手紙で見る「明治の元勲たち」
「板垣退助むかつく」から「プレゼントありがと」まで
「料理人」と「牛肉」貸してくんないすか?
大正11年(1922)に大隈重信が死ぬと、早稲田大学の初代図書館長だった市島謙吉は、伝記作成に乗り出します。そのとき、大隈重信の妻が、ほとんどの手紙を大切に保管していることを知りました。
なかには、大久保利通から山県有朋、井上馨、西郷隆盛まで明治の元勲たちの直筆の手紙が数多く残っていました。
貴重な手紙類は、大正15年に『風雲偉観』として公刊されています。
そこで、そのなかからめぼしいものを一挙公開してみます。
ちなみに、残された手紙で最も早い時期は慶応年間のもので、「牛肉はおいしいぞ」と大隈重信が鍋島直正に吹聴したことで、「殿も牛肉を食べたがってるんで、28日に食事会をすることになりました。でもうちじゃ牛肉が手配できないんで、料理人と肉を貸してくださいよ」という側用人からの手紙です(冒頭画像)。
それでは、日本史の教科書に必ず出てくる明治の有名人たちの手紙を一挙公開です。
まずはじめに断っておきますが、明治の手紙は今の日本人にはまったく読めません。
上の画像で、いちばん左は大久保利通が書いた「ロンドン」という文字ですが、これなら読めますね。しかし、次は「紐育府」(ニューヨーク)で、ほとんどわからないと思います。さらに右端は「米国博覧会」で、もはやお手上げ状態だと思います。
大久保利通の手紙
次に、この「ニューヨーク」と「アメリカ博覧会」の2つの単語を組み合わせて、上の画像の赤い部分を読んでみます。
《米国博覧会残品賣(売)捌方今後紐育府邊(辺)に出店》
となって、「アメリカ博覧会で売れ残った物を販売する店をニューヨークに出す」という意味です。
この手紙の面白いところは、その直前の青い部分に
《僕にも此内より腫物ニ而相悩み干今引籠》
とあって、要は「このごろ腫れ物ができて今は引きこもってる」という挨拶文が書かれているところです。大久保利通も腫れ物で悩んでたんですね(笑)。
教科書に出てくる偉人も人間だったというわけです。
木戸孝允の手紙
赤文字が「人情」「文明」「運転」
続いて、木戸孝允の書簡を見てみます。実は、木戸孝允は悪口ばかり言うような男だったらしく、この手紙も板垣退助の悪口を書いてます。右下の「板垣」から始まって、
《板垣之如く書物通ニ、今日之人情も不顧、文明之度も不察、事務運転之機も不悟》
つまり、「板垣は知識に通じているが、人の気持ちを顧みず、文明もわからず、事務の進行も理解しない(嫌な奴)」と言ってるんですな。
板垣退助の手紙
その板垣退助が明治6年(?)に書いた手紙は、
拝啓仕候
愈御清䅣奉慶賀候
陳者兼而不快ニ罷在
強而参朝仕候處
昨日より発熱仕
不得已神名川
御随行難相整
候間左様御承知
之上宜敷奉願候
稽首
八月初六
板垣拝
大隈様 |
とあって、要は「熱が出たので神奈川への随行はできないや」という内容です。
下の井上馨の書翰(明治4年)も同様で、「明日は三条実美に会わなくちゃいけないし、広沢真臣の葬式もあるから1日延期しようぜ」という内容です。
井上馨の手紙
定めて外務より十二日
應接ハ難断由申来
是非断難きと申事
ハ無之次第と奉存候
政府中混雑中
之事ニ候得者一日延
引様とも格別不都合
ハ無之様相考へ申候
實ハ明早朝三浦
と一同三條公罷出
今一層押立置度
主意ニ御座候且亦明
日廣澤葬式も有之
旁以明日ハ延引被仰
付候やう様奉祈候尤
先生之方より外務え
御答被成下候上に而
明早朝に御聞セ可
被成下候何れ明日
延引ニ相成候得者
夕飯後には参堂
之覚悟ニ御座
先御願旁呈寸楮
早々頓首
正月十日
二白夜中ハ別て尊體御
保護為邦奉祈候以上
大隈参議殿 井上少輔
至急 |
続いて明治2年(?)に伊藤博文が書いた書翰。伊藤博文の奥さんは馬車が嫌いだったそうで、大隈重信の家にある「駕籠を貸してちょうだい」という手紙です。理由は「大隈重信から高級印鑑をもらったので挨拶に行きたいから」というものです。「千万ご秘蔵のお品」という表現が素直な喜びを感じさせますね。なお、「鳴謝」というのは厚く礼を述べることです。
伊藤博文の手紙
大隈様 博文
