韓国大統領の通信簿を入手!
朴槿恵が反日になるまで

朴槿恵
朴槿惠のテニス写真


 朝鮮戦争が起きてまもなく、軍の少領(少佐)だった朴正煕は、地方のお嬢様だった陸英修と結婚します。朴正煕が34歳、陸英修が26歳のときで、まもなく最初の子供が生まれます。
 それが朴槿恵(パククネ)で、1952年2月2日に誕生しました。

 朴槿恵は、地元の奨忠初等学校(小学校)を経て、キリスト教系の聖心女子中学、高校を卒業後、西江大学電子工学科に進学します。

 学歴社会の韓国では、選挙などに際して、通信簿を公開する習慣があります。2007年、朴槿恵は李明博と争った大統領選のハンナラ党予備選で、小中高大学の成績表を公開しました。
 本サイトは、その資料を入手、成績をチェックしてみました。すると、生真面目で優秀な少女の姿が浮かび上がりました。

朴槿恵小学生時代
朴槿恵の小学生時代?(大統領府HPで公開された写真)


 通信簿を見ると、小学校では成績はトップクラスで、「親切さ」「社会性」「自律性」「勤労性」「遵法性」などの生活記録もいずれも最優秀。担任の評価は「おとなしくて落ち着いている」「誠実で謙遜で、言葉がスムーズで親切である」「自尊心が強い」などと書かれていますが、一方で「特定の子供たちとだけ遊ぶ」「やや地味な感がある」などネガティブ評価も書かれています。

 小学校時代は、『三銃士』や『三国志』など戦争が出てくる歴史小説を愛読。
 1963年10月15日、本人が小6のとき、父親・朴正煕が韓国大統領に就任します。

《腕白坊主のような私の性格が落ち着いたのは、青瓦台に入ってからだ。聖心女子中1年生の1年間、寄宿舎生活をしたが、そこで規律と協調を自然と身につけた。友だちと本を交換することでいろいろな本に触れるようになり、私の読書の偏りもなくなって、考えが深まった。だが、私が腕白坊主から落ち着いた少女に変わったことに決定的な影響を与えたのは、父が大統領になった後、私たちの言動に注意を傾けていた母の教育だった。

 ふだん母は優しい人だが、間違ったことに対しては断固としていて、責任感と慎重さをいつも強調していた。甘えや大げさを認めず、どんなに小さい間違いでも心から反省しなければ厳しく叱った。(中略)

「勉強はできてもできなくてもいい。でも、どんなときでも心だけは正しく働かせなければならない」
 人格教育に対する母の気持ちははっきりしていて、幼いころに母からそうした教育を受けたおかげで、私は人生の一番大切な財産を得たと思っている。それは「配慮」だ。他人に対する思いやり、つまり礼儀でもある》(『朴槿恵自叙伝』)


 朴槿恵は、中1の1学期に副班長をしたことを除いて、以後、高2までずっと班長を引き受けました。中2で実施した知能検査(IQ)の結果は127。

朴槿恵
中2のとき遊びに行った仁川の島で(1967年7月)

 
 高校3年間は皆勤で、ずっとトップでした。成績は以下の通り。

 高1:総合点1674 平均88.1 順位63人中1位 
 高2:総合点1402 平均88.0 順位34人中1位 
 高3:総合点1090 平均91.0 順位26人中1位 

 担任のコメントは、

 高1:勤勉、着実。責任感が強く、班長の任務をよく果たした。言動が端正であり、親切で他人に信頼される。自ら正当な仕事ができる能力がある

 高2:勤勉で礼儀正しく、自らやることがわかっている。班長として立派な指導性を発揮し、任された責任を果たし、すべての振る舞いが立派。他者の模範になるが、おとなしすぎる

 高3:言動が正しく自主的であり、意欲的である。慎重すぎ、寡黙である

 と、優秀だけど、なんだか面白みに欠けた人物だとわかります。

朴槿恵通信簿 朴槿恵通知表
高校時代の通信簿(クリックで拡大)
ちなみに住所は「ソウル特別市鍾路区世宗路1番地」(大統領府の住所)


 高校時代、両親は「ピアニスト」になって欲しいと希望しましたが、本人は「教育者」を希望していました。しかし、高3のとき、父に進路について聞かれ、朴槿恵はこう語りました。

《私は電子工学を専攻したいと答えた。父が理由を訊くので、青瓦台にいらした博士が「小さなトランジスタ1つが20〜30ドルもして、アタッシュケース1つ分で何万ドルにもなる。大韓民国は電子産業に活路を見出すべきだ』と言ったことに触れ、こう答えた。「産業の担い手になって国に寄与したいです」》(『朴槿恵自叙伝』)

朴槿恵卒業式
朴槿恵卒業式(自叙伝では高校卒業時となってますが、中学時っぽいな)


