霊峰「富士山」を目指せ
世界遺産「御師の家」とは何か

御師の家の御神前
御師の家の御神前(河口・本庄家)


 1938年(昭和13年)初秋、太宰治は井伏鱒二に会いに、山梨県御坂峠にある天下茶屋に向かいました。太宰はここに3カ月ほど滞在し、『富嶽百景』を執筆しています。

 ある日、太宰は峠を下りた富士吉田市で酒を飲み、夜道を歩きながら、「青く燃えて空に浮んでいる」美しい富士山に見とれます。
《月光を受けて、青く透きとおるようで、私は、狐(きつね)に化かされているような気がした。富士が、したたるように青いのだ。燐が燃えているような感じだった》(『富嶽百景』)

 太宰は、富士吉田で一泊しますが、実はこの町には、富士登山者を泊める「御師(おし)の家」が数多くありました。今回は、知られざる「御師」の世界をご案内します。

吉田・金鳥居から見た富士山
吉田・金鳥居から見た富士山(1930年頃)


 1620年、江戸に「ツキタオシ」という奇病が流行します。3日で1000人の死者が出るなか、長谷川角行という修行者が「フセギ」という護符を配り、多くの患者を救いました。角行は、富士山のそばにある溶岩洞穴「人穴」に1000日こもったり、12月に裸で7日間過ごしたりといった荒行を重ねた人物です。1572年に初めて吉田口から富士登山を始め、のべ128回も登頂しました。

 奇病を退治したことで、江戸の庶民は角行を深く信仰するようになります。角行が「富士山こそ生命の源」だと教えたことで、以後、全国に富士山信仰が広まっていきました。これが「富士講」の始まりです。

立行石/北口本宮冨士浅間神社
角行が30日間爪立ちした立行石(北口本宮冨士浅間神社)


 富士講は、富士山に登ることを目標とした団体ですが、江戸時代、富士登山はかなりのお金と時間がかかるものでした。江戸から吉田までは片道3〜4日、吉田から頂上往復は2〜3日かかり、運がよくて8日間ほど、場合によっては数週間かかる旅です。そのため、富士登山は終生の目標とする人が多く、地元には富士山をかたどった富士塚を作り、そこにお参りするのが一般的でした。

富士塚
富士塚(木更津)


 霊山に登ることを修験道では「禅定(ぜんじょう)」といいますが、特に富士山への信仰登山は「登拝(とはい)」と呼ばれます。登拝はおよそ1000年前、平安時代末期から始まりました。山頂に寺院が建てられ、室町時代になると庶民も登るようになりました。こうしたなか、江戸時代に組織的に登拝をおこなう「富士講」が大流行したのです。

 富士山は、孝安天皇92年にその全容を現したとの伝説があります。この年は「庚申(かのえさる)」で、それ以降、60年に1度の「庚申」の年は「富士山御縁年(ごえんねん)」として、多くの登山者が集まりました。なかでも1500年(明応9年)6月には登山客が殺到し、「富士へ道者参ること無限」と『勝山記(妙法寺記)』に記録されています。

 なお、申(さる)年は12年に1度の「小縁年」とされますが、猿が富士山の使徒とされるのは、こうした理由があるのです。

猿が描かれた絵札
猿が描かれた絵札(ふじさんミュージアム)
※枡に山盛りの米は「穀聚山」といって富士山の意味


 富士山を目指す人々が日本中から集まることで、登山者向けの宿が必要になりました。
 室町時代から現在まで、富士山の登山道は「吉田口」がもっとも一般的です。道が整備され、景観もよく、登りも比較的ラクだからです。

 この吉田口、スタート地点は富士吉田市にある北口本宮富士浅間神社の境内にあります。江戸時代は、ここから富士講の信者が白装束に身を固め、「六根清浄」を唱えながら頂上を目指したのです。

吉田口登山口(北口本宮富士浅間神社)
登山口(北口本宮富士浅間神社)


 富士講の客を泊めた宿は、食事だけでなく、登山の安全を願う祈祷、教義の指導なども担ったことから「御師(おし)」と呼ばれる人たちが運営していました。御師の宿は、江戸時代の最盛期、富士吉田市内に86軒ありました。

 2013年、富士山はユネスコの世界文化遺産に登録されましたが、その構成資産には御師の家も含まれています。「旧外川家住宅」と「小佐野家住宅」の2つで、ともに国指定重要文化財です。

 旧外川家住宅は、1768年(明和5年)に建てられた木造平屋建ての主屋(おもや)と、1860年(万延元年)頃に増築された裏座敷からなる、最大規模の御師住宅です。最盛期は100人を同時に泊めたとされ、裏座敷には、富士山の神「木花開耶姫(このはなさくやひめ)」の御神前もあります。そして、その隣には富士講の中興の祖「食行身禄(じきぎょうみろく)」の像があります。

旧外川家住宅の御神前
旧外川家住宅の御神前


 木花開耶姫は、猛火の産屋で3人の子を出産したとされ、噴火した富士山の怒りを鎮めるために祀られました。ちなみに世界遺産の構成資産に含まれる「船津胎内樹型」は、噴火で流れた溶岩が樹木の形を残して固まったものですが、
木花開耶姫の分娩の洞穴とも言われています。

木花開耶姫(ふじさんミュージアム)
木花開耶姫(ふじさんミュージアム)


 御師の家には2種類あり、江戸時代からある家を「本御師(ほんおし)」、その後にできた家を「町御師」と呼びます。町御師は表通りに面していますが、本御師の家は、表通りにある「中門」をくぐり、「たつみち」という細長い道の先にあります。このため、土地は短冊状になっています。

