「鉛」の文化史
おしろいと銃弾と江戸切子
契島
1838年、釜石付近を出港した船が漂流し、アメリカの捕鯨船に救助されました。乗組員はハワイ、カムチャツカ、アラスカを経て択捉島に帰着します。その5年間にわたる経緯が、乗組員だった次郎吉の口述によって『蕃談』として記録されています。
次郎吉らを乗せた船が択捉島に近づくと、日本からの攻撃に備え、銃や大砲の試射が始まります。
《試射の時は1貫500匁余の鉄の弾丸に火薬1升ほどを詰めて発射し、その威力を調べたが、次郎吉もロシア人といっしょにマストの上にのぼって、その見物をした。弾丸は海面に水平に飛び、荒波がわきあがるとそのなかを突き抜け、見え隠れしながら進むので、次郎吉もはじめは弾丸のゆくえを見送っていたが、しまいには見失ってしまった。
しかしロシア人はちゃんと着弾を見とどけたようで、2ロシア里(約2キロメートル)のところまで達したということだったが、これでも力が弱くて役に立たないといって、ふたたび鉛の弾丸を試射した。これは5ロシア里も飛んだそうである。鉛は鉄より重いので、はげしい勢で遠くまで飛ぶ。そのため平生は鉄の弾丸を使うが戦闘の際は鉛の弾丸の方がいいという話だった》(『蕃談』)
これが、もしかしたら日本人が初めて見た鉛の銃弾です。
かつて、銃器の弾は鉄でできていました。しかし、ある時期から鉛が使われるようになりました。今回は、そんな鉛の物語です。
銃弾(陸自幹部候補生学校・雄健資料館)
山を歩き、地中に埋まっている鉱物資源を見つけ出す「山師」には、一子相伝として、こんな秘密が伝わっています。
《山に埋もれている金属は、それぞれ「精気」を出す。
金の精気は華のよう、銀は龍のよう、銅は紅のよう、鉛は煙のよう、錫は霧のよう。
金・銀・銅の精気は20丈(60m)の高さにのぼり、鉛の精気は風に従い、錫の精気は風に逆らう》
これは、江戸時代に佐藤元伯が記した鉱山書『山相秘録』に書かれています。
同書によれば、
・金銀銅が出る鉱山では、同時に鉛も出る。
・方鉛鉱(鉱石)は硬軟2種類あり、深黒色は品質が高いが、黒いものは硬くてなかなか熔かせない
・鉛の精錬方法は銅と一緒である……などとされています。
自然鉛(秋田大学鉱業博物館)
鉛は水鉢、屋根瓦、秤(はかり)の重りなどに使われますが、かつてはそれほど重用されませんでした。数多くの鉱山があった秋田藩では、かつて銅や鉛が大量に取れました。ある年、鉛330万斤(2000トンあまり)を大阪に運びますが、大阪では誰も欲しがらず、在庫の山になったと記録されています。
大阪では不要だった鉛ですが、鉱山では必須の鉱石でした。金や銀の精錬の際、いったん鉱石から鉛に溶け込ませ、そこから抽出する灰吹法に使われるからです。金銀の生産が増えるに従って、鉛も重視されていきます。
灰吹銀(生野銀山)
実は、鉛が最も有効に使われたのが、絵画や化粧の世界です。一酸化鉛は「密陀」などと呼ばれ、その際立つ白さが特徴的だったからです。こうして、鉛は顔料や白粉(おしろい)、さらに江戸切子、クリスタル・ガラスの製造にも使われることになります。
ガラスの場合、鉛の含有量が増えるほど、透明度や屈折率が高くなるとされています。
クリスタルガラス製シャンデリア(迎賓館)
白粉について、もう少し詳しく書いておきます。
白粉は「鉛白」といわれるもので、化学的には塩基性炭酸鉛のことです。紀元前から存在していましたが、日本には奈良時代に、水銀白粉(伊勢白粉)とともに中国から伝来しました。
鉛白の製造は簡単で、酢酸の蒸気と二酸化炭素を鉛に当てると、鉛の表面が真っ白になり、それをかき取れば完成します。『日本書紀』には、僧・観成が初めて製造し、持統天皇に献上したと記録されています。持統天皇は観成に絹織物や綿、布などを与え、その美しさを讃えました。
平安時代には貴族の間で「蹴鞠(けまり)」が流行します。鞠は鹿の皮で作られますが、これもかつては鉛白で真っ白に塗られていました。
顔にあざのある女と化粧箱(国会図書館『病草紙』)
日本には、水銀白粉と鉛白粉の2種類ありました。水銀白粉は透明感があり、鉛白粉は際立つ白さと化粧乗りの良さが特徴的だったとされます。江戸時代には、水銀白粉は額に塗り、それ以外は鉛白粉が塗られました。両方とも口に入らなければ無害ですが、宮中では乳母が上半身にも白粉を塗ったため、赤ん坊が鉛中毒になることも多かったようです。