 そして、西江大学の電子工学科に進学、首席で卒業しました。
 この大学はカトリック系で、日本で言えば上智大学に相当するといわれます。出席が非常に厳しく、勉強、勉強の毎日でした。

朴槿恵大学時代
大学時代。開校10周年で披露したアフリカ原住民の仮装行列(先頭)


 成績表を見ると、4年間でB単位7科目、C単位1科目(線形代数)を除いて、すべてAでした。
 
 具体的に見てみると、
 
 1970年前期は
  体育、国語1、英会話1、数学、一般物理、一般化学、一般心理学
 を受け、このうち、数学と心理学がBで、あとはA。

 1970年後期は
  体育、国語2、英会話2、数学2、物理2、化学2、国民倫理
 を受け、このうち物理と化学がBで、あとはA。

 1971年前期は
  体育、新聞英語、哲学概論、代数および解析幾何学、微分方程式1、物理3、熱力学、電子工学
 を受け、数学がともにBで、あとはA。

 1971年後期は
  体育、英語(研究論文作成)、ユダヤ・キリスト教・聖書入門、線形代数、物理4、波動力学、電気回路、哲学概論
 を受け、線形代数がC(大学時代唯一のC)で、あとはA。 

 3年次以降、文系科目は倫理学、国史概説、文化史、韓国哲学史、教会と聖書など、理系科目は電子回路、電磁場、半導体工学などを受け、いずれもAをとっています。
 大学4年間の評価は4.0満点で3.82(100点満点に換算すると98.2点)と、やはり優秀な成績でした。

朴槿恵成績表
朴槿恵の大学時代の成績表


 学生時代から語学の勉強も進め、通訳なしで英語、フランス語、スペイン語、中国語が喋れるといわれています。家庭環境を考えれば日本語も出来るはずですが、本人は絶対日本語をしゃべらないでしょうねぇ。

 朴槿恵は母・陸英修を《私の偶像》と慕っていましたが、その母が1974年8月、在日韓国人・文世光に殺されます。朴槿恵は母の代わりに22歳でファーストレディとなりましたが、5年後の1979年10月、今度は父・朴正煕も側近によって射殺されてしまうのでした。

朴槿恵と朴正煕
父・朴正煕と(ファーストレディ時代)


 それにしても、朴槿恵はどうしてここまで反日なのか。
 よくいわれるのが、父・朴正煕が推し進めた徹底した反日教育のせいです。朴正煕は、資金を集めるため、日本に対しては親日的な顔を見せていたものの、国内向けには反日教育を強めていきました。
 生真面目な優等生だった朴槿恵はその教育を素直に信じてしまったという説です。

 もうひとつは、この反日教育を受けた「386世代」('90年代に「30」歳代で、「'80」年代に大学生活を送った「'60」年代生まれの人間たち)が韓国でもっとも反日的で、いまこの世代が社会の指導層を占めているため、朴槿恵は反日を演じざるをえないという説です。

 しかし、最近では朴槿恵の支持率も下がり、ソウルでは1万人規模の反政府デモも起きています。朴槿惠の未来は、いったいどうなるのかな?


制作:2014年1月12日


<おまけ>
 日本統治下の貧しい農家に生まれた朴正煕は日本名を高木正雄といいました。小学校を優秀な成績で卒業すると、日本人教師の熱心な勧めで師範学校に進学。3年間教師をして、日本国籍のまま満州国の軍官学校へ。そのまま東京の陸軍士官学校に進学し、卒業式では日本人を含めた代表として答辞を読み、関東軍中尉として終戦を迎えています。
 朴正煕と会ったことのある石原慎太郎は、こんなエピソードを明かしています。

《朴正煕大統領と会った時、朴さんや彼の閣僚たちと皆で酒を飲みながら日本語で話をしていたのです。(中略)そのうち閣僚たちの間から「日本人は生意気だ。朝鮮に来て今までの名前を変えろなんて言った」などという批判が出た。すると朴大統領は「まあまあ、みんなちょっと落ち着きなさい」と周囲をなだめてから、「私は日本の朝鮮統治はそう悪かったと思わない」と言い出したので、皆が静まり返ったことがある》(金完燮『日韓「禁断の歴史」』より)

 ちなみに朴槿恵の「生活記録簿」を見ると、小学校では朴正煕の学歴が「日本陸軍士官学校卒」となっていますが、中高では「日本」が抜けて「陸軍士官学校」とだけ記載されています。
朴槿恵一家
朴槿恵一家
 弟の志晩は、1989年の初犯以降、5回も覚せい剤の使用で逮捕されている麻薬常習犯
 妹の槿令は、知人に「駐車場貸すから前金を払って」と言って640万円詐取し罰金刑。朴槿恵は孤独ですね。
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