名古屋城、幻の脱出ルート
忍者から怪力男まで「御土居下」の人々

名古屋城
名古屋城


 江戸時代、名古屋城のそばに住んでいた同心(下級役人)・安藤太衛門は、弓術の名手として知られていました。そして、その妻・みつは、居座機(いざりばた)の達人と言われていました。しかし、ある日突然、みつの右腕がまったく動かなくなってしまいます。易者の話によれば、それは黒猫の祟りだというのです。以前、安藤家の鶏小屋に侵入した黒猫を、太衛門が弓矢で撃ち殺したことがありました。

 太衛門は困って、近くに住む高僧・豪潮に加持祈祷を依頼すると、見事、みつの腕が動くようになったのです。こうして、太衛門は、豪潮に深く帰依するようになりました。

 天台宗の高僧である豪潮は、1817年(文化14年)、尾張藩主・徳川斉朝の病気を治すため名古屋に招かれました。治療がうまくいき、藩主の信頼を得ると、名古屋城の鬼門(北東)の場所に長栄寺を再興します。長栄寺は藩主の祈祷場なので、出入りは厳しく制限されていました。しかし、太衛門は地位が低いのに、なぜか優遇され自由に出入りできました。

長栄寺
長栄寺


 これはいったいどういうことなのか。
 太衛門は「御土居下(おどいした)」に住んでいました。ここはかなり広い土地ですが、わずか16の家(最盛期は18戸)しかありません。いずれも大きな家だったと言われています。ここに住む同心たちには、特別な任務が与えられていました。それは、名古屋城に危機が迫ったとき、藩主を逃がすという密命です。

 1600年、関ヶ原の戦いに勝った徳川家康は、名古屋城の建造に乗り出します。
 当時、豊臣勢は大坂城におり、いつ逆襲されるかわからない状況です。再び戦いが始まれば、名古屋城は西国への前線基地になることから、築城には巨額の予算と労力がかけられました。こうして、1609年、名古屋が完成します。

 三の丸を囲む濠は、飛弾国・高山城主の指揮下で建造されましたが、このとき、「安土」と呼ばれる丘陵地を削って、その土で崖下の沼沢地を埋めたのが「御土居下」となりました。土居とは土の石垣のことです。

名古屋城安土
安土(左手は公務員住宅)


 家康は、名古屋城が落城したときの脱出ルートを用意していました。
 本丸の裏手の埋御門(うずみごもん)から階段で二の丸に降り、船で濠を渡り、御深井(おふけ)の庭(現在の名城公園)に出ます。庭の東にある高麗門を通って、鶉口(うずらぐち)へ。ここで御土居下同心の助けを借りて、清水、片山蔵王北、大曽根に至り、勝川→沓掛→木曽路を経て、瀬戸定光寺を目指すのです。定光寺には、尾張徳川家初代・徳川義直の廟所があります。

名古屋城鶉口
鶉口があった場所


 鶉口は「非常口」という意味なので、これを誤魔化すために「御土居下」と呼ぶようになりました。この土地に常駐して警護の役についたのが、「三之丸・御土居下御側組(おそばぐみ)同心」となります。

 御土居下は沼地を埋め立てた場所なので、霧やモヤが立ち込めることがありました。すると、わずかに背の高い松が見えるだけで、城からもまったく見えなくなったと言われています。まさに自然の要害です。

 ここに住む同心は、身分は低いのですが、密命を帯びているため、特別扱いを受けていました。
 屋敷は広大で、平時の仕事はゼロ。時間があるため、文武両道のための研鑽を重ねました。こうして、この場所には特殊技能を持つ人々が住むことになりました。

 御土居下に関しては、ここに住んでいた岡本家の末裔・岡本柳英が残した『名古屋城三之丸・御土居下考説』『名古屋城秘境 御土居下の人々』が基本資料です。以下、この2冊から同心たちの生活を紹介します。

 まず岡本家は、田付流鉄砲の名手として知られ、城中で鉄砲術を指南し、士分同格の扱いを受けていました。また、絵や箏曲なども達者で、岡本柳南は南画で知られています。

「御土居下同心」の屋敷跡
「御土居下同心」の屋敷跡


『名古屋城三之丸・御土居下考説』によると、御土居下にはこんな人たちが住んでいました。

○久道家は2代にわたって御乳人に選ばれた家柄
○諏訪家は、軍学兵法の専門家。城中では奥向き(正室や側室の住む場所)の者に、漢籍の講義をした
○市野家は、学者・詩人として、御小納戸詰役懸り役(将軍の身の回りの雑務担当)などに任用された
○牧野家は書家として有名
○中川家は画家として有名
○馬場家は馬術で有名。藩主の信任が厚く調馬を許された
○森島家は、水泳の名人を出している。藩主の直命により、たびたび潜水して濠を秘密調査した
○大海家には怪力の者がいて、藩主の直命により同家に脱出用の「忍籠」を常備させた。柔術の達人でもあった
○山本家は剣術の達人がいて、御前試合では負けなしといわれた

