パノラマ館
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上野・浅草/360度大パノラマ館へ行く
天津攻撃パノラマ
(海光寺門上の連合軍司令部)
歌人の斎藤茂吉は、山形県から上京したばかりの少年時代を、『三筋町界隈』というエッセイで回想しています。
そのなかにこんな文章がありました。
《その頃の浅草観世音境内には、日清役平壌戦のパノラマがあって、これは実にいいものであった。東北の山間などにいてはこういうものは決して見ることが出来ないと私は子供心にも沁々(しみじみ)とおもったものであった。
十銭の入場料といえばそのころ惜しいとおもわなければならぬが、パノラマの場内では望遠鏡などを貸してそれで見せたのだから如何(いか)にも念入であった。師団司令部の将校等の立っている向うの方に、火災の煙が上って天を焦がすところで、その煙がむくむく動くように見えていたものである》
パノラマとは、当時人気だったパノラマ館のことで、要は360度見渡せる巨大ジオラマですな。で、茂吉が見た日清戦争・平壌戦のパノラマはこんな図柄でした。
明治29年(1896)3月、日本パノラマ館で展示された平壌攻撃パノラマ
なんだか白黒なのでよく分かりませんが、当時の雑誌『風俗画報』によれば、作者の小山正太郎は30人の助手を使って4か月かかって書き上げたそうで、相当な大作でした。ちなみに画面に出てくる登場人物は3万2000人あまり! 将校の顔も服装も(日本刀も脚絆も)本物ソックリというのが売りでした。
日本初のパノラマ館は、明治23年(1890)5月7日、上野公園にオープンしました。「奥州白川大戦争」をテーマにしていましたが、「上野
画(とうが)館」などと難しい名前を付けたため、誰もその意味がわからなかったそうです。
その半月後の5月23日、今度は浅草に「日本パノラマ館」がオープン。こちらは南北戦争の名場面をサンフランシスコから購入したもので、上野のものより、はるかにレベルが高かったようです。
これが日本初の上野のパノラマ館
その後、パノラマ館は日本各地にできはじめ、大ブームを呼び起こしました。
ちなみに入館するときには、どこに何が書いてあるか図示したパンフレットをくれることが多かったようです。ま、これは今でも展望台に行けばだいたいくれますよね。
甲府パノラマ館の「360度」案内
こうしたパノラマ、どれくらい大きいかというと、明治34年(1901)7月、浅草日本パノラマ館で展示された「天津攻撃」(冒頭の写真)で高さ9間(16m)、左右60間(109m)。この巨大パノラマに迷い込むんだから、そりゃリアルです。
明治30年、神田錦町「蒙古襲来」作成中
(左端が東城鉦太郎)
明治38年、浅草「日本海海戦」作成中
(前列左から東城鉦太郎、五姓田芳柳)
上の2点の写真をよく見て欲しいんですが、「蒙古襲来」には甲冑姿の男がいるし、「日本海海戦」では絵描き自身がみんな海軍兵士の格好をしています。つまり、スタッフ自らモデルになっていたという……これが迫真の完成度の秘密です。
さて、パノラマは大ブームを起こしましたが、1度入場してしまえば、別段2度行くようなものではないので、徐々に人気は落ち始めます。もちろんパノラマ館側は別の絵に差し替えるわけですが、やはり盛り上がりには欠けてしまいます。
かくて、明治42年の「関ヶ原」「湊川」(上野)、「本能寺」(浅草)を最後に、こうしたパノラマは消滅してしまうのでした。約20年の短い命でしたが、ここで1つ指摘しておきたいことがあるんだな。それは、この20年間に日清戦争と日露戦争の両方が起きていたということです。
パノラマ館のテーマはほとんどが戦争なんですが、日清・日露戦争に勝利し、熱狂した庶民がパノラマ館を育て、その展示を見てさらに国民みんなが行け行けドンドンになるという相乗効果が確実にあったわけです。
こうした状況を専門家は「帝国主義のまなざし」などと言い表しますが、こうした見解はさておき、やっぱり実際のパノラマは楽しかっただろうな〜と思うのでした。
制作:2006年2月19日
<おまけ>
明治34年7月、浅草日本パノラマ館で展示された「天津攻撃」を見にいこう!
クリックすれば大画面になります。これでも360度完全に揃ってはいませんが、これだけ長いパノラマはなかなか見られないよ! 冒頭の写真「天津攻撃」は上の画像に更に続く部分なんですが、すべてのパノラマが川を中心にまとまっていることがわかります。
なお、このパノラマは、すべて五姓田芳柳の実地踏査に基づいています。
●左から1枚目
攻撃中の粟屋聯隊。中央の土壁で聯隊旗を掲げているのが隊長と幹部。中央左の砲煙は天津城南門砲撃のもの
●2枚目
左下にフランス兵?の死体。死体の上部に黒いインド兵、中央から右手にフランス兵、川の向こう右手に海光寺
●3枚目
中央の小高い山は海光寺から南に1300mの土手道路。そこに左からフランス兵が駆け上がる。泥濘で歩行困難。路上一番奥の2人は日本人の伝令。道路右手奥に負傷者を運ぶ支那人の人夫。右手の丘に立っているのはコダックカメラを構えたアメリカの新聞記者
●4枚目
川向こう左手にロシア兵、手前に日本の野戦病院。川を渡っているのはインド兵。右下の日の丸と赤十字の旗を越え、海光門をくぐっていく。右上が日本軍の砲兵陣地