「皇族」の誕生
あるいはプリンスホテルのはじまり
旧竹田宮邸
(現在の高輪プリンスホテル貴賓館)
《新高輪プリンスホテルは16階建てだが、部屋数がホテルニューオータニや京王プラザなどと並ぶ規模で、敷地の広さを主張する数字になっている。その広い敷地の一角に、やはり、古い洋館が建っている。
さらに、隣接した敷地に昭和46年に建てられた高輪プリンスホテル(418室)があるが、そこにも2階建ての洋館が附属している》(猪瀬直樹『ミカドの肖像』)
高輪プリンスホテルに附属する洋館は、その昔、竹田宮という宮家の邸宅でした。新高輪プリンスホテルの洋館は、同じく北白川宮の邸宅でした。
竹田宮にしても北白川宮にしても、今の日本人はほとんど聞いたこともないはずです。しかし、戦前は確たる地位を占めていた「皇族」です。
いったいその皇族たちは、どこから来てどこへ行ってしまったのか? 今回、本サイトでは、この「皇族」について大研究します!
そもそも宮家(皇族)とは何か? わかりやすく言えば、天皇家が断絶の危機にあるとき、代わりに次の天皇を即位させる「家」のこと。代打というか、予備というか。実は鎌倉時代以来の伝統があるんですが、本格的に成立したのは室町時代です。
一番最初の宮家とされるのが、亀山天皇の皇子(恒明親王)を始祖とする常磐井(ときわい)宮です。これは室町中期まで6代にわたって存続しましたが、ここで断絶。続いて後二条天皇の皇子(邦良親王)を始祖とする木寺宮が作られましたが、こちらも室町中期に断絶しました。
1390年代の終わりに創設されたのが、崇光天皇の第1皇子・栄仁親王(よしひとしんのう)が始祖となった伏見宮です。この伏見宮は、その後550年間続き、ほとんどの皇族はこの系統から誕生しています。まさに宮家の中の宮家というわけ。
この後、
●1589年(天正17年)、豊臣秀吉の奏請によって桂宮(明治14年廃絶)
●1625年(寛永2年)、有栖川宮(大正12年廃絶)
●1710年(宝永7年)、新井白石の進言で閑院宮
が創設されました。伏見宮、桂宮、有栖川宮、閑院宮の4つを4親王家と呼んでいます。1864年には、山階宮が創設され、明治維新はこの5宮で迎えました。
永田町の閑院宮邸
飯田橋(富士見)の山階宮邸
明治に入ると、皇族の諸制度は一新します。
天皇家と皇族の地位は明治22年(1889年)の「皇室典範」で決められているのですが、実は同じ年の「大日本帝国憲法」冒頭に「告文」というものがあって、そこにこんなことが書いてあるんです。
《神の宝祚(ほうそ)を継承する朕(明治天皇)が、皇室典範と憲法を制定する》
つまり、皇室典範は憲法と同等(というよりはるかに上)な法規なわけで、下々の法律から超越しているのです。下々には関係ないから、公布もされませんでした。ちなみに妾も免税も認められていて、絶対権力のすばらしさがわかるというものです。
さて、ここで次の資料を見てください。明治24年の宮内省の内部資料(原本)で、皇族に下賜した土地の記録簿です。
皇族賜邸地調(明治24年12月)
つまり、皇族のシステムが完成した2年後には、全部で8の宮家があったことがわかります。
以下、一覧にしてみると、
●有栖川宮 13514坪
麹町区霞ヶ関1-2(現在は国会前庭の南地区)
明治29年、麻布区盛岡町へ(現在は有栖川宮記念公園)
●小松宮 5267坪
神田区駿河台袋町、南甲賀町(現在は明治大学)
明治28年、赤坂区溜池葵町の12000坪を下賜(現在はホテルオークラ)
●山階宮 3894坪
麹町区富士見町5(現在は東京逓信病院?)