唯今相済依ニ付
御印章完璧
仕候間慥ニ御落手
可被下候千萬
御秘蔵之御品
奉恐入候處今夕
御駕籠拝借被
仰付下候ヘバ鳴
謝可仕候然シ御都合
次第御差支御坐候ヘバ
無御遠慮可破仰
聞候
草匇頓首再拝
十一月十四日 |
なんか、みんな庶民的な内容ばかりなんで、もう少しまともな内容の手紙を公開しておきます。
まずは西郷隆盛。「陸軍省の官位相当表を早く作ってくれないと困る」という内容です。
西郷隆盛の手紙
御安康奉恐賀候
陳ハ先日申上置候陸軍
省相當表之義尚又相細糺
候處兵卒之義判任ニ
被召人被下候様との譯ニ而ハ
決而無之ケ様之表面ニ相
成候義を顕し候事ニ而全
海軍省與同論之譯ニ御坐候付
判任之表面丈ハ御消
除被下候而何卒今日ハ相運
候様御取計被成下度奉
合掌候彼表面御布
置不相成候而ハ陸軍省
之處大キニ差障出来
いたし候間宜敷奉願候
此旨乍略義以書中奉
希候頓首
五月四日
大隈様 西郷拝
拝呈 |
つづいて勝海舟の書簡。
明治12年の勝海舟
(宮内庁蔵、明治天皇御下命「人物写真帖」より)
勝海舟の手紙
「お雇い外国人(?)が来るからカネかかる、軍艦も旧型だからカネかかる」というシビアな手紙です。勝海舟は日本海軍の父といわれますが、実際は資金繰りが大きな仕事だったことがわかります。
教師来着之節
船賃並月俸旅費
凡二万二三千両程之積
此分取調相知れ居
候分
其他
教師館
芝山内並本省中ニも
手當有之候得共充分
とは申難也定而修覆
も為致可申譯此分之入
費五六十両も費可申候
教授受ク者
是は當時兵學寮中
之者相當候見込ながら猶
年少之者可選申出ルは
必然と考候此入費預め
難斗候事
教授之書籍器械等
如何
之品可入費哉難斗此入費
同断
稽古船
是は筑波艦之見込ニ候へ
ども舊制年数物ゆへ
如何可申哉舊富士艦も預メ
修復取掛らせ居候へども如何
可申出哉難斗
先大凡入費多分ニ出可申
ものは前件斗ニ候相考候
外月ニ壹萬圓も別段有
之候ハバ寛急ニ寄遣拂
相立可申将タ兵學寮中
よりも出金可相成候存候事
六月廿七日 勝安芳
大隈参議殿 |
最後に福澤諭吉の書翰。
福沢諭吉の手紙
「正金銀行の資本金が300万円だけど、金融センター作るなら1500万円くらいじゃないと意味ないだろ。なんなら俺が1500万円集めてやるよ。大事なのは今年の配当金を多めにすることだな。目先の利益が少ないとバカが集まらないから。まぁ、今なら正金銀行のブランドでカネは集まるね」という文章です。
昨夜小泉(信吉)ニ面會承候得者正金銀行も先ヅ三百萬を以て営ミ追而資本之不足を訴るニ而徐々ニ増株卜御内決ニも相成候哉之趣小生之所見ハ甚ダ之ニ異なり
唯今之處ニ而ハ横濱神戸其外之開港場ニ於而迚も三百萬銀圓之入用あるべからずれば唯今より営業して當年ニも来年ニも資本不足を訴るの日を期するは甚ダ無覚束然りと雖も一方より考れば日本人民之資金を集メて金権之一大中心を造るハ實ニ止むべからざるの要なり
貿易之バランスを取るにも内国金利之割合を左右するにも金貨紙幣之釣合を付るにも皆唯金権ニ在る而已且今日金ト紙トの差あればこそ銀圓之入用少なきが如くなれ共今後パー之日あるべきハ論を俟たず此日ニ至て三百萬斗り之資本に而ハ迚も目的を達するに足らず少なくも壹千五百萬位にはいたし度其用意ハ正ニ今日ニ在る事卜存候依而愚案に
五月第三期之金を集メて後ニ直ニ増株を募る事蓋シ第三期を集れば今の株主は過半の金を出したる者ニ而恰も質を取りたるが如くニして其苦情を制する事易ければなり
又本年の配當金ハ必ず少なき事ならん目前之利少なきものハ愚俗を誘導するニ難きの患あり故ニ其未ダ配當せざる間ニ早く増株を募り度事なり唯今なれば正金銀行之名望を以て金を集ること易し(以下略。長いので、手紙に合わせた改行はしてません) |
すごいな、福沢諭吉。
ちなみに、この本の解説によると、岩崎家(三菱)が高島炭鉱を買収しようとしたとき、想定より高値になったことで不満を言っていたため、「ケチケチ言ってないでとっとと買え」という手紙もあるそうですよ。
100年前の明治時代も、やっぱり人が社会を動かしていたんですね。
制作:2013年1月12日
<おまけ>
