銃後の日露戦争
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大分県の村役人が見た
銃後の日露戦争
日露戦役凱旋と彫られた戦捷記念碑
(大分県日田市・大原神社)
まずは次の小話を読んでほしいんだな。明治37年(1904)11月に、内輪だけの日誌に書かれたものです。
「露国は戦争中に探海燈を照らすが、なぜ日本は照らさないのだろう」
「そんな手数のいる無益な軍用金は消費いたしません」
「なぜ?」
「皇国は日の本だから」
日本は「日の本」だから明るいではないか、だからサーチライトなど無用である、というわけですが、現代の日本人にこのおもしろさが通じるかどうか。でも、今から100年前の日本人にとって、この小話はかなり秀作と思えたかも知れません。
本サイトは、今回、日露戦争中に大分県大鶴村(現在の日田市)の村役場で書かれた宿直日誌を発見しました。当時、収入役だった一ノ宮広太氏を中心に、4人でつづられた日誌には、当時の物価から職務規則まで、まさに戦争を背景にした1つの村の世相が詳細に書き込まれていました。
そこで、この資料を基に、「銃後の日露戦争」の姿を初公開します!
資料発見のニュースを報じる大分合同新聞
(2004年8月31日)
この日誌は『豊栄考』と名付けられ、明治37年9月から書き始められています。冒頭で、「歩哨と宿直」と題して、次のように書かれています。
《歩哨は軍隊の前面に在て敵を警戒す。……宿直は恰(あたか)も歩哨の夫の如く。570戸の為めに3600余人の為めに徹夜警戒す。事あらば之(これ)に従ひ、事なければ熟睡す》
日田市大鶴地区の現在の戸数はほぼ同数ですが、人口はほぼ3分の2に減っています。
では、以下、日露戦争に関する話題を抜粋引用しましょう。
●明治37年(1904)10月10日 到着した兵士の遺髪を1000人で出迎え
《本河村長の尽力に因り、石井伍長の遺髪も菅伍長の遺髪と共に昨9日午後4時着村した。之を迎ふるもの遺族、村吏員、村会議員、区長、有志、3校の教職員・生徒総数1千有余名。余も亦(また)、之を迎へて福井神社の前に在り、2氏の霊柩面前を過ぐるの際、一種の感慨断腸の思あり》
これが県境にある福井神社と天井画
(福井神社自体は福岡県宝珠山村です)
●明治37年11月1日 村葬で読まれた弔辞に感心
《10月30日、
故陸軍一等軍医 石松俊吾君
故陸軍歩兵伍長 石井安太君
故陸軍歩兵伍長 菅 稲吉君
右3氏の葬儀を村葬にて役場前に施行せられた。盛大なりしこと、古今未曾有の吊詞(=弔辞)20余通、朗読を省略せるもの殆(ほと)んど20通、みな功を称して死を悼まざるものなし。
愛国婦人会日田郡部 井上犢子女史の吊詞なりとす、本村中、多数有識の女史ありと雖(いえど)も、吊詞などの出来るもの何人(いるだろうか?)。女史の朗読は、成年子女の向学心を非常に激動せしめた事を信ずる。新聞を読み始めるものも有ろう。手習を初めるものも有ろう……》
●明治38年4月13日 突然の召集令状
《近頃招集も来らず。時候はよし。宿直の職務を負ひながら遊びたくなる。……果然、午後4時25分に補充招集の令状が来た。遺漏なく其(そ)の職を完ふせしときの其快楽、余に非ざれば知ること能はざる也》
さて、日露戦争は明治38年9月5日、ポーツマス条約締結により終結します。日本側全権は小村寿太郎、ロシア側全権はウィッテでした。
ポーツマス講和会議
(小村寿太郎は右から2番目)
日本政府は、
(1)韓国の自由処分
(2)ロシア軍の満州撤兵
(3)遼東半島租借権、ハルピン〜旅順間の鉄道の譲与
を絶対条件としましたが、実際には
(1)韓国に対する政治・軍事上の優先権
(2)両国軍隊の満州撤兵
(3)遼東半島租借地、長春〜旅順間の鉄道の譲渡
など大幅な妥協を強いられました。日本側はほかに北緯50度以南の樺太と漁業権を譲与されましたが、賠償金の支払いはありませんでした。このことで国民の不満は高まり、講和反対の大会が東京日比谷で開かれました。これがいわゆる日比谷焼打事件。
日比谷公園の集会(左)と焼き討ちされた内務大臣官邸
講和への不満は、日誌にもはっきりと書かれています。
●明治38年9月5日 小村寿太郎は大馬鹿者
《正当にして合理なる権利の実行を敢て為すものは即ち是れ普通の人間にして、否らざるものは馬鹿也。
講和条件を提示するや我国人の以て最低条件となしたるものも、諸外国人は以て相当なる条件と為したりき。然れば其(その)条件を其侭(そのまま)露国に承諾せしめて以て普通の小村寿太郎也。(それなのに)之を承諾せしめざるのみか、戦敗国が譲歩せざるに我のみ譲歩、否、相当なる権利を抛棄(=放棄)するに至りては、馬鹿の最も甚敷(はなはだしき)者也。
小村寿太郎は、馬鹿の最も甚敷(はなはだしき)者也》
つまり絶対条件さえのませられず、さらに譲歩するなど、小村寿太郎は「最大の馬鹿」というわけです。この日、怒りにまかせて書いた日誌は、夜を通して書き継がれ、最後は冷静に「国民の反省」として終わっています。
面白いことに、日誌自体もここで終わり、あとは白紙です。
日露戦争で、日本は大陸への足場を築きました。以後、軍国主義はさらに高まっていくのですが、その記述は、残念ながら、日誌にはありません。
日誌を書いた中心人物の一ノ宮広太氏は、戦争終結の翌年(1906年)、31歳の若さで第4代村長に就任しました。以後、1929年まで、23年近く村政を担当し、この世を去りました。
大鶴村は1955年(昭和30年)、日田市に編入され、消滅しました。村役場跡は、大鶴振興センターとして生まれ変わっています。
その日田市は、2005年3月、さらに周辺の村を吸収合併し、巨大な市になります。大鶴村が消滅してからちょうど50年。村の記憶も、もう間もなく消滅してしまうことでしょう。
制作:2004年9月21日
<おまけ>
日田市は、太平洋戦争当時、西日本で最大級だった兵器工場・小倉陸軍造兵廠が工場疎開した場所です。
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