洪水体験記
洪水の経験がないと、水を恐れない。家が流れるほどの大洪水になるとも知らず、はじめは池の金魚や緋鯉が逃げたのをひどく残念がる。
いよいよ水かさが増すまでは、下駄を濡らすまい、ほうきゴミ取りを流すまいと、細かいところへ目をつける。
ここまでは水は来まいと、ひよこを鶏舎の棚へ上げる。まさか鶏舎が流れるとは神ならぬ身の思いもよらない。
ダリヤが根こそぎになって、桃の木のてっぺんへ行ってぶら下がろうとは夢にも思わず、雨を冒して花壇の手当をする。
門の扉は、水がついて痕が残ると見苦しいと外したので、行方不明になってしまった。
糠味噌に水がつくと困るので、空き樽に重ねておいたら、まっ先にプクリとひっくり返って流れ出した。
畑のカボチャ、スイカが流れる。作男は「丹精のかたまり」だと激流を冒して取ろうとして、あやうくカボチャと心中するところだった。
床上3尺4尺と浸水してくる。はじめは臼などを台にして畳を上げたが、間に合わず。惜しいながら、柱に五寸釘を打ち込んで、大ヌキ(材木の名)で棚を作る。
2階へ上がると、田んぼは見渡す限り海と化し、離れ小島が点々としている。見慣れぬ景色にちょっと見惚れる。
あれもこれもと欲張って大切な品を荷造りするうち、荷物を持っては命が危ないと、そっくり残して身ひとつで逃げた。
命に別状ないのを見ると、惜しいものは命ばかりでもなかったような気がする。
大水に遭いながら、きれいな水に不自由して、ひとすくいの水で顔を洗いながら、
「地震・雷・火事・親父と、水を恐ろしいものに入れなかった昔の奴は、きっと山猿に違いない」
(注)大正6年9月30日、関東一円が大洪水に襲われた。この漫画は、大正5年8月、千葉の洪水で楽天の一宮の別荘が被害にあったときの被害状況を描いたもの