『風雲偉観』に、市島謙吉が手紙を発見したときの様子が書かれているので、一部公開しておきます。
なるほどと思うのは、大隈重信が活躍したのは電話が普及する以前だったので、これだけ手紙が残ったとする点ですね。
《私が大隈侯の伝記編纂に与(あずか)った当初、編纂に附帯した仕事の一つとして、大隈家に保存されている手紙の中から伝記の材料となるべきものを調べたいと思い立った。
その折柄、ある日、後室(大隈重信の未亡人)から招かれて伺候すると、後室は「邸には手紙の反故(紙くず)があります。こういうものをいつまでも残して置くとよろしくないので、いっそ火中しようかと思います」と言われた。
私はこのとき、伝記の材料として取調べねばならぬ手紙について、後室に話す機会を得た。私が考えるには、無差別にそれらの手紙を焼いてしまわれるのは誠に惜しい。
もちろん、後室がそれらを火中しようとされるのは無理のないことで、近年、政治家が亡くなると、その後に政治上
の機密に関する手紙がドンドン出る。それが書画屋の手に落ち、さらに種々の人たちの手に渡った実例が少なくない。
後室は、それらの点に考え及ばれて、人々に玩ばれるのを面白からぬこととして火中しようと言われたのであろう。誠に無理のないことである。
けれども一面から考えると、伝記の材料を集めるときには、それらが貴重なものとなる。それで私は後室に向かい「仰せは一応ごもっともですが、無差別にそれらを火中せらるるのは惜しいことと思います。私が整理の衝にあたりますから、その上、焼くべきものは焼くことにされてはどうでございましょう」とはかった。
後室はそれを聞かれて「なるほど、そうですね。では貴下に一切おまかせしましょう」と言われた。私が大隈家の手紙に触れる機縁はこうして開かれたのである。
私が日を期して大隈家へ行くと、ことごとく皆出してある手紙の山を見て、「これは意外!! 大変なものだ」とまず驚きの目をみはった。平年私もまだ入ったことがない老侯の寝室に、あらゆる手紙が並べられて文書の垣根を築いている。まだ他に幾十の大風呂敷、十数個の支那カバンへ一杯ぎっしりと入れてあるという具合で実に賛に盛んなものであった。
私がよく考えて見ると、それは不思議でも何でもなかった。そうした大規模に手紙が集まっているのは、老侯の社交生活の多方面であられたことに思い及ぶと、当然であった。最初、私は「大部分の手紙はまず玄関で執事などの手で処分され、必要な少数を残して、他は捨ててしまわれるのであろう』と推想していたので、何万通という手紙が、そっくりそのまま今日まで残っていようとは思わなかった。
私がそれらの手紙の山を整理するについて、最も便宜を得たのは維新頃から明治15年ごろまでの名流書翰が人別になって、正確に整理されていたことである。誰々が何通というふうに、それぞれ袋に入れて、目録までできていた。それはかつて後室が堪能な執事に命じて、3カ月間、全力をあげて整理せしめられたもので、大きな支那カバンに3個ばかりあった。
それらの手紙は老侯の伝記編纂上、最も重要なもので、国歌の機密に関して述べられたものが少なくない。明治15 年以後は、老侯が在野の人となられ、かつ追々電話もできて、たいていそれによって用を弁ずるようになったから、手紙のやりとりが減じたわけである。
が、特に侯の生涯の上から一番大切な時代に属する手紙がひとり整然と纏められて残っていたのは何より結構であった。私は後室に向かって「貴女の御心がけで、こういう立派なものが残っているのは何より喜ばしいことでございます」と言うと、後室は「故人は何でも身体に付けない方で、自分が1度見た手紙なども保存しておかぬ方でございました。故三條、岩倉、木戸諸公の手紙は、いずれも維新の元勲たちのですから、拾ててしまうのは惜しいし、また保存しても格別邪魔になりませぬから、こうして残しておいたのです」と言われた。
そしてそのとき、病床におられた後室は特に錦襴の袋を開いて、その中から維新元勲の手紙を若干取り出して私に示された。こうして後室が念を入れて袋の中に収めておかれたのを見ますると、私は意味あってそれを心がけて保存されたのであろうと、今更後室の用意周到でおられるのをしみじみ感じた》
大隈重信