御師の家・中門と「たつみち」
中門と「たつみち」


 たつみちを進んで玄関まで来ると、道を遮るように「間川(ヤーナ川)」という小川が流れており、富士山の伏流水が浅間神社から引かれています。これが手水(ちょうず)の役割を果たし、講社の人たちはここで身を清めました。

 御師の家には、玄関が3つあるのが通例でした。
 使用人が出入りする台所の「勝手口」と、普通の客が出入りする「中の口」、そして講の指導者「先達(せんだつ)」らが出入りする「式台玄関」です。

旧外川家住宅
左から勝手口、中の口、式台玄関(旧外川家住宅)


 この旧外川家住宅の目の前には、「浅間坊(せんげんぼう)」があり、江戸時代に建てられた表門「薬医門」がほぼ原形をとどめて残っています。浅間坊は安土桃山時代の1592年にはすでに存在していたことがわかっていますが、土地を売却したため、「たつみち」はありません。薬医門は1860年頃に富士講の講社から奉納されたもので、財力や地位のある格式高い家であることを示します。

 なお、御師の家は苗字・帯刀が許されており、そのため門を作ることが可能だったのです。

薬医門
薬医門


 もう一つの構成遺産「小佐野家住宅」は、1861年(文久元年)頃に建築されたものです。一般公開はされていませんが、ふじさんミュージアムに復原した建物が展示されています。

小佐野家の住宅(ふじさんミュージアム)
小佐野家の住宅(ふじさんミュージアム)


 富士講の開祖は、前述したように長谷川角行(1541〜1646)です。角行は「フセギ」という護符を配りましたが、同じように御師は、シーズンオフには薬やお守りを檀家に配って回りました。

「フセギ」以外にも、富士講には、さまざまな儀式がありました。
 たとえば「お焚き上げ」は、リーダー「先達」が粗塩の上に富士山の形に線香を束ね、願い事などを書いた和紙を燃やして吉凶を占う儀式です。

富士講の祭具(ふじさんミュージアム)
富士講の祭具(ふじさんミュージアム)


 富士山の頂上を一周する「お鉢めぐり」は有名ですが、5〜6合目付近を一回りする「御中道(おちゅうどう)めぐり」もありました。地名や先達の名前にちなんだ講印「マネキ」を奉納し、「御身抜(おみぬき)」という掛け軸も存在します。また、33回登山すると、満願成就として碑を寄進することもありました。

 さらに富士講によっては、登山の様子を歌い込んだ「富士講道中歌」や5合目などで踊る「笹踊り」など独自の儀礼があったのです。

御身抜(旧外川家住宅)
御身抜(旧外川家住宅)

<注>
「ちち」「はは」=父母を富士山の神とみなす
「明藤開山」(明らかに富士山を開く)=開祖・角行の言葉
「参」=角行の4代目の弟子・月行から使われた言葉
「仙元大菩薩(大日如来)」「長日月光仏(阿弥陀如来)」=通常と漢字を変えて信仰の対象に



 江戸時代の最盛期には、こうした講中が「江戸808町に808講」ありました。808は数多いという意味で、実際には関東地方に9000の講が存在し、信者は8万人いたとされます。

 こうした一団が、共同で資金集めをし、4月の「胎内祭」、7月の「山開き(開山祭)」、8月の「吉田の火祭り(鎮火祭)」などを中心に全国から集まったのです。旅の疲れを癒やす御師の家では、イモや山菜、大根が出されたと考えられていますが(溶岩土壌のためコメはあまり作れない)、特に滋養強壮に効くコイ料理が好まれたようです。

 さて、御師住宅は富士吉田が有名ですが、実は富士河口湖町にもありました。河口地区は、古代に交通用の馬が置かれた「駅」の場所だと推定されています。また、貞観大噴火の翌年の865年、富士の鎮火祭をおこなったと伝えられるのが河口浅間神社です。江戸期には河口浅間神社を中心に130軒ほどの御師の家がありました。

河口浅間神社
「鎮爆」と書かれた河口浅間神社


 かつて、甲府盆地から御坂峠を越えて富士山を目指すルートがあり、山梨県や北関東、長野県などの信者たちはほとんどが河口に泊まりました。その河口に、いまでも御師住宅「本庄家」が残されています。
 本庄家の主屋は木造2階建てで、2階では養蚕がおこなわれていました。主屋は天保年間(1830〜1844)に建てられた可能性が高く、中門は1809年の大火で焼け、再建されたとみられます。

御師の家
本庄家


 明治中期に甲州街道の整備が進むと、小仏峠を越えて大月→吉田ルートを行く人が増え、河口御師は大半が廃業に追い込まれます。さらに、1903年(明治36年)の中央線開通で、御坂峠を越える人は激減し、壊滅しました。

 河口御師が消えたことで、吉田御師は昭和まで繁栄しますが、戦争によって大きな打撃を受けます。男は召集され、全国の講社は散り散りになりました。

 400年続いた吉田の外川家も、1962年、御師を廃業しています。
 そして、吉田ルートそのものが、1964年(昭和39年)、山梨側にスバルラインが開通し、五合目まで車で上がれるようになったことで、衰退していくのです。

制作:2020年8月20日


<おまけ>
 
 吉田口登山道の2合目には「小室浅間明神」が鎮座していました。江戸時代の女人結界で、これより上は女人禁制でした。現在も、林道にそれた先に、山頂を遥拝した「女人天上」の石碑が残されています。
 また、4合5勺目の「御座石」は、戦国時代まで女性が登れた場所でした。江戸時代でも、60年に一度の庚申の年だけは、女性もここまで登れました。
 富士登山の女人禁制が解かれるのは、1872年(明治5年)のことでした。

女人禁制/小室浅間明神
小室浅間明神(明治40年頃)

広告
© 探検コム メール