広田増右衛門直筆の忍者文書
広田増右衛門直筆の忍者文書(『名古屋城秘境 御土居下の人々』より)


 そして、いわゆる忍者も住んでいました。それが広田家で、尾張藩には数少ない忍術の心得を持った家でした。有名なのが、広田増右衛門です。古川宗兵衛の伊賀流忍術を父から教わったとされます。増右衛門の体は細く柔らかで、きわめて運動神経がよかったとされます。手足の関節を自ら外して自らはめることができ、頭と肩さえ入れば、狭い隙間を抜けることができました。

 また、1本の綱さえあればどんな高いところへも登れました。足の裏に特殊な鉄帯を付けて、綱の先に錨(イカリ)状の鈎を結び付け、これを投げて物にからませて登りました。綱の先に体を縛り、木から木へ飛び渡ることもできました。

 加藤清正が作った名古屋城の石垣は、上部に進むにつれて外に曲っているとされ、登攀は非常に難しいのです。しかし、増右衛門は鉄の爪を備えた特殊帯を石垣の隙間にひっかけて登りました。手足を離しても、体は蜘蛛のように石垣に張りついています。増右衛門は、許しさえ出れば、足場を作らなくても城の屋根にある金のシャチホコまで登ってみせると豪語したといいます。

名古屋城外堀と石垣
外堀(脱出ルートに当たる清水橋)


 さらに潜水も得意で、庄内川で潜水の実演を披露しています。潜ったまま、いつまでたっても姿を見せないので、見物人が心配していると、はるか川上から裸で歩いてくるため、一同は驚愕します。もちろんこれは、中空の竹をストローのようにして呼吸したのですが、当時の人には信じられない出来事でした。

 広田家は後に断絶しますが、まさに後世の忍者のイメージどおりの技術を持っていたことがわかります。

 御土居下同心屋敷が完成したのは1757年ですが、これは8代藩主・徳川宗勝の時代です。長栄寺の南には宗勝の6男・松平藤馬の豪壮な屋敷があり、柳原御殿と呼ばれていました。その後、御殿は消滅し、周囲に武家屋敷が並び始めます。ここに住んだのは柳原御側組ですが、御土居下御側組の整備から62年後の話です。脱出ルートは、50年100年の単位で維持されていたことがわかります。

 城に危急の事態が起きれば、藩主は柳原(現在の柳原通商店街)を通って脱出します。柳原の先の清水には、八王子社(現在の八王子神社・春日神社)があります。もともと三の丸にあった神社ですが、1610年、名古屋城の鬼門(北東)を守るために遷座しました。江戸時代は、池に舟形の屋台を飾る壮麗な祭りで知られていました。

 この神社は、脇に上街道(木曽街道)が通っており、おそらくここで態勢を整えて、街道を抜けたはずです。

名古屋八王子神社春日神社
八王子神社・春日神社
(右手の道路が城に通じる道、左手が上街道)


 1925年に刊行された『名古屋案内』によれば、昔、八王子社の神殿の扉は開け放たれていて、子供たちは毎日、御神体を池に投げたり埋めたりして遊んでいました。ある日、地元の人間がこれを禁じると、村中の者が病気になって、「毎日、子供たちと遊んでいたのにどうして止めたのか」と口走るようになりました。これは祟りだと、元どおり神殿を開放すると、病は治まったと伝えられています。
 
 当たり前ですが、藩主の脱出ルートは最高の軍事機密です。仮に敵がスパイを送り込んできても、よもや子供たちが遊んでいる神社が脱出ルートだとは思わないでしょう。名古屋城の秘密は、こうして明治時代まで守り抜かれたのです。

御土居
御土居(土の石垣)


制作:2020年4月23日


<おまけ>

 明治になって、大海家は脱出用の「忍籠」を返還しますが、いったいなぜ同心がこんな物を持っているのか、誰もわからなかったと記録されています。長年、秘密が守られてきた証拠です。

 その後、御深井御庭の蓮池は埋め立てられ、周囲は陸軍の練兵場になりました。御土居の安土は実弾射撃の訓練場になり、正午を知らせる空砲「ドン」の発射場にもなりました。日清、日露戦争を経て、まもなく御土居下の人々に強制退去が命じられました。退去が完成したのは、1907年(明治40年)のことでした。

御土居下考説
立ち退き直前の岡本家(『名古屋城三之丸・御土居下考説』より)
© 探検コム メール