●久邇宮 3000坪
京都下立売御門内(現在は京都御所)
明治32年?、麻布区東鳥居坂町の924坪を下賜(現在は聖心女子大学)
●伏見宮 18032坪
麹町区紀尾井町2(現在はホテルニューオータニ)
後、豊多摩郡中野町を下賜(現在は中野区中央1の小淀公園)
●閑院宮 5243坪
麹町区永田町(現在は衆議院議長公邸)
●華頂宮 5377坪
芝区三田台町1-5(現在は三田亀塚公園)
●梨本宮
麻布区市兵衛町2-13(現在は六本木3丁目の民有地)
後、元青山北町14000坪を下賜(現在は渋谷1丁目の児童会館近辺)
このように、現在では、ホテルや公園、大学などに変わっていることがわかります。
明治以降、皇室の繁栄のために多くの新宮家が創設されました。明治末に存在した宮家は、上の8家に北白川宮、東伏見宮、竹田宮、賀陽(かや)宮、朝香宮、東久邇宮を合わせた14宮家です。
大正時代に入るとさらに宮家ができましたが、その後いくつかが断絶、結局、1945年の敗戦を迎えたのは、全14宮家。GHQはこの14のうち、秩父宮、高松宮、三笠宮のみ残して、すべて廃絶してしまいました。その秩父宮も1995年に断絶、現在は、高松宮、三笠宮、秋篠宮、常陸宮、高円宮、桂宮の6家のみ存在しています。
さて、面白いのはここから。GHQによって皇室離脱した宮家は、つまり民間人になってしまったわけで、戦後、いきなりの貧乏生活に困窮してしまいます。やむなく、土地を売り払うのですが、それを買い占めたのが、堤康次郎。衆院院議長であり、西武グループの創始者でもあります。
では、どれほど買い占めたのか。上の表以外の皇族の土地を見てみましょう。
まずは品川駅前の東久邇宮邸跡地ですが、これは現在、京浜急行系のパシフィックホテルになっています。六本木1丁目の旧宅跡地は国有地を経て民間所有です。
また賀陽宮邸跡地は千代田区・千鳥ヶ淵の戦没者墓地になっています。
麻布御殿と呼ばれた東久邇宮邸の庭園
(市兵衛町、現在の六本木)
そして、なんと、これ以外のすべてを、西武は買い占めているのです。
●北白川宮邸跡
→新高輪プリンスホテル、邸宅は「高輪プリンス会館」(現在は取り壊し)
●東伏見宮邸跡
→本邸は東宮仮御所、別邸は横浜プリンスホテル貴賓館
●竹田宮邸跡
→高輪プリンスホテル貴賓館
●朝香宮邸跡
→西武の買収後、反対運動で東京都庭園美術館に。軽井沢の別荘は千ヶ滝プリンスホテル
●李王家邸跡
→大正13年、旧北白川宮邸を下賜→赤坂プリンスホテル旧館
北白川宮邸
旧李王家邸(背後は赤プリの新館)
恐るべし西武の政治力。
ちなみに前述の『ミカドの肖像』で、堤義明はこんな発言をしています。
《新しく土地を手当てしたところでは、(客室)7割稼働を維持しなくてはなりません。しかし、すでに土地を用意しておいたところにつくる場合は、(5割稼働でも)やっていけます。ホテルというものは、新しく土地を買って始めるというものではないんです。すでにある土地をどう利用するのか、と考えてホテルをつくったわけです》
まさにプリンスホテル王国の誕生でした。
●軍部の土地について
制作:2004年11月13日
<おまけ>
西武グループは、国内に4000万〜4500万坪という広大な土地を所有しています。バブル期にはこの土地の評価額は12兆円とも言われましたが、今では1兆円を割り込んでいるとされます。
土地を担保に借りた資金をさらに土地購入に充てる「バブルマジック」は、あっさりと破綻してしまいました。2004年10月25日、コクドは箱根仙石原プリンスホテルを約30億円で日産自動車に売却しています。ホテルを売却するのは初めてのことで、まさに西武グループの解体が始まった瞬間です。
<おまけ2>
テレビ東京系『ガイアの夜明け』(2005年3月8日オンエア)および『ザ・真相4』(2005年6月20日オンエア)に、本サイトが資料提供しました。なんでも旧皇族邸の写真は、現在、どこにも残ってないんだそうです。
その証拠はこちら↓
「探検コム」のエンドロールを見よ!