたが、あくまでこれは江戸時代の軍記物の影響です。福知山では、善政のおかげで長らく慕われてきました。没後120年ほどたった1705年、光秀を祀った御霊神社が創建され、いまではパワースポットとして親し まれているのです。

明智の家紋「桔梗紋」が入った御霊神社(福知山)
明智の家紋「桔梗紋」が入った御霊神社(福知山)


制作:2022年10月31日

<おまけ>

 日本の物流を一手に担った坂本ですが、繁栄は長く続きませんでした。豊臣秀吉が大阪城を築城しはじめると(1583年〜)、経済の中心地は大阪になり、日本海から琵琶湖に入っていた物資は、北前船で直接大阪に運ばれるようになったからです。東国からの物資も、琵琶湖の南を通る東海道が主要ルートになり、坂本は流通の中心ではなくなりました。
 
 山崎の戦いの後、光秀の重臣・明智秀満が坂本城に入りますが、秀吉に攻められ、城に火をつけて自害。その後、城は再建されますが、1586年、浅野長政が大津城を築城したことで廃城になりました。石垣などは大津城に流用されたため、遺構はほとんど残っていません。

明智光秀の墓所(高野山)
明智光秀の墓所(高野山)
 
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