幻の四国縦断ロープウェイ

四国横断索道計画図
四国横断索道計画図


 現在の高知龍馬空港は、もともと日本海軍の航空隊基地でした。かつてこの地には三島村があり、空港の目の前に「三島村尋常小学校跡」の記念碑が残されています。三島村は、物部川がもたらす沃土と、黒潮がもたらす海産物で、高知県下でも屈指の豊かな村でした。しかし、帝国海軍が1941年に基地建設を発表し、土地は接収され、まもなく三島村は消滅しました。

 旧三島村一帯は、現在、南国市となっていますが、実は、このあたりはもう一つ大きな産品があります。
 それが石灰石で、周囲にはセメント工場や漆喰工場が並んでいます。

露頭した鳥巣石灰岩
露頭した鳥巣石灰岩(高知県仁淀村)


 四国は、西に石鎚山、東に剣山があることから、南北方向の交通が絶望的に不便です。
 現在でも縦に走る国道は、高知から高松に至る32号と、高知から松山に至る33号しかありません。鉄道も沿岸部を回っているだけで、縦方向の移動はできません。

四国の山地構造
四国の山地構造


 石灰石は、瀬戸内海側の香川県や愛媛県では、ほぼ採掘できません。そのため、高知の石灰をどのように瀬戸内海側に移動させるかが、非常に重要な課題となっていました。自動車が普及する以前のことで、結果的に、香川や愛媛では、石灰を輸入に頼るようになっていました。

 さすがにこれは無駄だということで、高知から瀬戸内海までロープウェイでつなぐプロジェクトが立ち上がります。高知から最短距離にあるのは、愛媛県の伊予三島です。偶然ですが、四国には瀬戸内海側にも太平洋側にも「三島」という地名があったのです。

 高知市は、鏡川と国分川が流れ込み、沿岸部に大きな入り江があります。ここから四国を縦断し、瀬戸内海側までロープウェイでつなぐのです。

高知の浦戸湾から見た四国山地
高知の浦戸湾から見た四国山地


 このプロジェクトで輸送されるものはさまざまです。
 高知から香川・愛媛に石灰石を送りますが、逆ルートで米・麦・味噌・醤油を高知に送ることができます。
 中央部には広大な森林がありますが、これは建材やマキとして、吉野川経由で徳島に運ばれていました。しかし、ロープウェイができれば、それを直接、香川や高知に運べます。
 
 さらに、中央部には白滝鉱山、白髪鉱山があり、銅などを運ぶことが可能です。計画では、人造肥料工場や石灰工場の建設も予定されており、こうした物産を四国各地に、そして香川から大阪を経て諸外国への輸出も想定されていました。

 ロープウェイやゴンドラリフトは、戦前、索道と呼ばれていました。
 日本最初の機械式ロープウェイは、1870年(明治3年)に鹿児島県佐多岬灯台の建設で使われた貨物索道だとされます。その後、足尾銅山などで使われ、1912年(明治45年)には大阪・新世界の通天閣に架設されています。

通天閣のロープウェイ
通天閣のロープウェイ

 
 現存する最古のロープウェイは、1928年(昭和3年)にできた吉野山ロープウェイで、同時期に比叡山へのロープウェイも完成しています。このように、まさにロープウェイの普及が始まろうとした1919年(大正8年)、「四国横断索道電気株式会社」の設立が提案されます。

比叡山ロープウェイ(初代)
比叡山ロープウェイ(初代)


 横断索道は、質のいい山林で知られた国見森林組合の野村敬治が中心となって始めました。目論見書には、地元の実業家とさまざまな話が済んでいると書かれています。高知には、土佐電鉄を創業した川崎幾三郎(2代目)と、土佐商船や土佐セメントを創業した宇田友四郎という、2人の有名な実業家がいます。彼らとつながっていたことから、四国の地元財界が申し合わせて始まったプロジェクトだと思われます。

土佐セメント
土佐セメント


「横断索道」の想定ルートは以下の通りです。

・高知−小坂−上倉−中ノ川−本山(第1区)
・本山−白髪鉱山(第2区)
・白髪鉱山−下長瀬−三島(第3区)

 まずは第1区の建設が目指されましたが、残念ながら、この計画が実現することはありませんでした。

四国横断索道計画図
四国横断索道計画図


 計画が潰れた理由は定かではありませんが、以下、推測してみます。

 この縦断ロープウェイの電力は、吉野川に建造する水力発電でまかなう計画でした。四国は土地が狭いことから、それまで小さなダムしかなく、電灯用の電気さえ不足する状態でした。吉野川は水量が豊富で水力発電に向いているため、ここにダムを作れば、大きな電力を手に入れられます。

 吉野川へのダム建設は、愛媛県に別子銅山を抱える住友財閥も狙っていました。住友は1919年(大正8年)に土佐吉野川水力電気(現・住友共同電力)を設立し、1939年(昭和14年)に高さ73.5メートルの大橋ダムを建造して、運用を開始します。

 おそらくですが、地元企業が中心となった「横断索道」は、住友との水利権戦争に敗れ、プロジェクトが中止になったのだと思われます。

別子銅山の端出場水力発電所跡
別子銅山の端出場水力発電所跡(1912年完成)


 実は、「横断索道」とは別に、「四国中部索道」というプロジェクトもありました。
 時期が不明なので、どちらが先かわかりませんが、どうやら「中部索道」は「横断索道」の第1期工事に相乗りする形を想定したようです。

「中部索道」のルートは
・三島−富里−猿田−白髪山−汗見−中島
 で、中島で「横断索道」に連結する計画だったと思われます。しかしながら、こちらも実現することはありませんでした。

四国中部索道計画図
四国中部索道計画図


 実は、白髪鉱山ではなく、白滝鉱山(高知県)には、三島までのロープウェイがすでに存在していました。『愛媛県史 地誌Ⅱ』によれば、1917年、日本鉱業が三島索道から買収したものだとされます。白滝鉱山の銅は、藤原地区を通って、三島まで4時間かかって運ばれました。その鉱石は、港から船で大分県の佐賀関に運ばれ、製錬されました。

 伊予三島からの索道は全部で3本あったようです。白滝鉱山とその先、下川に至る索道、佐々連鉱山までの索道、柳瀬までの索道で、最後のものは、大王製紙が木材を運ぶために操業していました。

 1960年、四国中央を東西に走る法皇山脈を貫く約1.6kmの法皇トンネルが完成し、南北の交通は非常に便利になりました。トラック輸送が可能になると、ロープウェイは廃止されます。白滝鉱山は1972年に閉山しました。
 そして1978年、早明浦ダムが完成し、周囲の土地の多くが水没するのでした。
 
 平家の落人が切り開いたという四国の奥地では、このようにロープウェイが物資の輸送を担っていました。残念ながら、四国を貫通することはありませんでしたが。

渡川ケーブル(徳島)
手動の渡川ケーブル(徳島)


制作:2020年1月23日

<おまけ>

 1914年の東京大正博覧会には、「ケーブルカー」という名前のロープウェイが登場しています。この段階ではケーブルカーとロープウェイの区別はついていません。
 いわゆるケーブルカーは、「鋼索鉄道」と呼ばれ、1918年(大正7年)に開業した生駒鋼索鉄道(生駒ケーブル)が最初です。1926年(昭和元年)、男山索道(石清水八幡宮参道ケーブル)で日立製作所による初めての国産化に成功。そして翌年には高尾山や比叡山にもケーブルカーが設置されました。

東京大正博覧会のロープウェイ
東京大正博覧会のロープウェイ

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