マルコポーロが大絶賛!
世界でもっとも美しい「盧溝橋」へ!
大観光地「盧溝橋」
(中央の石畳がオリジナル部分。奥が宛平城)
北京の中心部から南西へ15kmほど行ったところに、マルコポーロが「世界で唯一無二の美しさ」と絶賛した橋があります。それが「マルコポーロ橋」、またの名を「盧溝橋」。
盧溝橋は1192年に完成した現存する北京最古の石造アーチ橋です。全長266.5m、11個のアーチからなっていて、両脇の欄干には、すべて異なる石獅子が501匹鎮座しています。
この橋から見た暁の月は、それはそれは美しいのだと古来言い伝えられてきました。それを「盧溝暁月」と言い、「燕京八景」の1つに選ばれています。燕京とは北京の旧称で、金王朝の章宗が選んだ8大名勝のことです。
「盧溝暁月」のイメージ
この名勝を、600年後に清の乾隆帝が自ら訪問し、揮毫したものが、橋の東側に石碑となって残っています。
乾隆帝直筆の石碑(右は60年以上前の写真)
左が現在のもので、右は1940年頃の同じ石碑の写真です。
当時日本軍はこの碑のそばに駐屯しており、河を挟んで中国軍が対峙していました。
で、1937年7月7日、橋の近くで起きた謎の発砲事件をきっかけに、日本軍と中国軍が全面衝突してしまいます。これがいわゆる「盧溝橋事件」で、まさにこの地から日中戦争が勃発したのでした。
盧溝橋を渡る日本軍
でまぁ、今回実際に盧溝橋に行ってみたんですが、橋は大観光地となっていて、うじゃうじゃ人がいました。
ここは北京市の愛国主義の教育基地となっているので、先生に連れられてきた小中学生もいるわいるわ。生徒たちは橋を見た後、宛平城内にある「中国人民抗日戦争紀念館」を訪れるのがキマリになっています。
中国共産党もみんなで参観
紀念館の中には、例によって誇張された日本軍の残虐写真がこれでもかと展示してあり、若人はこれを見て、反日の闘志を煮えたぎらせるわけです。
こちら南京大虐殺
まぁ、ここはえげつない蝋人形がないだけよそよりマトモですが、ちょっと中国はやりすぎですな。
小泉首相は2001年に訪中した際、この紀念館に連れて行かれ、「心からのお詫びと哀悼の気持ち」を表明しましたが、その腹いせに靖国神社参拝を強行してるような気もします。
双方の民族主義が強くなるのは、お互いに何のメリットもないのに、残念なことです。
こちら窒息死した数千人の人々
さて。
盧溝橋というのは北京の入口なので、実は結構昔から戦いの舞台になってきました。
たとえば清朝末期には義和団事件(外国排斥運動)が起き、このエリアは大きな破壊を受けました。1900年6月21日、清朝が列強に宣戦布告すると、日本など8カ国は連合軍を送って北京を占領し、中国を半植民地化しました。盧溝橋は北京陥落の舞台の1つなのです。
また1922年には、直隷派と奉天派という中国の軍閥同士がこの橋を境にして戦争しています。
《(直隷軍の)包囲軍は永定河に架したマルコ・ポロ橋に達し、同橋を境として奉天軍の連絡を切断せんとして努力したために、その地点に於いて大衝突起こり……》(東京朝日新聞1922年5月6日)
これを第1次奉直戦争といい、このとき奉天軍は大敗します。しかし2年後の第2次奉直戦争では奉天軍が勝利し、北京に入場しました。
この奉天軍の中心人物が張作霖。北京を支配下に収めた後、陸海軍大元帥に就任しますが、1928年6月4日、日本軍によって爆殺されました(満州某重大事件)。この事件を契機に、張作霖の息子・張学良が国民政府と手を結び、1931年9月18日の満州事変(柳条湖事件)へとつながっていくのです。
そして時代は1937年の盧溝橋事件へと流れ、日本は泥沼に落ちていくわけです。
盧溝橋の獅子はそのすべてを見てきたけれど、何も語ることなく、ただ夜明けの月を眺めているのでした。
紀念館の「日本投降」
制作:2005年8月7日
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