1887年(明治20年)4月、井上馨邸で行われた天覧歌舞伎で、義経役を演じた女形・中村福助の足が激しく震える事件が起きました。鉛中毒です。歌舞伎役者は大量の白粉を使用するうえ、楽屋の風呂で洗い落とす際、大量の蒸気を吸いこむことから、重度の鉛中毒になったと見られます。
天覧歌舞伎
この事件が大きく報道され、無鉛白粉の開発が始まります。
研究を委託されたのが、茂木春太・重次郎兄弟です。弟の重次郎は苦労を重ね、純度の高い「亜鉛華(酸化亜鉛)」の開発に成功します。これが国から免許を与えられ、会社経営が始まります。
2人は、亜鉛華の需要を増やすため、輸入品しかなかった塗料に目をつけます。当時、軍艦のさび止めなどで高品質の国産塗料を望んでいた海軍がこれを支援し、日本で最初の洋式塗料(ペンキ)メーカー「光明社」が設立されました。これが現在の日本ペイントです。
鉛由来の赤い塗料「光明丹(鉛丹)」製造炉
冒頭で触れたように、鉛といえば銃弾ですが、現在、「銃弾」は旭精機工業や日本工機、「砲弾」はダイキン工業が製造しています。
特にピストルや小銃用など、小口径の銃弾を独占的に製造しているのが旭精機です。1953年、大隈鉄工所(現オークマ)系のメーカーとして誕生、1961年、東洋精機(現ツガミ)から営業権を取得したことで、独占的な立場となりました。
弾頭と薬莢(航空自衛隊・美保基地資料館)
銃弾はどのように作るのか。
鉛だけで作った銃弾は「ソフトポイント」と呼ばれ、その柔らかさのため、命中すると弾が変形し、致命的なダメージを与えます。しかし、貫通力が低いため、通常は被甲と呼ばれる特殊な銅(銅70%、亜鉛30%などの合金)で弾頭を覆います。
よって、雷管(着火機構)をはめた薬莢(火薬入れ)の先に、被甲で覆われた鉛の弾丸を取り付けると銃弾になります。被甲製造には黄銅が必要で、このプレス工程はひたすら電気炉で焼きなましが必要となるので、工場内は非常に熱いと言われます。
では、現代の日本では、鉛はどのように製造されているのか。
原材料はオーストラリアや南米からの輸入ですが、年産約9万トン(日本の鉛生産の4割)を誇る国内最大の鉛製錬所が、広島県竹原市の沖合約4キロに浮かぶ契島(ちぎりしま)製錬所です。
契島(上の写真とは反対側)
南北約600メートル、東西約200メートルほどの小さな島ですが、ここは全体が東邦亜鉛の私有地のため、部外者は入れません。
契島では1899年(明治32年)に銅製錬が始まり、1950年、東邦亜鉛が買収。翌年から鉛の製錬が始まり、現在は銀の製錬も行われています。
鉛は、原料を焼結機で700度強で焼いて酸化させ、硫黄分を取り除き、コークスと一緒に溶鉱炉で溶かし、銅や不純物を除去することで、粗鉛となります。板状にした粗鉛を酸などが入った水槽に沈めて、1週間かけて電気分解すれば出来上がり。
焼結機から出た物質から硫酸が製造できるため、契島には硫酸工場も設置されています。
鉛から金銀を分離するパークス法(1928年頃)
鉛の主用途は蓄電池の電極板で、自動車用がほとんどです。2019年、電気自動車に使われるリチウムイオン電池がノーベル賞を受賞しましたが、現在でも自動車バッテリーは鉛蓄電池が主流です。鉛の毒性は大きな問題ですが、安さと安定性から、今後も他の素材に代替される可能性は低いと見られています。
鉛蓄電池には硫酸が使用されることから、契島は効率よく素材を生産していることがわかります。生産需要の伸びが見込まれることから、東邦亜鉛はオーストラリア・アブラ鉛鉱山の権益40%を取得。2021年の生産開始を見込んでいます。
契島にそびえる脱硫塔
制作:2019年10月11日
<おまけ>
かつて、山師が鉱山を見つける際、参考にしたのが、金属を蓄積するコケやシダです。たとえばヘビノネゴザは鉛を、ホンモンジゴケは銅を蓄積することから、鉱山発見の指標となりました。
シダ植物の一種モエジマシダはヒ素を蓄積することが知られており、環境浄化など、さまざまな産業への応用が検討されています。
ヘビノネゴザ