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沈まない救助船「凌波」
帝国水難救済会の挑戦

不沈船「第一凌波」
不沈船「第一凌波」



 1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が起きると、東京は大混乱になりました。

 隅田川沿いでは、火災で行き場を失った百数十名が取り残されましたが、そこに敢然とやってきたモーターボートがレスキューしてくれました。さらに上流でも40名ほどが救助され、しかも4日間保護されたのです。

 一方、永代橋が火災で焼け落ちたため、江東区深川に行くルートが途絶してしまいました。そこで、橋の仮工事が終わるまで、軍と協力した渡船の運航が始まります。

 こうした作業は突発的にできるものではありません。実施したのは「帝国水難救済会」でした。救済会自身が、震災で本部・倉庫・合宿所・見張所、そして汽艇1隻、救難船3隻、救助艇40隻を焼失したなかでの作業です。焼け残った汽艇1隻とモーターボート1隻をフル稼動して救助にあたったのです。

 帝国水難救済会は、1889年(明治22年)11月、香川県の琴平に本部を置いて発足。1892年、東京に移動し、日本全国の海岸に支部や救難所が設置されました。戦後、海上保安庁の設置とともに民営となり、1949年には日本水難救済会と改称され、現在も水難救助の最前線にいます。

 帝国水難救済会は、訓練はもちろん、救命銃(先端にモリがついたロープを発射するもやい銃)など、新技術の開発にも熱心でした。そうしたなか、「どんな高波でも転覆しない救助船」の開発が始まります。1931年(昭和6年)のことです。

救命銃
救命銃



 小型船には、転覆しないよう「起き上がり小法師」式の仕組みがあります。これを自己復原性(self-righting)といい、船体の「重心」と「浮力の中心(浮心)」との位置関係によって変化します。重心が高いと、船が傾いたとき、ますます傾きますが、重心が低いと、船が傾いても、元に戻ろうとするのです。

 起き上がり小法師式は、浅い海向けの小さな船に採用されますが、深い海では大波にのまれ、かえって不安定になるとされます。帝国水難救済会は逓信省から補助金を受けていたため、総トン数10トン以上の大型船を作る必要がありました。そのため、起き上がり小法師式は使えません。

「第一凌波」の構造図
「第一凌波」の構造図



 ここで、救命艇の特殊性を整理します。

○船の復原性が異常に大きい(傾いても転覆しない/転覆しても小さな波で起き上がる/転覆した勢いで起き上がる)
○縦横の揺れに強い構造
○衝突、接触に強い船体
○浅い海を航行することが多いので吃水(船の最下部から水面までの距離)が浅め
○傾いても転覆しないということは、逆に大量の海水が船内に入ってくる(排水・防水が重要)
○救助用の装備の量は多いが、救助できる人を増やすためにも、乗員は少ない方がいい
○機械の発動は早いほうがいい
○速力はそれほど必要ではない
○機関が壊れても動ける帆走システムも必要

 開発の中心となったのは、華族で海軍軍人だった徳川武定です。徳川が海軍技術研究所でおこなった潜水艦の耐圧強度の研究により、日本の潜水艦はレベルが一気に向上したと言われます。

自宅の水槽で実験する徳川武定
自宅の水槽で実験する徳川



 徳川は、軽量化と修繕のしやすさから、主要部分に木材を採用。
 船の背骨となる「竜骨」を硬いケヤキで作り、甲板や外板は防水性の高いヒノキで作りました。

 その上で、復原性を高めるため、船内にきわめて多くの「水密区画」を作りました。6個の水防横隔壁と4個の水防縦隔壁で分割され、船の前後に大空気室を設けました。さらに船内の至るところに金属製の空気罐を装備。その数は合計で153個にのぼり、船内容積の実に35%に達しました。このため、艇内の区画がすべて浸水しても沈没はせず、船が120度まで傾いても転覆しない船となりました。

120度でも傾いても転覆しない救命艇「第一凌波」
120度まで傾いても転覆せず



 こうして1933年に完成したのが、長さ15メートル、幅3.8メートルの救命艇「第一凌波」です。

「凌波」は世界初の完全防水ディーゼル機関が2基搭載され、操縦も、操舵から機関のコントロールまで1人で可能です。4メートル×3メートルの救助網、夜間作業用の探照灯、鎮波用の噴油装置、消火排水ポンプなど、さまざまな道具が装備されました。

救命艇「第一凌波」救助網
救助網



 期待を背負った「凌波」は、永代橋脇に繋留されましたが、残念ながらあまり活躍しなかったようです。

○舵が重くて操舵が困難。特に波浪が強いときの船首の揺れがすさまじい
○回頭しにくいので救助作業に不向き
○機械室などが狭すぎて不便、倉庫がないので備品の整理ができない

 などさまざまな不満が噴出しました。その後、「浪切」(大阪に配備)、「橘」(神戸に配備)など改良された新造船が続々開発されます。「浪切」は後に台風で大破しても沈むことはなく、「橘」は実験で130度でも復原することが確かめられました。

 さらに、1938年には、長さ10メートルの「綿津見」(福岡に配備)が完成します。これは180度でも復原する驚異の性能を誇りました。180度になる(=船が真横になる)と、そのまま回転して反対側で立ち上がるのです。
 
 こうして、ついに「沈まない船」の開発に成功します。しかし、建造費は普通の船の数倍、場合によっては十数倍にも跳ね上がりました。結果としてこのタイプの船は、だんだんと使われなくなりました。海岸線の長い日本では、船舶の「数」の方がはるかに重要だったからです。

帆走する第一凌波
帆走する第一凌波


制作:2021年8月6日


<おまけ>

 帝国水難救済会を創設したのは、「海の護り神」と呼ばれていた金刀比羅宮の宮司・琴陵宥常(ことおかひろつね)でした。きっかけは1886年(明治19年)、紀州沖でイギリスの貨物船「ノルマントン号」が沈没したことです。このとき、イギリス人の乗組員は全員助かりましたが、日本人25人が全員水死したのです。

 日本の世論は「人種差別」だと沸騰しましたが、不平等条約下で海難審判が開かれると、船長の責任は軽微なまま収束してしまいました。
 これが、水難救助のボランティア組織創設と同時に、不平等条約撤廃の動きにつながるのです。
   
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